マイリトルベイビー

01

 新学期がきて、三年生にあがった。森下と海馬は相変わらず同じ八組で、空乃が十組、文系の陸が三組、戸浪が一組だった。
  文系に比べて理系クラスは単位をとらなければすぐに帰ることができる。といっても、裁判部のメンバーは比較的部室で勉強していることが多いため、引退前までは家に帰る時間はだいたい同じなわけだが。
  そんなわけで今日も部室に先にいたのは海馬と空乃だった。
「あれ、森下は?」
  あとからやってきた陸は空乃にそう聞いた。
「なんでもパピーが帰ってくるとかで、大急ぎで帰りましたよぅ」
「お父さんが? なんでそれで大急ぎで帰るの?」
「あの親子、半年に一回しか会えないから顔見せにいったんでしょう」
  海馬が当然、といわんばかりにそう言った。陸は少し首を傾げてから、海馬に近づく。
「そういやあいつがハーフだってのは聞いたけれども、お父さんはイタリアで暮らしているの?」
「ええ。森下のお姉さんと八月朔日先輩といっしょに暮らしているわよ」
「うっそ!? 八月朔日先輩と森下のお姉さん結婚したんだ」
「まだ結婚はしてないみたいだけど。結婚したらあのシスコン弟が煩くなりそうね」
  暗に森下のことを指しながら、海馬がため息をつく。
「森下って歪んでいるから」
「知ってるわよ、そんなこと」
  海馬の言った言葉に陸がてきとうに相槌を打つ。
「あいつのどこが歪んでいるのかわかってる? 陸」
「シスコンなところ」
「どうしてシスコンになったかわかる?」
「そんなのわかんないけれども、この調子じゃあファザコンでもマザコンでもありそうよね」
「お母さんもういないわよ。森下が三歳のときに死んでいるもの」
  海馬の言葉に陸が息を呑む。
「つまりね、お父さんはイタリアに出張中。お母さんは三歳のときに亡くなった、森下が頼れるのはふたつ年上の姉だけ。ってのが歪んだ原因」
「へえ……聖さんがずっと森下を育てたの? 親戚の人とかいないの?」
「まあ少しは助けがあったかもしれないけれども、でもこういっちゃなんだけれども森下の家庭は……」
  ネグレクト(育児放棄)。と、海馬が小声で呟いた。
「そうなの?」
「ネグレクトって聞くと本当に放棄している親のことを想像しがちだけれども、ちゃんと躾をしなかった親とかもネグレクトって言うのよね。今の森下がシスコン以外のところで歪まず育ったのは、お姉さんの力が大きいと思う」
「お父さんは?」
「いい人よ? ただ仕事が忙しすぎて中々帰ってこられないだけで」
「あいつをイタリアに連れて行くとかは考えなかったの?」
「連れて行っても家に帰ってこないのはいっしょなんじゃあないかしらね。だったら慣れた言葉の日本のほうがいいって方針なんだと思う」
  海馬は森下と同じ中学校出身だ。しかも友達の少ない森下の唯一の友達だったと言っても過言ではない。
  陸は高校に入るまで森下のことを知らなかったが、そういえばあいつの表面のことだけ見て色々からかっていたなあ、と思った。
  森下に母親がいないことも知らなかったし、イタリアハーフなことも知らなかったし、頼れる人が姉しかいなかった弟がシスコンになったのをよくわからずに「シスコン」と馬鹿にしていた。
  陸に言わせれば、言ってくれればわかったのに、というやつだが、言う機会をつくらなかったのも陸である。
「あいつさ、」
  陸がぼそっと呟いた。
「なんで私のこと嫌いにならなかったんだろう」
  海馬は陸が思いつめているのを見て、肩を叩くと言った。
「腫物に触るように扱われる以外が心地いいときだってあるのよ」
  森下のことをまったく知らない環境、誰も彼の背景を知らずに付き合ってくれる心地よさ、それがきっと東雲高校にはあったのだ。