マイリトルベイビー

04

「でも好きと言ってほしかったなあ」
  プラットホームで電車を待ちながら森下は呟いた。
「好きです、陸さん。ごはんがごっちん飯なところも太い脚もしびれるような口の悪さもみんな。君がいれば他に恋人はいりません、あ、でもセフレはいります。ずっといっしょにいてください。僕が君に飽きるまで。きっと僕は死ぬまで君のことが好きです。……なんちゃって、うわーイタリア人の血が入ってるとは思えない、呆れるよ、僕自身に」
  周りに誰もいなくてよかったと思いながら笑った。いい思い出になったじゃあないか、と。
  電車がはいってきた。ドアが開いて、中から人が降りてくる。森下は電車に乗ろうとして、足をとめた。夏帆が下りてきたからだ。
「あ、夏帆さん。こんばんは」
「……こんばんは。森下先輩でしたっけ?」
  夏帆は森下にそう言った。
「私まだ、東雲高校には詳しくないけれども、あなた裁判部の弁護士なんだってね」
  この前会ったときは何も話さなかったのに、いきなりぺらぺらと話し始めた夏帆にびっくりした。電車はそのまま出発したので乗りそびれる。
「その弁護士って、大人相手でも通用するの?」
「通用する場合もあるし、しない場合も」
「まあいいわ。ついてきて」
  ぐい、と手首を引っ張られて、今来た道を戻る。
「あの、夏帆さん?」
「担任と校長から呼び出しがあったのよ、子供の親をこちらで探すって」
  夏帆は「冗談じゃない」と呟いた。
「なんで私が母親じゃ駄目だってのよ。私の子供よ? 私が育てる」
「でも夏帆さん、孝作くんの子供は産みたくないって言ってなかった?」
「考え方を変えることにしたの。有名大学に推薦合格できる遺伝子を融通してもらっただけってことに」
  ずるりと森下の肩がこける。
「残り半分は私の血だもの。障害児だろうと、シングルマザーだろうと、私の子供だもの。シンナーなんてやめるもん、節約すればもうひとりくらい育てられるもん、弟だって協力するって言った。私ならできる」
  強い意志を夏帆から感じた。森下は薄々自分が東雲高校のほうに連れて行かれている理由がわかった。
「つまり、君の弁護をしろってこと?」
「そのとおりよ、森下先輩。私と赤ちゃんを守って」
「でも君は高校生だし、弟は中学生でしょ? 将来のこととか、本当にそれでいいの?」
  森下は念を押すように確認した。夏帆は森下を見つめて言った。
「先輩はネグレクトの家庭の子供って可哀想だと思う?」
「なんで?」
「秋野先輩は私のこと可哀想な子だと思っているの。私もちょっと前までそうだと思っていた。でも親といっしょになって自分をいじめるのはやめにする。自分が不幸になることで親に復讐なんて馬鹿みたいだもの。幸せになって、子供をのびのびと育てて、私が悪連鎖を断ち切ることこそが本当の仕返しなんだもの」
  きっぱりと言い放つ夏帆に、森下は言った。
「ひとつ約束してくれる?」
「何ですか?」
「君がどういう形で親に復讐してもいいけれども。子供を仕返しの道具に使わないってこと」
「どういうことですか?」
「子供は子供の人生があると思うんだ。君に君の人生があるように。だから子供に夢を託したり、子供に自分の代弁をさせたり、子供を自分の転生の代用にしないでほしい」
  夏帆は一呼吸置いて、「わかりました」と言った。
「じゃ、いっしょに行くよ」
  森下は身重の夏帆の歩くスピードにあわせてゆっくりと東雲高校へと戻った。

 校長室に戸浪と千早の姿はなかった。
「秋野さんと戸浪くんはどうしましたか?」
  森下がそう夏帆の担任に尋ねると、「保健室で待たせている」と言われた。
「森下くん、君も帰りなさい」
「いや、彼女に雇われたので」
「遊んでる場合じゃあないんだよ。帰りなさい」
  担任がすごみをきかせてそう言った。
「森下先輩には私がいっしょにいてもらうよう頼んだんです」
  夏帆がそう言うと、校長室の椅子に座った。お向かいの席に担任と校長が座ったので、森下も夏帆の隣に座る。
「私、電話でも言ったように子供を里子にやるつもりはありません」
「でも子供だけで赤ちゃんを育てるのは無理でしょう。君はまだ十五歳だし、大人になってから引き取るって手もあるんだし」
「馬鹿なこと言わないでください。ペットみたいに子供を貸したり返したりするなんて、恥を知ればいい」
  夏帆がきっぱりとそう言う。森下は校長の意見も一理あるんじゃあないかと思ったが、夏帆は聞き入れる気がないようだ。
「だいたい、君シンナーやっているんでしょう? そんな状態で子供を育てられるわけがない」
「決め付けないでください。それに、シンナーはやめるんです」
「やめるって言ってやめられたら、もうとっくの昔にやめられたでしょう。それに両親もいないそうじゃないか、そんな経済状態で、赤ちゃんも君も悲惨な結末を迎えるだけだよ」
「そんなことありません。しっかり育てます」
「信用できないと言っているんだ。だいたい責任もとれない年齢で子供を作るのがよくない、島田くんだってまだ学生だし、大学に行く学力があるのに高卒で終わるのは勿体無いじゃあないか」
  変な話だ、と森下は聞いていて思った。まるで依田夏帆が全部悪いみたいな言い方ではないか。だがここはまだ校長の出方を見る時間だ。突っ込む隙はどれだけだって作れるはず。そう思って黙っていた。
「君も学業に戻りなさい。健全な親に育てられるほうが、子供も幸せなんだよ?」
「あのー、いいですか」
  歯噛みしている夏帆の手を握りながら、森下は言った。
「まず妊婦にストレスをかけること自体が不適切です。日を改めませんか? 出産したあとでも十分間に合うでしょう」
「出産したあとから手続きをするだと後手後手だろう」
  担任が口を挟む。まあそれもそうだが、妊婦が腹を立てるのはお腹の赤ちゃんに悪影響だ。
「じゃあ夏帆さんを責める言い方だけでもよしましょう。島田くんのほうにだって責任はあるはずですよね? 彼の言動行為は無責任極まりない。高卒で終わるのは勿体無い? 父親になるのは大卒よりも大切な永久就職です」
  そのことはたしかに大人たちも理解しているようだった。だが、森下と意見が違う。
「親になるというのは、大学を卒業するより難しいことだよ。島田くんにその強さがあると思うかい? 依田さんにもあると言い切れるのかね? 森下くん」
「逆説的に親になる強さがなかったら親になる義務を放棄していいのか、あと夏帆さんにその強さがないと言い切る理由が不十分です。まだ十五歳だから、シンナーをやっているから、ネグレクトの家庭だから、それがなんだっていうんです? 女性は生理が始まれば子供ができる、生命を宿す資格を得ているのには十分です。シンナーの悪影響があるから子供を取り上げるのでは夏帆さんが止めると言っている理由を取り上げているようなものだし、ネグレクトの家庭なんて今の時代いっぱいありますよ」
「いい加減なことを言うんじゃあありません。親のいない家庭がどれだけあったって、それが依田さんの家庭と何か関係があるのかね」
「ないですよね。夏帆さんの家庭に親がいないことはなんら、彼女が親になることについて問題ではありません。でないと親のいない子供は親になっちゃいけないと言っているようにとられますよ?」
  これは半分脅しじみているかな? と思いながら森下は言った。
「もちろん先生方の意見もわかりますよ。彼女の家庭は経済的に苦しいだろうし、親になるのはとても大変なこと。シンナーはやめると言ってやめられるものではないですよね?」
「そのとおりだよ」
  論点はここだ。彼女に育てるだけの能力があるかということ。それはまあ、怪しいような気がすると森下も思った。
「実は僕の家もネグレクトなんですけど、」
  エリクには悪いと思いながらも、その話題を持ち出してみる。
「旧裁判部部長の森下聖は僕のお姉さんですが、彼女はすごいんですよ? 五歳で卵焼きと野菜炒めが作れました。毎日野菜炒めと卵焼きと納豆とごはんが出てくるんです、完璧な栄養バランスですよね。良質たんぱくと野菜と炭水化物。三食同じメニューでも、僕は姉の料理が大好きでした。僕が近所の悪がきにいじめられたときは勇敢に掴みかかって髪の毛を毟り取り、僕が悪いことをしたときは僕の髪の毛を毟り取り、僕にひらがなと数字を教えてくれて、僕の上履きに自分で名前が書けるようにしてくれたんです」
  あまりにリアルすぎる実情に校長たちが沈黙するが、森下はさらに話す。
「父親は仕事が激務で滅多に帰ってこられませんでしたが、僕はちっとも寂しくありませんでした。まあお姉さん子にはなったけれども、姉は僕が尊敬するに値する素晴らしい女性だと思っています」
「何が言いたいんだね? 君のお姉さんと依田さんは違うだろうに」
「親は子供を育てているつもりかもしれませんが、子供なんて立てるようになったあとは勝手に育ちますよ。大人は子供に健全さを期待しますが、健全さを押し付けるのは不健全だし、健全でない子供がいるわけないでしょう。生れたときはみんなまっさらなんだから、最初からネガティブな子がいるはずありません。親が不健全だと子供が不健全になるなんて押し付けはよしてください。僕は姉さんのおかげでここまで成長したけれども、たとえ僕の姉さんが夏帆さんだったとしても、僕が違う未来を歩んだとしても、僕はいずれ誰かの親になるだろうし、そのとき自分が不健全だから子供が可哀想だなんて思いません。だって、子供は子供の人生を歩むのだから、僕とは無関係です。育児を放棄したのってそんなに悲惨ですか? 僕は亡くなった母親に今でも『産んでくれてありがとう』が言えるし、家計を支えてくれた父親に『大好きです』って言えます」
  それは本当に感じていることだった。森下は最後にこう言った。
「子供の未来を不幸だと決め付けないでください。夏帆さんを不健全だと決め付けないでください。可能性を信じてあげてください。周りの大人がやれることは、彼女から子供を取り上げることでなく、支えてあげることだと思うんです」
  校長と担任はしばらく沈黙していた。夏帆も黙っていた。
「依田さんを支えることが、大人にできることだと本当に思うのかい?」
「ええ。とりあえず育児休暇として休学させることと、あと島田くんから養育費をとることですね」
「島田くんから養育費をとるのはともかくとして、学校はどうするんだね?」
「そんなの一・二年遅れたからなんだっていうんですか。制服を着るのがちょっときつくなる程度ですよ。長期留学で留年する生徒もいるでしょう? 理由なんて大差ないです」
  森下はあっけらかんとそう言った。そうしてにっこり笑う。
「元気な赤ちゃん、生まれるといいですね」

 校長室を出て、保健室に向かって歩いているとき、夏帆は森下に言った。
「さっきさ、森下先輩もネグレクトの家庭だったって言ったけど、あれ本当?」
「あまり実感ないけれど、客観的に見るとそうらしいね」
  廊下を歩きながら森下は答える。
「なんでそんなに普通に成長できたの?」
「僕の普通が姉さんとの二人暮らしだったから。他人の家庭と比べたことがないとは言わないけれど、他所は他所だし。ただお父さんに『エリクさん、今度はいつ遊びにくるの?』って聞いたときはお父さんが泣いた」
「お父さん外国人?」
「うん。イタリアのアルベルタ・ベッラってブランドのデザイナーだよ。こんな服で砂場行けるか! みたいな服ばっかお土産で置いていくの」
  森下の言葉に夏帆が「ぷっ」と笑った。笑った顔が普通の高校生そのものだったので、森下も笑う。
「報酬は新生児の写真ね」
「もらってどうするんですか? そんなもの」
「そんなものとは何。君の一番の宝物の寝顔だよ? 最高の報酬じゃあない」
  階段にさしかかって、森下は夏帆に恭しく手を差し出す。
「さあお母さん、お手をどうぞ」
  夏帆が笑って森下の手にてのひらを乗せた。ゆっくりと、暗い階段を下りるのを手伝う。保健室までもうちょっとだ。

 やさしい気持ちになれたのは誰のおかげだろう。
  エリクのおかげか、陸のおかげか、それともまだ生れていない赤ちゃんのおかげだろうか。
  一ヵ月後、母の写真のとなりに赤ちゃんの写真が並んだ。自分の子供ではないけれど、そんなのは別に関係ない。
  先に生れた者にとって、後に生れてくる子供たちはみんな宝だ。もみじみたいな手にいっぱいの幸せを掴むためにみんな生れてくるのだから。

(了)