災難1

 恋人というのは最初に付き合った人が一生の伴侶であることが滅多にない、というのは知っていたけれども、よもや今付き合っている彼女とこうもあっさりと終わりを迎えるとは思っていなかった。
「ごめん、好きな人ができたの」
  そうしておいちゃんはふられた。さらば、三次元の女性。
「そう落ち込むことはないよ、有栖川くん。君は僕と同じ立場に戻っただけだ」
  千木の気休めが右から左に通過していく。二次元の嫁は可愛かったけれども、日常におけるショックをなぐさめてくれる嫁は誰もいなかった。
「ま、おいちゃんにはたくさんの嫁がいるから」
「新しいエロゲー貸そうか?」
「いや、おいちゃんは嫁は買うタイプなんで。千木くんオススメのゲームはある?」
「えーと……僕の好みの嫁でいいならば」
  と、話をしていたところで今村語・薫の姉弟がやってきた。
「有栖川くん、君は二次元にもどってくると信じていたよ」
  語は大仰に手を広げておいちゃんを歓迎した。
「えーと、私は二次元の婿の話をするべきなの?」
  二次元の嫁の話で盛り上がりはじめる男性集団の中で薫が狼狽しながら、買ってきたビールを配り始める。
「まああれだよ、もてない諸君。二次元に乾杯しようじゃあないか」
「おいちゃんの嫁に」
「僕の嫁にー」
「じゃ、僕も」
「うーん、あたしはそろそろリアルの男も欲しい感じだけど、お酒が飲めることに」
  ビールを掲げて乾杯をして、あとはつまみを広げて食べ始める。
「まあ新しい出会いもあるんじゃない? ツインテールとかどうだろう、ツンデレの女子もいるよ、強気の女の子とか」
「ほとんど趣味が偏ってるね、千木くん」
「薫ちゃんはどんな女の子が好みなの?」
  酒を飲み交わし、珍しく語が先に酔いつぶれて、酔っ払ったテンションで自分の嫁について熱弁し出す千木に勇気づけられて、やっぱりおいちゃんは二次元の女性と恋に落ちる運命だったのだと思い直していたときだった。
  部屋でつけっぱなしにしていたテレビに、ニュースが流れる。
「やだ、増水した川に人が落ちて行方不明だって」
  薫がそう言ったので顔をそちらに向けてみた。
――行方不明になったのは川上蓉子さんです。警察・消防は引き続き捜索活動を続け……
  テレビに表示された名前を見て、おいちゃんたちは固まった。
「川上蓉子さんって、やっぱりそうだよね?」
  千木が最初に確かめるために呼びかけた。
「うん、たぶんそうだと思う」
  僕の元・恋人。蓉子が川で溺れたみたいだった。

 蓉子が死んだというのに、大学はいつものように普通に昼から始まった。
  ニュースを見ていた生徒、見ていない生徒、そして僕たち。教室は人がごった返している。
「宿題、やってきた?」
「全然」
  ショックが大きすぎて何もできなかったというのが正直なところだった。おいちゃんとしては彼女が何事もなかったかのように現れる現実があってほしいと願うくらいだ。
「自殺だったんじゃない? 川上って」
  後ろからそんな声がして振り返った。
「ほら、犬童が最近べったりだったじゃん?」
「あーあいつか。あいつ死神だものね」
「なんのこと?」
  何食わぬ顔をして、おいちゃんは話に割り込んでみる。
「知らないの? あいつの彼女、だいたい何らかの形で死ぬんだよね」
「別にあいつが手を下してるわけじゃあないみたいなんだけど、なぜか死ぬんだよね」
  そいつの存在はけっこう有名だったみたいだ。おいちゃんは他人が何をしているかに特に興味がなかったのだけれども、犬童という奴が蓉子の好きな相手だったのだろうか……と少し考えた。そしてその犬童という奴と関わったことで蓉子の運命が死へと傾いたのか、それともこれはただの偶然なのかということも考えた。
(犬童が誰かぐらいは知っておく必要があるよね)
  そこで授業が始まるベルが鳴ったから、ペンと大学ノートの準備をした。

 授業が終わって教室を出る際、後ろの連中に聞けば犬童という奴の正体はすぐにわかった。
  講堂に行くと、よくうるさい奴がいる。自分は天才だとか神だとか、いずれ立派になって日本を征服し世界を征服し、以下略……のような、誇大妄想的な妄言ばかりを吐いている男だった。
「あいつに近づくのはやめたほうがいいよ、有栖川くん」
「死にたくなかったらね」
  クラスメイトはそう言って、教室を出て行った。
  おいちゃんは少し考えて、教室を出る。食堂までの道のりをてくてくと歩いて、犬童がどこにいるか探した。
「犬童ってどこにいるか知ってる?」
  千木にそう聞いてみると、彼は米粒を吐き出してむせた。
「胃が弱い僕への挑戦状? それ」
「何。そんなやばいの、それ」
「犬童くんなら、図書館にいると思うよ」
  こほっと咽せながら、千木がお茶を飲む。
「でも、変わってる人だから、有栖川くんと合うタイプかなあ……」
「千木くんは知ってるの? あいつのこと」
「まあ、変わってる人だけど頭はいいよ。頭もキレる別の意味でもキレるみたいな。いい人ではないと思う」
  千木の言い方が少し気にかかった。あまり悪口を言わないタイプの彼がちょっと苦手意識を持っているようだった。

 図書館。そこは勉学に励む生徒が行くところという印象があった。別にまったく用がないわけじゃあないけれども、普段から入り浸る場所という印象でもない。
  おいちゃんは図書館の中を歩いた。大きな窓から光が差し込んでいる下にそいつはいた。
  アイマスクをつけてだらんと椅子の背もたれに寄りかかっている。耳にはイヤホンが差してあるようだった。
「犬童くん」
  声をかけてみる。反応はない。
「犬童くん」
  もう一度声をかけてみるがやっぱり反応はない。肩に少しだけ触れたところで、彼はいきなり飛び起きるように目を覚ました。イヤホンをとって、アイマスクを上げる。その瞬間に嫌ってほどでかい音楽でクラシックが流れだした。
「何? ってか誰?」
  犬童が眉間にシワを寄せる。
「有栖川っていうんだ。ちょっと聞きたいことがあって」
「答える義務があるの?」
「場合によっちゃあるかもね」
  いよいよ怪訝に眉を寄せ、ともすれば「まあいいや。言い給え」と少し演技がかった口調で彼は言った。
「川上蓉子って知ってる?」
「知ってるけど」
「どういう関係だったのかなって思って」
  そう言うと同時に、犬童はにやりと笑った。
「あーうん、別にね、深い関係ってわけでもないよ。なんだろう、彼女との関係は理解されたい人と理解者という関係が正しいんじゃあないかな」
「どっちがどっちを?」
「超人が理解を欲するようなところがあると思う? 俺が理解者」
  なんだか不愉快な気分だった。何が不愉快なのかまだ明確にはわかっていなかったけど、なんとなく自分よりも蓉子のことを理解しているのは自分だと言われたような気がしたのだ。
「何か、した?」
「何かって?」
「何もしていないならいいけど」
「何をと聞いてくれないと答えられないな、その質問には」
  すでに関係を持ったのかという質問も嫌だったし、彼女が死ぬのに何かしたのかと聞くのもどうかと思った。
「あのさ、山本くん」
  たぶんわざとだと思う。間違った名前を呼んで、犬童は言った。
「俺はさ、川上さんってまだ死んだとは決まっていないと思うんだよね。まだ死体が出てきたわけじゃあないし」
「僕も生きていることを願っているよ」
  おいちゃんだって死んでることを前提に話がしたいわけじゃあない。ただ、確かめなきゃいけないことは確かだった。
「もし、君が言ってることが川上蓉子が死んだ原因に俺が関わっているのかと聞かれたら……」
  答えはNOなんだろう。そう思った瞬間、
「答えはYES、かも?」
  へらっと笑って犬童が去ろうとした。思わずその肩を掴んで止める。
「どういう意味か教えてほしいんだけど」
「彼女を止めなかったということはそれだけで関わったということだよ」
「止めなかった?」
「彼女は死にたがっていた、かもしれないね。まあ口に出して『死にたい』なんて言うタイプではなかったけれども」
  肩の手を払い、犬童はおいちゃんを置いて去っていった。その後姿を見ながら、蓉子を自分が追い詰めたのだろうかと考えた。あるいは周囲が追い詰めていることに気づけなかったのだろうかと。

 頭の中を犬童と蓉子が行ったりきたりしていた。彼女たちがどういう関係で知り合ったのかとか、彼女たちの間で何があったのかとか、彼女たちは何を話したのかとか、そんなことは、おいちゃんの知らないところの話は何も知らない。蓉子に聞こうにも、今となっては聞けない。
  バスタブの中に顔を半分浸して、視線を落とした。蓉子は川の中に落ちて苦しくなかったのだろうか。水は鼻と口、どっちから先に入水したのだろう。それでも死にたいと感じていたのかな……そんなことがぐるぐると頭の中を駆け巡った。
「ああもう……」
  おいちゃんらしさの欠片もないくらいの狼狽ぶりなのですが。どんなときでもバイブル(お気に入りのエロゲー)だけはプレイできると思っていたのに、今夜はそれすら手につかなさそうだった。

 図書館で宿題に必要な内容を調べるために行った。結局身の回りで何があったとしても、学徒ということは宿題があるということだ。高い授業料を払っている以上、それに見合う分だけは勉強したい。
  そう思うのに、おいちゃんの頭の中は文字がスケートを楽しむように滑走していた。全然頭の中に入ってこない。滑った文字たちはどこに消えていったのだろう。何度頭に叩き込もうとしてもやっぱり滑っていった。
「憔悴しているね、有栖川くん」
  ねっとりした声に顔を上げる。粘着質ボイスならばおいちゃんの上を行く今村語がノートを覗き込んでいた。
「さっきから一文字も進んでないし」
「いつからいたの?」
「えーと、五分前?」
「やだ、声もかけずに怖い人」
  気持ち悪いものを見るようにそう言うと、語はけらけら笑いながら隣に座った。
「まあ、昨日今日ぐらいじゃ回復しない傷だってのはわかるよ」
「ああまあ……」
  おいちゃんは少し言葉をえらぼうと間をとった。
「傷つけていたのかな、って考えた」
  だけど適切な言葉はそれくらいしか浮かばなかった。
「おいちゃんといっしょにいて、楽しんでくれていると思っていたんだ。いつも笑っていたしさ、特に喧嘩をしたこともないし。何か険悪な瞬間ってあったかなあって考えたんだけど、楽しかった思い出ばかり思い出して、全然、何も、心当たりがないんだよね」
「なんでそこまで追い詰められてんの? ただ事故で落ちただけかもしれないし」
「自殺かもしれないって仄めかしてくる奴がいてさ、」
「へーえ。何、その腹立つ奴」
  低い声でばっさりと腹が立つと言い切って、語は言った。
「とりあえずさ、まずおいちゃんが冷静になることが大切じゃない? 健康とかも心配だし、ちゃんと食べてる?」
「あんま食べてないけど、それはもともとだしね」
「薫ちゃんに何かつくらせて持って行かせようか?」
「いや、食べきれないと悪いですし。というかどうして語と薫ちゃんはうまくいくの? 姉弟にしたって仲よすぎでしょ」
「僕と薫ちゃんは悪魔の契約をしているのだよ。僕は薫ちゃんの日々の酒代とプリン代を保障する、薫ちゃんは僕が安心して二次元の子と戯れれる生活空間を提供する」
「メイドと二次元にしか興味のないご主人様じゃん」
「完璧でしょ。プリンと酒が大好きなメイド。なかなかここまで安上がりなメイドっていないよね」
  語のばっさり割り切る度合いはさすがのおいちゃんでも真似ができないと思う。
「で、さ……それで落ち込んでるの? その嫌なことを言った奴の発言で? だったらそんなの気にしないほうがいいと思うよ」
  語はそれだけ言って立ち上がった。気にしないに限るのは自分でもわかっているのだけれども、いざ当事者となるとそこまで感情を割り切るのは辛いものがある。

 今日も雨が降っている。今年の梅雨はどう考えてもおかしい。地盤の根元から土砂が崩れて下流が埋まった地域もあるそうだ。
  大学から自宅までの道のりの途中には彼女の落ちた川がある。通りたくもないのに迂廻する道がないため、おいちゃんは毎日そこを通る。下を見れば轟々とすべてを飲み込みそうなうねりが出来ている。この中に消えたら、蓉子のような体力のない子だったらすぐに消えてしまうだろうと思った。死体が上がってくるかも少し怪しいかもしれない。
  おいちゃんの元気のなさをさらに加速させること、それは橋を歩く人たちだった。ここで蓉子が死んだとしても、何事もなかったかのように今日も通勤通学と忙しく橋を横切っていく。そりゃ、いちいち悲しめとは言わないよ? 死体が上がってこないから、花ひとつ飾られていない橋の上は、事情を知らない人たちが何もなかった日の延長上で生活している。
  知らない前には戻れない、失う前にも戻れない。知り合う前に戻れない、友達に戻ることさえ今はもう無理だった。
  はっきり言い切ってしまうと、おいちゃんに落ち度があったかと聞かれたらたぶんないと思っている。特にそういうポカをした覚えはない。蓉子ははっきりと「好きな人ができた」と言った。つまり、おいちゃんのことを嫌いになったというよりは他にもっと好きな人ができたということなのだろう。おいちゃんの落ち度はおそらくゼロだと思う。
  とはいえ……
「犬童のほうがおいちゃんより好きってどういうこと?」
  まあ、はっきりそう言われたわけじゃあないけれどもさ。男の俺から、いや、男でなくて女だったとしても無理だと思うタイプだと思うのだけれども。

 そうして忘れよう、忘れようと思って過ごしていたある日だった。また川に落ちて死んだ人がいた。
「あそこの橋、滑り止めつけたほうがいいんじゃない? なんかこう、接着剤的な」
「それ、足が離れないよ。薫ちゃん」
  千木と薫がそんなことを話していた。
「でも、きっと幽霊と接着剤だったら接着剤が勝つと思うんだよね」
「接着剤が勝つという方程式がよくわかんないけど、なんなの? その幽霊って」
「え、千木くん知らない? あそこ幽霊が川に引きずり込むって言われてるんだってさ」
「ええー。誰の情報?」
「犬童くん」
「信じちゃだめだよ、それ。犬童くんの情報は」
  千木と薫の話を聞いていておいちゃんは眉をひそめた。
「犬童が幽霊が出るって言ってるの?」
「なんか女の人の幽霊がまだ成仏していないとか言ってた。寂しさ余って握力百倍でね、掴んだ人を引きずり込むんだって」
「新しいね、寂しさ余って握力百倍。僕は逃げられそうもないや」
  千木が隣からそう言った。
「それさ、女の幽霊って言ってたの?」
「うん」
「名前とか言ってた?」
「ううん。って、え? ええー! あれってもしかして川上さんのことなの?」
「だとしたら本当に不愉快だよね」
  とはいえ、二人も川に落ちた幽霊橋は大学生の間でちょっとした噂になった。誰もがその橋を通らないと大学に行けないのに、橋には人を引きずり込む幽霊がいるというのだから、「まさか」と思っている連中たちも完璧に否定しきることはできないのだろう。
  おいちゃんは蓉子が幽霊になって人を引きずり込んでいるなんていうそんな小学生じみた噂は嫌いだったけれども、それからしばらくも耳に入ることがあった。
「誰から聞いたの?」
  と聞いてルーツをたどると必ず犬童にたどり着く。ここまで死んだ人を冒涜できるということ自体に腹が立った。

「犬童くん、話があるんだけどさ……」
  図書館で本を読んでいた犬童に声をかけた。彼はこちらを見る。
「ああ、山本くんか。何?」
  犬童は笑顔を作ってそう言ってきた。たぶん有栖川ともう一度言ったところで山本くんから変わることはないだろう。
「幽霊の噂流してるの、君?」
「え、本当のことだよ」
「川上さんのことそういうネタにされるの嫌なんですけど。恥ずかしいと思わないんですか?」
「なんで?」
  恥ずかしいと思わないのか。
「それが恥ずかしいことってわからないことがまず可哀想な人だね」
「俺は『なんで?』って聞いたんだけど、それについての答えを聞いていないよ」
「倫理について語るつもりはないけれども、人命についてかるんじる言動をするのはよくないと思う。何より僕が嫌なんだよ」
「なるほど。俺の神ゆえにわかってしまう人間の心理を超越してしまった言動が気に触ったのならば謝ろう」
  全然謝罪されている気がしなかった。
「犬童くんってさぁ……人をおちょくることはできても、きっちり会話できないタイプ? 大学生にまでなって恥ずかしいよ」
「恥の概念は恥ずべき概念だよ、有栖川くんだっけ?」
  どうやらおいちゃんの名前を覚えていたらしい。おいちゃんは次にどう言うか考えた。不毛な罵り合いをし続けても意味はない気がする。
「何か知ってるの? 川上さんについて」
「知っているって言ってほしいの? 『彼女のことは何でも知っているのだよ、きっと君よりもね』って言われたら?」
「人の心の中を何でも知っている人なんていないよ。そう思っている時点できっと犬童くんは川上さんのことを知った気になっているだけなんだ」
「ま……全知全能な俺としては有栖川くんの心の内側も読心してしまっているけれどもね」
  なんでこんなに犬童は演技がかった口調で話すのかわからない。ただ、その口調がやたらとおいちゃんの感情を逆撫でする。
「僕の心を読んだところであなたにとっては何もいいことなんてないよ」
「いやいや、神としてはこの啓示を伝えずにはいられないのだが、だが全知全能であるがゆえにこれから起こる現象を、秩序を、摂理を守らなければいけない。それがゆえにこの俺は沈黙を守り続けることにするよ」
  大丈夫なんだろうか、この人。
「聞きたくない?」
「聞きたくないです」
  おいちゃんは踵を返した。
「あ、ひどい。聞いてよ、お願い聞いてください。聞いてくれないと泣くぞ、有栖川くーん、有栖川聡くん、アリスー、おいちゃーん」
  あらん限りの言葉で犬童に呼ばれたけれどもおいちゃんは無視して歩き続ける。
「おお神よ哀れな青年が私の啓示を受け取手くれません彼は救いを欲しているのに自らそれを望んでいないと押しのけるのです神よこの世に清浄たる救いは何もありはしないのでしょうか哀れな青年を救う手立ては何もないのでしょうか彼はこのまま淘汰されてしまうのでしょうか」
  犬童は早口でワンブレスにわけのわからないことを呟いている。おいちゃんは気持ち悪い痛い人を無視して歩き続けた。
「ひとつもありはしないのでしょうかあなたをのぞいてありはしないのでしょうかおおかみよそれはあまりにもあまりにもあまりにもあまりにもあまりにもひどすぎはしないでようかかみよかみよかみよかみよかみよそれはあまりにひどすぎますあなたのつくったせかいというのはかんぺきなあなたのけいかくとしてはあまりにげせんすぎる」
  もはや呪詛のようになっていた。
「Then...I am the only one!I am the god!Praise me!Hail to your lord!I am your lord absolutelyyyyyy!!!!」
  いい加減うるさくなってきたと感じたので振り返った。こいつはかまってくれるまで後ろで騒ぎ続けるつもりだろうか。
「うざいです」
「『うざい』のあとに『です』をつけるあたりが丁寧なようで失礼だよね、君。神に対して」
「そういうところがうざいです」
  もう一度念を押した。
「だいたいね、相手して欲しいならば言うけれども、あなたはとても幼稚なんですよ。自分の世界がすべてで、自分の価値観がすべてで、この世のものを全部知った気になっているけどそれは井戸のかわずでしかない。自分のちっぽけな世界を否定されることを拒絶して世界の広さを否定するような愚かな存在です。そのキマっちゃった頭を少し修正してくれないと、人間の僕と会話をするのは多少難しい気がします」
「なるほど。君は人間だから井戸の中の神にはつばを吐くのだね。ふふふふふ、世界はたしかに広いのかもしれない、だけど真理は井戸の中にこそあったというわけだ」
  もう何を言っても駄目だという思いで僕はもう一度踵を返した。
「有栖川くん、幽霊に気をつけなよ?」
  犬童の声がした。僕はもう狂人を相手にする時間の無駄さを知っていた。馬鹿を相手にするのも時間の無駄だけれど、狂人を相手にするのはきちがいに雄弁という武器を与えているようなものだ。

「おいちゃん、最近創作してる?」
  今村薫がおかずを作りに来てくれた日、煮物と麻婆豆腐を出しながら彼女はそう言った。
「最近そっちのほうまで頭回らなかった」
「そうか。おいちゃん、最近処理してる?」
「何を?」
「主に性的な」
「何をおっしゃる。存在が卑猥と言われるおいちゃんに」
  食欲も創作欲も性欲も全部落ちたと思われていたらしい。
  出された料理の前で手を合わせて、黙々と煮物を口に運んでいるときだった。大人しくそれを見ていた薫が携帯を取り出す。
「おいちゃん、なんか変な情報が文芸部の掲示板にあがってるよ」
「何?」
  薫も語も千木もおいちゃんも、みんな文芸部のメンバーだ。
「なんかさ、例の幽霊事件なんだけど……女の人の姿が橋の上で確認されたんだって」
「…………」
「しかも川上さんの雰囲気に似ているとか書いてある。やんなっちゃうね」
「ほんとやんなっちゃうね」
「削除依頼しておく?」
「いいよ。消してかえってアホが騒ぐといけないし」
  スルー推奨と呟いて、今度は麻婆豆腐にとりかかった。薫の麻婆豆腐は醤油の味が少し強い。蓉子の麻婆豆腐は甘辛かったなあと思いながらそれを口に運んだ。

 翌日、また川に引きずり込まれた被害者が出た。
「誰か変質者が川に落としてるんじゃない?」
「怖いなあ。あの橋渡らないと大学これないのに」
  語と千木とおいちゃんとで原稿の打ち合わせをしているときでさえ、その話は出てきた。
「変質者っていえばあれだよね、タッちゃん」
「いやいや、語くんの変態っぷりに比べれば僕なんて」
「謙遜しなくていいよ、タッちゃんのほうが変態だって」
「……うん」
「変態って言われて喜ぶのタッちゃんくらいだよね」
  そんな会話を聞きながら、おいちゃんは変質者と幽霊について考えていた。幽霊はもちろん存在しないだろう、当然川上蓉子が犯人なんてことはありえないのだ。
「変態っていえばあの人もそうじゃない? 犬童くん」
「犬童くんを変態と言っちゃだめだよ。あれはもう人外だから」
「神だものね。なんだかあやかりたい神様じゃあないけど」
  犬童が変質者の正体だった、なんてことはあるのだろうか。もしそうだとしたら、幽霊が人を殺しているとうそぶいて回って、橋を通りかかる人を突き落としているということだ。なんだかとんでもない奴だと思った。
「有栖川くんはこの事件に関わっちゃだめだよ?」
  語がいきなりそう言った。
「なんで? 関わらないよ」
「おいちゃんは結局、関わると決めたらきっちりと関わっちゃうほうだから。特に身内が冒涜されたときはね」
  やたら図星なことを言われて黙った。
「おいちゃん、」
  語は真面目な顔をしてこちらを見た。
「二次元に行くためにはどうすればいいだろう」
  真面目に聞いたおいちゃんが馬鹿だった。
「死ぬしかないんじゃあないかな。そうすりゃ行けるんじゃない?」
「じゃあタッちゃんを殺してみて、それで二次元にいけたかどうかを確認しよう」
「ええー。でも二次元にいけるなら……」
  普段ならばこの会話においちゃんも加わっているのだと思う。だけど普段と違って、「二次元に行くためには死ぬしかない」の響きがやたら危険な感じがした。蓉子も結局、漫画やアニメが好きだったけれども、まさか二次元に行くために死んだなんてことはないよね?

「夜になっちゃったね」
  全員が揃うまで待ってから打ち合わせを始めたら、終わったのは夜になってからだった。
「僕たち飲んでから行くけど、おいちゃんどうする?」
「あ、今日は帰ります」
  千木の誘いを断って、おいちゃんは帰路につく。最近はお酒もあまり美味しいと感じない。酒が不味いときは心が病んでいるときだと誰か漫画のキャラクタが言っていた。だけどおいちゃんとしてはただ、美味しくないときにお酒に高いお金を払いたくないだけだった。
  今日も雨が降っている。暗闇の中で川がごうごうとうねりをあげているのが聞こえた。
(二次元に行くためには死ぬしかない)
  千木の馬鹿な発言が頭の中でリフレインする。狙いを定めて突っ込めばあの渦のひとつくらい二次元につながっているのだろうか。千木を落としてみて確かめなければ。
  その刹那だった。おいちゃんの背中を誰かに強く押された。前のめりになり、おいちゃんはバランスを崩す。さらにそこにもう一度背中を強く押す感触。殺そうとしている――そう思った瞬間、おいちゃんはバランスを崩して橋の下へと落ちた。

「おいちゃん死ね」
  弟の憎まれ口が耳に聞こえたときに、目が覚めた。
「ち、目が覚めたか」
「銀太くん、本当に死にかけたときくらい労りなよ」
  次に飛び込んでくるのは千木の声。白い天井が目に入ってきたとき、たぶん病院に運ばれたのだろうと思った。
「おいちゃん復活したし、俺帰る」
「お疲れ様。あとはこっちで面倒見ておくから」
  視線をずらすと語と薫もいた。布団を少し剥ぐと、病院の常備用とおぼしきパジャマを着せられていた。
「自宅に電話したら、銀太くん一番に飛んできたよ」
「めんどっちいめんどっちい言いながら心配していたんじゃない?」
  銀太のことだから死水を取りにきたというよりもトドメを刺しにきたんじゃあないかと思ったけれども、あいつはトドメを刺さずに帰っていった。
「おいちゃん川に落ちたの?」
  あそこから落ちて助かったのだとしたら奇跡だ。
「たまたま中洲にあげられていたみたいだね。本当しぶといんだから」
  語が笑ってそう言った。死ななくてよかったけれども、誰かが気づかなかったらいずれ死んでいたのだろうなと思った。
「やー、それにしても犬童くんに感謝しなきゃね」
  薫の言った言葉に「ん?」と感じた。
「犬童の狂言になんで感謝しなきゃいけないの?」
  思わず棘のある言い方になった気がする。
「違って、おいちゃんが落ちたことを教えてくれたのが犬童くん。たぶんレスキューに連絡したのもあの人」
「人としての知性が残っていたんだね、彼にも」
  薫の説明に、語がしみじみと呟く。
「犬童はきてるの?」
「いると思う? おいちゃんが息を吹き返すかどうかまでチェックするような人じゃあないよ。こっちに連絡して、帰った。『神として当然のことをしたまでだよ』とか言ってたよ、人としてじゃあないんだね」
「まあひとでなしという意味では人ですらないのかもしれませんがね、今回は人らしいことをしたと思う」
  千木と語の会話からすると犬童が助けてくれたのは本当のようだった。
  言っていることはやはりおかしいが、犬童がおいちゃんが落ちた瞬間を見ていたらしい。
「でもさ……」
  言いかけて、やめた。
「やっぱり、言うのやめておく」
  犬童がそんなタイミングでおいちゃんを助けた偶然がやたらあざといと感じるのはおいちゃんの悪意なのか、それともこの偶然は疑うべき要素なのか。

 川を通るときに警戒する連中はぐっと増えた。小学生でもないのに集団下校を心がける人もけっこういた。
  他のところでも人が溺れたりしているから、警察はこの橋をパトロールさせる人材が割けない。つまり自分たちで自分の身を守るしかないということだ。
  橋の上で立ち止まることが多くなった。誰かに背中を狙われていないか、自分でも自意識過剰かって思うほど振り返るようになった。そうして他の誰かさんの背中を押す手もないか、無意識のうちに見ていた。
「誰が押したとか、心当たりあるの?」
  千木に聞かれて首を振る。犬童が怪しいと言うにはまだ要素が全部そろっていない。
「ほら、男の手か女の手かだけでもわかると、警察も探しやすいかも」
  言われておいちゃんはあのとき自分を押した手の感触を考えてみた。手のひらの大きさ、指の太さ、強さなど。
  手のひらはそんなに大きくない、指はけっこう細かったと思う、力は二度押して突き落としたところから見ても、おそらく女性だ。犬童の手がそんなに細かったイメージはないし、犬童犯人説はたぶん間違っているのだろう。
「そういえば、犬童くんにはもうお礼言った?」
  千木の言葉にぎょっとして振り返った。
「助けてくれたんだし、変な人だけどお礼は言っておかなきゃ」
  たしかに言っていることは正しい。だけどおいちゃんの気持ちとしてそれを素直に受け入れるのは難しかった。

「有栖川くん、社会の規範に縛られている君はきっとお礼を言いにきてくれると思ったよ」
  やたら最初から嫌な言動をしてきた犬童に思わず怪訝な表情をしてしまった。お礼を言うつもりでやってきたのに、言う気が失せてしまいそうだ。
「助けてくれたって聞いたから、ありがとうございました」
  だけど社会の規範を重んじる程度の理性は働くおいちゃんとしては、そんなのどうでもいい犬童くんと違って社交辞令ぐらいは使えるのであった。
「いやいや、いいのだよ。ついでに言うならシューマンのクライスレリアーナが入っているCDとかお礼に買ってくれると助かるのだけれども」
  シューマンのCDくらい大学生なんだから自分で買えばいいのに。こいつクラシック好きなんだっけ? ぴったりと言っちゃぴったりだし、ミスマッチといえばミスマッチな感じだ。
「金払うから、自分で買ってくれると助かるんだけど」
  あまり何度も顔を合わせたいとは思わないし。
「じゃ、今からいっしょに買いに行く?」
「いいよ」
  一回で用事がすむならそっちのほうがいい。財布の中に三千円くらいは入っていた気がする。最近はあまり多く入れていないけど、一枚くらいなら買えるんじゃあないだろうか。いざ足りなかったらカードを使えばいい。
  少し大きなCDショップがある方向まで歩き出しながら、僕らは沈黙した。何を会話するべきなのだろうか。今下手に口を開けば、挑発的なことを言ってしまいそうだ。おいそれと不用意な言動をするのはおいちゃんとしては避けたいことだった。
「背中を押した手はこの手よりも小さかったんでしょ?」
  ふと、そんなおいちゃんを挑発するようなことを犬童が言い出した。犬童の手はごつごつして大きいけれども、けっこう細い。
「もっとやわらかく、もっとちっちゃく、もっとこう……」
  何を言い出すんだろうと思った。
「――川上蓉子のような手だった。違う?」
  うんざりしてきた。怒れば怒るほど、きっとこの男は喜ぶのだろうと思うと怒るのもなんだか嫌だった。
「女の人の手ではあったよ」
「つまり俺の手とはとうてい違う感触だったわけだ」
  犬童は背中に回って、おいちゃんの背中を軽く突いてきた。
「俺が犯人だと思ってるんでしょ?」
  背後から低い声で言われた。ああそうだよ、君が犯人だったらどんなにいいのだろう。
「犯人としては、こう言えばいいのかなあ? この事件について今度しゃしゃり出てきたら、次こそ有栖川くんの命を保障できないとか」
  殺すという言い方はしなかった。言われたらどこかに訴えることだってできたかもしれないのに。
「でもまあ、実際保障できないよ。何度も現場に居合わせるわけじゃあないだろうし、有栖川くんのことをストーカーしているわけでもないからね」
  当たり前だ。むしろあの場に犬童が居合わせた現実のほうがなんだかおかしいと感じてしまう。そして助けてくれた現実はさらにおかしいと感じる。
「川上さんと何話したか、少し話そうか」
  犬童はそんなことを言い出した。
「有栖川くんの手について話していたことがあったよ。『聡くんの手は短くて太い指とほっそりして長い指がまばらにあるの。哲学者の指よ、聡くんは考えるときにあの指で顎や机を小さく叩くの。私に話してくれることは楽しいことばかりだけど、きっと色々考えているのね』とか。実際に川上さんと話ながら思索していたこととかあったの?」
「あったとして言う必要があるの?」
  あったと思う。何かに夢中になったり、その場を楽しませようという自分と、たまに違う自分がいるときがある。
「俺が思うにさ、有栖川くんは外側に意識が向いているタイプなんだよね。相手がどうだ、というのには意識が向くんだけど、自分がどうだには着目しないというべきか。だから俺のように自分がいかに動きたいかという着眼点で常に動くタイプが好きじゃあないんでしょ?」
  当たり前じゃあないか。自分勝手が悪いとは言わないけれども、大きく秩序を乱す行動に対しては毅然と向かわなくちゃいけない。
  CDショップの中に入り、クラシックの棚に行く。シューマンのCDはあまりなかったから、犬童はその中からてきとうにひとつ選んだ。
「君が今、あれこれ考えている内容の答えを教えてあげよう」
  CDを渡されたので、それの会計をすませて犬童に渡したときにそいつはそう言った。
「表面では君は次にどう行動するべきか考えているのかもしれないけれどもね、君が目を向けていない現実は何か――ずばり言うわよ」
  細木数子のようにオネエ口調でそう言って、犬童はおいちゃんの胸を指で突いた。
「『傷付いた』という現実から逃避しているんだよ」
  じゃあね。犬童は小走りに去っていった。何か反論してやろうと思ったのに、反論する前にそれを否定しようとする気持ちがそもそも感情論でしかなかったことに気づいた。

 自分の心は、当たり前のように存在する。相手の心は、世界は、自分以外のものは洞察しようと思って初めて目に正しい姿が映る。だけど自分という存在は当たり前のように自分自身として存在していた……それが今までのおいちゃんの感じ方だった。
  傷付いた? たしかに傷付いたかもしれない。無傷だと言うにはあまりにも色々なことがありすぎた。
  だけどこの一連の流れ全部がおいちゃんが傷付いたことの防衛心からやっていたということ? そんなことってあると思うのか。今はたしかに冷静じゃあないかもしれないけれども、少なくともそんな弱さから行動を起こすタイプの人間ではない。
  とはいえ、もう犬童と関わるのは極力避けようと思った。あいつと関わると碌なことが起きないのは確かのようだったし、あまりこっちにメリットがあるわけでもない。近づく意味はあまりないと思った。

「有栖川聡くんですか?」
  学食で千木と食事をしていたときに声をかけられて、ミートソースパスタを飲み込んでから頷いた。声をかけてきたのはスーツを着た中年の男性たちだ。
「少し、場所を変えませんか」
  あまりいい人相に思えなかったから、「ここでどうぞ」と言ってみる。
「圭川突き落とし事件で少しばかり事情聴取をしたいんです。捜査令状も出ているんで、ご協力願います」
  おいちゃんよりもお向かいで食べていた千木がびっくりしているようだった。
「待ってください、有栖川くんは殺されかけた側ですよ?」
  千木がそう刑事たちに反論した。
「有栖川くんがよくあの場所にとどまっていたという情報が入っているので、何か知っているのではないかという事情聴取だけですから」
「本当に、事情聴取だけですよね……?」
  千木が何度も念押しする。昔のような強引な調査はないにしても、おいちゃんの嫁が押収されるのは避けたかった。
「わかりました、協力します。要は僕がいない間に犯行が続けば、それが無罪の証ですよね?」
  そう言ってみた。大学に休学届を出して、一ヶ月くらいどこかで引きこもって生活しても、おいちゃんとしては問題はない。
  荷物をまとめて、愛読書とおいちゃんにとってのバイブルを最後に鞄に突っ込む。
  銀太が「おいちゃんついに捕まったか」と言った。
「すぐ戻ってくるよ、残念だったね。銀太」
  安心させる目的で言ったのか、からかう目的で言ったのかはわからない。ともあれ、おいちゃんの拘置所での生活が始まった。
  まだ犯人というわけではないし、自ら協力しているのだから扱いは粗雑ではなかった。だけど体を思うように動かせるわけでもないし、やっぱり不自由な部分もあったりする。
「そろそろ疑いは晴れましたか?」
  ある日おいちゃんは持ってきた本も全部読み切ってしまい、プロット用のノートも切れてしまったために刑事さんにそう聞いてみた。
「もう少し捜査させてほしい」
  刑事の答えはそんな感じだった。何度聞いてもそうだった。
  おいちゃんはちょっと仮説を立ててみた。きっとおいちゃんが入ったと同時に、川に人が落ちることがなくなったのだろう。だからおいちゃんが本当に犯人なのかそうでないのかを見極める必要が警察側に出てきたということだ。
「面倒だなあ……」
  ノートパソコンを持ってくるべきだった。ならば拘置所に入った経験を生かした小説が一本くらい書けたかもしれないのに。

そんなある日、おいちゃんの薬指から指輪が抜け落ちた。
「あれ……」
  指輪が抜けるほど指が細くなっていたのか。栄養失調というわけではないけれども、やせやすいというのは問題かもしれない。
  床に転がった指輪を拾った。その内側に、傷のようなものを発見して、目を細める。
「help me?」
  今まで気付かなかったメッセージに、おいちゃんはちょっとだけどきりとした。
  何を訴えたかったのだろう、何から助けてほしかったというのだろう、口で伝えてくれれば、何かできたのかもしれないのに。

 おいちゃんが解放されたのは三ヶ月経った頃だった。
  これから教授たちにどんな論文を書けば単位を貰えるかについて相談しなければいけない。事情を考えて、なんらかの配慮はしてくれると信じている。教授たちはそこまで鬼畜ではないはずだ。
  教室に入ったとき、おいちゃんの目に飛び込んできた人物。
「蓉子……」
  蓉子は少しやつれていた。だけど友達たちと笑ったりして、その笑顔がいつも見ていた笑顔とおんなじで、教室に広がる喧騒もいつもどおりで、まるですべてを失う前に戻ってきたような錯覚さえ覚えた。
「あ、おいちゃんが帰ってきた」
  拍手が起こった。なんだか照れくさい気持ちになりながお辞儀をし、席に座る。ほどなくして授業が始まった。
  随分前の方に座っている蓉子に話しかけるタイミングは授業中にはなく、授業が終わったあとにおいちゃんはみんなが出るのを見計らって、蓉子に声をかけた。
  蓉子は「心配かけちゃってごめんね」と笑った。
「いいよ、無事だったんだし」
  思わず口がほころんだ。恋人でなかったとしても、友達ですらなかったとしても、生きていたというその事実が嬉しかった。
「蓉子はもう体調大丈夫なの?」
「うん。大丈夫だよ」
「川に落ちたって聞いたけれども、平気?」
「誰がそんなこと言ったの? あ、もしかして川のほとりに荷物置いていったから勘違いされたのかな。ちゃんと犬童くん説明してくれなかったんだね」
  蓉子は笑った。またあいつの名前が出てきたところでちくりと胸が痛んだ。
「私ね、学校行きたくなくなっちゃったの。でも家に帰るとお母さんと喧嘩しちゃうでしょ? だから犬童くんが『うちに来る?』って言ってくれて。ちょっとの間失踪したフリすれば親も心配してくれて娘の大切さを思い出すだろうって言われてさ」
  なんとも犬童がそそのかしそうな理論だと思った。人が心配する気持ちをなんだと思っているんだ。
「そういうときは、次からおいちゃんにも相談してね。親を心配させない方法で、蓉子が成り立つ方法をいっしょに考えるくらいならばおいちゃんにもできるから」
「あはは、そうだよね。最初から聡くんに相談すればよかった。馬鹿な私だね」
  蓉子は笑う。ねえ、蓉子。そんな大学を辞めたくなるくらい追い詰められることがあったの? おいちゃんよりもまったく知らない奴のほうが信じられると思うくらい何かおいちゃんは悪いことをしたの? 聞きたいことはいっぱいあるよ、だけどそれを聞いたと同時に、おいちゃんと蓉子の関係は本格的に破壊される方向へと進むのだ。
「蓉子さん、」
  だけど言わなきゃいけない。自分に素直にならないのは、相手に素直になれないのは、一番失礼な行為だから。
「おいちゃんは何か、蓉子を傷つけるようなこと、したのかな?」
  何かしたのならば、言ってほしい。たとえ山のように不満が吹き出したとしても、無知なままいくよりは、知りたいと感じてしまう。
「聡くんは、正しいよ」
  蓉子はそれだけ言った。ほっとするような、だけどちょっと不安な気持ちになった。それは本心だよね? おいちゃんに気をつかっていたりしないよね? 蓉子。
「あ、そういえば服泥だらけになっちゃったでしょ。買いにいこうよ、聡くんが好きだったあのシャツ」
  蓉子が話題を変えるようにそう言った。あのシャツとはたぶん、川に落ちた日にぐちゃぐちゃになってしまったシャツのことだろうと思って、じゃあ買いに行こうかと言おうとした瞬間だった。
「なんで蓉子が、シャツが駄目になったこと知ってるの?」
  シャツが泥だらけになって捨てたのは翌日のことだ。だけどゴミ袋でも開けない限りそれは知られないはず。
「え? 病院に行った千木くんたちが泥だらけのシャツだったって」
「あのときおいちゃん、パジャマだったよ」
「…………」
「おいちゃんのお気に入りのシャツが泥だらけになったの知ってるのってさ、ゴミ袋を漁った人か……」
  言いたくなかったけど、その可能性はほぼ確定だった。
「あの日、川に突き落とした犯人が蓉子だった……としか考えられないよね?」
  誰もいない部屋に沈黙が続く。蓉子はこちらを見て、どうしてそんな目で見るの? という表情をしてきた。おいちゃんだってそんなことを聞きたくはないけど、むしろ信じたくはないけど、だったら否定してほしいんだよ。「私じゃあない」って言ってくれれば、おいちゃんだってそれ以上追求したりはしないよ。知りたいわけじゃあない、そんな事実うが知りたいわけじゃあない。
「だって……」
  その接頭語は、僕としては一番聞きたくない釈明の始まりだった。
「聡くんには、言ってもわからないよ」
  しかも、続く言葉も一番聞きたくない「お前に何がわかる」というメッセージだった。
「きついこと言うようだけどさ、」
  おいちゃんはきついことを言いそうだった。しかもすこぶるきついことを。
「人を数人殺しておいて、『私の気持ちなんてあなたにはわからないよ』って、随分な言い草じゃない?」
  何がいけなかったんだろう、ではない。やってはいけない領域に蓉子は踏み込んだ。
  蓉子は唇を噛みしめて、言った。
「助けて、欲しかったの。誰かに苦しさを共有してほしかったの」
「うん」
  共有しようと思っていたよ。ついさっきまで、その気持ちがあったんだ。
「だって、聡くんは理想的すぎるじゃない。笑わせてくれるし、頭もいいし、やさしいし、理解もあるし、厳しいことも言えるし……聡くんといっしょにいる価値なんて、私にはないよ」
「それは人を殺したことへの答えになってないよ、蓉子」
「聡くんにはわからないよ。世の中には心が汚い人もいるの。聡くんだって心が汚いって言うかもしれないけど、もっともっと、すごく汚い人だっているんだよ。私は汚いの、聡くんといっしょにいるとどんどん汚い自分に気付かされるの。あまりに綺麗すぎるのよ、あなたは」
  おいちゃんとしては自分ほど薄汚れた存在はないと信じていたから、この言葉には少しびっくりした。おいちゃんのどこを見て綺麗だと感じたのだろう、たしかにとびっきりダーティな存在ではないけれど、とびきり綺麗な存在なのだと主張したら語あたりは大爆笑しそうな気がする。もちろん弟の銀太はこちらを汚いものを見るような目で見てくるだろう。
「理由、言いたいなら聞くよ」
  動機を知ったところで、他の人たちが納得するかどうかだけでしかないけれど。事件そのものがそれで変容することなんてないのだろうけれども。
「言えない……よ」
  蓉子は掠れた声で言った。
「そうか」
  間を置いて、おいちゃんは言う。
「だけど、出頭はしようね」
  蓉子の手を握る。おいちゃんじゃあ力になれないのかもしれない、いいや力になるべき時は過ぎたのだろう。これから蓉子は警察の手に委ねるべきだ。おいちゃんには、もう無理な領域だった。
  手を引けば、とぼとぼと蓉子がついてくる。何か考えているようだけど、話してくれないようだったらおいちゃんには何も対応できるものがない。そして他人のパーソナリティ領域に勝手に踏み込むのは自分の流儀ではなかった。
「ねえ、私さ……」
  後ろから蓉子の声が聞こえた。
「もう、聡くんや文芸部のみんなと、友達に戻れないよね……」
  蓉子に見えないようにしておいちゃんはふっと笑った。
  口には出さない、胸中で「ムリでしょ」と呟いた。心底、やるせない疲れた声で。だって、どんなに戻りたいと思ったとしても、個人的に蓉子のことを好きだったとしても、ムリでしょ。そこはもう、ムリと感じてしまうよ。
「最初から、浅慮な行動をしないことだと思うよ」
  それぐらいしか、もうやってしまった行動については言いようがない。
  橋の手すりの上に座っている人物がいた。何人もの人が突き落とされたところに無防備に手すりに腰掛けて釣り糸を垂らしている――聞くまでもない、犬童だった。
「死体引っかからないかなあと思って」
  ぼんやりとした表情で、だけど大声で彼はそう言った。
「だから言ったでしょ? 川上さん。君が人を殺すのを止めなかったけど、君が罪の意識に苛まれはじめてから、元の世界に戻っていこうとしたときに俺は言ったよね? 君は中途半端に汚いねって」
  おいちゃんは無視してその場を足早に通りすぎようとした。
「他の友達たちも、有栖川くんですら、君の汚さを知ったら受け入れられないだろう。そして俺ですら君のその中途半端に好かれたいと思うその滑稽なところが嫌いだよ。道化にすら徹底できない、徹底的な悪にすら成り下がれない、ただ被害者面をした愚かな加害者でしかなかったということだ」
  振り返ってみると蓉子が動揺しているのがわかった。
「聞く必要はないよ」
「わかっているだろう? 川上蓉子さん!」
  犬童は大声で言った。
「あなたが他の人に汚いと思われないためにどうするべきか、今のあなたならわかっているはずだ」
  やめろと怒鳴ろうとした瞬間だった。蓉子が手を振りきって、犬童の方向へ走っていく。犬童は背中を突き飛ばすならどうぞとばかりにそっちのほうに背中を向けた。
  ハードルを飛び越えるようなたやすさで、蓉子は命を橋の下へと投げ出した。増水していた川は今は普通にもどっていた。蓉子は真っ逆さまに落ちると、首から地面に落ちてそのまま動かなくなった。
「死体、釣れたね」
  犬童がぼそっと呟く。
「これってさ、俺が殺したことになるのかな? 別に死ねとか言ってないけれども」
  頭の中が真っ白になっていく。
「むしろさ、元の世界に戻ろうとした川上さんを拒絶した有栖川くんが殺したことになるのかな?」
  まったく答える気になれない。何を答えればいいのかもわからない。
「それともあれか、川上さんが自分の汚さに耐えうることができない、綺麗な心の持ち主だったってことかな。ああ、それが一番綺麗なまとまりかたのような気がするよ。そうしよう有栖川くん。彼女はきっと綺麗すぎて悪魔に狙われたのさ。だったらみんな納得するよ。そう、君は責められない。俺はいつもどおり道化でしかない。日常はいつもどおり進むだろう、川上蓉子はどうせ大学を辞める予定だったんだ、死んだのと辞めるのじゃあ文字数もいっしょだし、大した差じゃあないよね」
  犬童は呆然としているおいちゃんの横でずっと狂ったことをつぶやいていた。どうすればいいのかわからずに無言でその馬鹿を放置して、おいちゃんは歩き出した。

 結局さ……どうすればよかったの? この話において、おいちゃんはどんな救いをもたらす主人公だったんだろう。主人公は加害者でしたって終わり方? それとも悪は悪でしかなく、一度決定的な悪に染まれば元に戻る手段はないってこと? それとも……

「おいちゃーん」
  薫の声とともに、目の前にファミリーマートの特大プリンが置かれる。
「おいちゃんの分も買ってきたよ」
  普通のサイズでいいんですけど。という言葉を言わずにスプーンを受け取る。
「おいちゃんとしてはふんだりけったりでしたね」
  語のプリンのサイズは普通だった。さっそくプリンをハイピッチに食べ始める薫を見て、おいちゃんもそろそろと口にプリンを運ぶ。
「どうすればよかったのかなって考えてるんだけど、いい答えなんて浮かぶはずもないよね」
  おいちゃんがそう呟くと、減らず口の多い語も珍しく黙った。
「私としてはね、」
  プリンをもりもりと食べながら、薫は言った。
「むなくそわるい事件だった。ってのが本音かな」
  それだけ言って、薫はまたプリンをがつがつと食べた。
「薫ちゃんはこれでもおいちゃんを励ましているんでしょ。君が気にするようなことじゃあない、全部間違っていたのは狂った連中だったと言いたいんだと思うよ」
「まあ、そうだけどさ」
  たぶんそうなのだろう。おいちゃんは間違っちゃいない。蓉子のセリフが頭の中に反芻する。
――聡くんは、正しいよ。
  そう、正しいのだろう。どちらが間違っているかと聞かれたら、間違っていたのはどう考えたってあっちなのだ。
  なのになんだろう、この割り切れない気持ち悪さは。
「胸糞悪い事件でしたねえ」
  語が薫に同調するように呟いた。
「有栖川くんもむなくそわるいで割り切ったほうがいいと思うよ。毒は毒でしかないもの、噛み続けたらきっと毒が回って、憂鬱な気分になっちゃうよ」
  すでにプリンを完食した薫はペットボトルの紅茶で食後を締めくくっていた。
「おいちゃんは二次元に逃げたいよ」
  まったく関係ないことを呟いて、その場の話題を変えた。心の中の気持ち悪さだけ、どこかに置いてくることってできないのかな。

 川上蓉子の墓場に花を添えに行ったのはそれから一週間後だった。水桶を持ったおいちゃんは墓石に水をかける前に、その水を出会った犬童にかけた。
「よくぬけぬけと墓参りなんて出来るね、恥知らず」
「恥という概念は恥ずべき概念なのだよ、有栖川くん」
  またこのパターンか。
「墓参りぐらいしたっていいでしょ。だって俺は俺なりに、彼女を愛していたんだよ。彼女が中途半端な人らしさを捨てたのならば、俺も彼女を愛するのが筋でしょう?」
  何を勝手な。犬童はにっこりと笑って、水浸しの髪をハンカチで拭きながら去っていく。
  まったく、勝手に美学を押し付けて、勝手に混ぜくって、そうして悪魔は去っていった。
  墓前に花を添えて、おいちゃんも手をあわせる。
「ねえ、蓉子」
  今更、こんなことを聞いても仕方ないのかもしれないけれども。
「どうすればハッピーエンドになったんだと思う?」
  最初からムリだったのかもしれないけれど、おいちゃんなりにがんばったつもりだったんだよ。それは本当なんだよ、おいちゃんなりに愛していたし、おいちゃんなりにがんばったし、おいちゃんなりに幸せになれる道を探したんだ。
  これだけは理解してほしいんだよ。
  おいちゃんが傷付いたのかどうかはわからないけれども、心が強くて傷つきにくい人ならば、傷つけてもいいとは限らないんだよ? 心が弱いならば何をしてもいいとは限らないんだよ?
  自分の耐えうる痛みならば人も耐えられるとは思っていない。だけど、痛みをこらえなきゃいけないときだってあるんだよ。
  おいちゃんはちょっと痛みに耐性があるだけで、痛みを感じていないわけじゃあないんだよ。
  だけどおいちゃんは強い人だから、おいちゃんを傷つけた人たちに対して同じ行為をしないだけなんだ。
  本当はこう思ってるかもよ?

 地獄に落ちろ――
  だけどそれは、大人だから言わないだけだよ。それだけだよ。

(了)