財布

 生きているこの手は、今は温かくしかと物を
  掴みとれるが、もしも冷たくなり
  奥津城の氷の閉ざす静寂に入れば、そなたの日々に
  顕ち現れ そなたの夢みる夜々に寒からせよう
  ために おのが心の臓の干からび血の気の失せなばと
  希う程に、

 こなたの血脈に紅き生の蘇り流れるよう
  そして 疚しきそなたの心が鎮められ
  安らぐようにと――
  さ、ご覧あれ――その手を差し伸べているのだ。

キーツ「生きているこの手は……」

***
「落としましたよ?」
  そう言って、自分の財布が差し出された。
  ここはミラノの中心、マンゾーニ通り。もうちょっと行ったところには高級店の立ち並ぶモンテ・ナポレオーネ通りがある。
  父親にザーニ&ザーニの食器を買ってくるよう言われた森下は、こんなにスリの多い街で財布を落とした自分の馬鹿さ加減を叱咤した。
「Grazie」
  お礼を言って財布を受け取り、拾ってくれた主の顔を見て少しだけびっくりした。
  若い男だ。自分と同い年くらいだろう。炎よりも赤い髪と、赤い目をした男だった。
(コンタクトかな? アルビノだったらサングラスつけているだろうし)
  思わず顔をじっと見てしまった。
「どうしましたか? 僕の顔に何かついている?」
「いえ……綺麗な目だと思っただけです」
「ありがとう。あなたの声もとても綺麗」
  そう言って男は軽くお辞儀をすると雑踏の中へと消えていった。
  まあ、日本ならともかく、ここならばそれくらいのリップサービスは当然なのだろう。森下は財布の中身を確かめて、それが減っていないことをチェックするとモンテ・ナポレオーネ通りへと向かった。

 イタリアらしいキッチンアイテムの並んだ店内をひととおり見て、好みのケトルとコーヒーサーバーを購入。
  近くにあったバールで珈琲を一服して、煙草を口に咥える。咎められるような視線に、慌てて煙草を仕舞った。
  イタリアは禁煙法がある。公共の場所で煙草を吸ってはいけないという法律だ。
  人がごった返した大通りでの歩き煙草はOKで、レストランで煙草を吸うのはいけないなどと、矛盾していると思う森下だった。
「Ciao!」
  後ろで声がして、話しかけられたのかと思って振り返った。イタリア人の男が日本人女性をナンパしている。
  女性は悪い気はしないようだったが、正直ちょっと困ったという表情。
「No grazie」
  と言っている。NOは駄目なのだ。そういうときは笑顔で「ありがとう」とだけ言ってさようならすればいいのに、日本語をもってきてそのままNOなどと言うから、相手は
「どうして?」
  というしつこいしつこい、口説きのパターンに入っていくのである。
(まあ僕には関係ないけれども……)
  イタリアに来てから女性を口説くこともあまりなくなった。本場のイタリア男と森下が並んだところで、情熱でも語彙でも負けるのは目に見えている。
  よしんば口説くことができたとしても、言葉に困っている観光客の日本人くらいだ。そういう場合は下心も特にないので、「紳士だね」と言われて終わりである。
  義兄である八月朔日梗はこちらにきて数年経つせいもあってか、妻も子もいるというのに可愛い女性を見つければ
「Ciao bella!」
  だ。案外こっちのほうがこの男にとっては暮らしやすいのではないだろうか。
  森下も基本、時間をかけて口説くのは好きだけれども、社交辞令のように「やあ、可愛い子ちゃん」と言うのはなんだか頭の軽い男のような気がしてどうも難しい。
  仕事がデイトレーダーなせいもあり、女性と知り合う機会はほとんどない。
  父親が息子を心配して
「モデルの子を紹介しようか?」
  と言ってくれたけれども、モデルの子はなんとなく不健康そうな気がしたので丁重にお断りすることにした。
  姉や義兄もよく女性を紹介してくる。たしかにベッラで、性格もいい女性が多いのだが、本気になるとあとが面倒な気がしてうやむやにすることが多い。
  一夜限りのお付き合い、または友達の延長線上にベッドの上まで考えている女性なんてそうそういるわけではない。
  日本にいたときは普通に家出少女に部屋を貸したこともあれば、バーで女の人と仲良くなったこともあった。
  だいたいは森下が下心なしで近づいたように見えたのが勝因だと思っている。だから今も下心があったとして、それが目に見えたような頭の軽そうな男に見られたくない。そういうどこか安っぽいプライドが森下の交友関係を邪魔している。
(本当に歯の浮くような言葉を言って、それがさまになるような人間なんて、ほとんどいやしないんだよ。)
  ジョニー=デップやショーン=コネリー並の男が日常に転がっていたら彼らはおまんま食い上げだろう。
  つまり、ナンパしている男というのは女性に相手にされない負け組か、それでなかったら社交辞令組にだいたい分類できるのだ。
  森下はどちらに入るのもなんだか興醒めなので、リップサービスさえやめてしまった。
  イタリアに来て、一ヶ月が経とうとしている。もうすぐクリスマスのシーズンのせいか、下着屋さんはこぞって赤い下着を店頭に並べている。
  義兄に「聖ちゃんにはどっちの下着が似合うと思う?」
  と、二種類の前衛的な赤い下着の写真をメールに添附されたときに感じた頭痛は今も忘れない。
  ともかくイタリアでは、日本の常識がほとんど通用しないのだ。
  家族と暮らせることが嬉しくもあったが、日本が恋しくもあった。
  イタリアでもまた別の出会いがあると思っていたが、一ヶ月で感じたのは寂しさだけだった。
「誰か僕を見つけてくれないかなぁ……」
  日本語でそう呟いてみる。絶対にここでは通じない言葉だとわかっているけれども、なんとなく誰かが自分を見つけてくれればいいのにという思いをこめて。

 その男と再会したのは、本屋の近くにある売店まで新聞紙を買いに行ったときのことだった。
  小銭を渡して新聞紙を購入したところで、一週間前に見た赤毛の男が日本人女性に
「落としましたよ」
  をまたやっていた。女性はお礼を言って財布を受け取り去っていく。
  あれはわざとスってそうしているようだ。森下は赤毛の男に近づき、声をかけた。
「こんにちは。盗人さん」
「何の用かな? 詐欺師くん」
  すぐに男は応じる。
「詐欺師?」
「結婚詐欺師の香りがした」
「そんなことはしていない。君こそスリの真似事なんかして恥ずかしくないの?」
「君は恥ずかしいと感じるの? 僕は楽しいからやっているんだよ」
  男の言葉に、そういえばスリは悪いことという認識がない自分に気づく。財布を返しているのだし、被害はないのだからいいんじゃあないかという気さえしてきた。
「ねえ、シェル・アミ」
  男は自分をそう呼んだ。イタリア語でも日本語でもない。なんとなくフランス語のような気はしたけれども。
「君はオペラが好きでしょう」
  男は構わずそう続ける。
  オペラ。嫌いだとは言わないが、聞いたことはない。
「見たことがないからわからない」
「好きだよ、きっと。スカラ座のチケットを知り合いから貰ってね、誰かを誘おうと思ったのだけれども。いっしょに行かない?」
  冬場にオペラ? シーズンは過ぎているはずだが、だからこそチケットが手に入りやすかったのかもしれない。どうせならその知り合いと行けばいいのに、彼はそうしたいわけではなさそうだ。
「午後八時にスカラ座の前に集合ね。すっぽかしたら嫌だよ?」
「すっぽかしたらどうする?」
「そうしたらオペラを君が見損なうだけだ。ああ、タキシードを着てくるのを忘れずに。最近ではスーツでもいいそうだけど、僕はタキシードのほうがいいと思うよ」
  そう言って一方的に約束を取り付け、去っていこうとする男に声をかけた。
「名前は?」
「僕? ルラ=スノリだよ。ひどいよね、こんなヴァイキングの末裔みたいな名前だなんて」
  森下もなんとなくその薄笑いの張り付いた顔に、ルラという名前が似合いそうな気がしなかった。
「君は? ル・シャ」
  また知らない代名詞。森下はわからないところは考えずに簡潔に「森下透」と答えた。
「トオル、いい名前だ」
  まったく「いい名前だ」と思ってなさそうな棒読みだった。
「じゃ、八時に会おう」
  そう言ってルラは朝のミラノの街に消えていった。わけがわからない。

 とりあえず家に帰った森下は、部屋の中でタキシードを探した。しかし見つからなかったので、少し仕立てのいいスーツを引っ張りだした。
「どこかへ出かけるの? 透」
  姉の娘、菜々美が声をかけてくる。
「おじさんは友達といっしょにオペラを見に行くんだよ」
  そう説明した。子供にわかりやすいように友達と言ったが、その関係はスリとカモだったりする。何の因果かルラとオペラを見に行く羽目になり、そうして着慣れないスーツを引っ張りだしているのだから泣けてくるではないか。
  その日は仕事を早めに切り上げ、風呂に入ってからスーツを着た。風呂に入ったのは体臭と香水の匂いが混じるのが好きじゃあないからだ。
  義兄がプレゼントしてくれたドルチェ&ガッバーナの香水はあまり香りが好きではない。だけど今日はそれをつけた。
「チューペットのレモンの香りがする」
  と言ったところ、義兄が悲しそうな顔をして
「ドルチェだよ?」
  と言ったのを覚えている。鎖骨と手首につけた香りにくんと鼻を動かした。
  キンキンに冷やしたレモンシャーベットのような香りがする。チューペットは言いすぎだけれども、レモンシャーベットなら洒落たように聞こえるのではないだろうか。
  次に腕時計。これは姉が誕生日に日本に郵送してくれたものだった。
  最後にネクタイをしっかりと締めて、荷物は財布と携帯だけをいれて手ぶらでスカラ座まで向かった。
  夜の空気はつめたい。肺の中まで冷え切ってしまいそうな寒空を歩いていく。
  待ち人は、先に来ていた。
「遅いじゃあないか、シェル・アミ」
  ルラは黒いタキシードに真っ白なシャツ、そしていつものやたら目立つ赤毛で立っていた。よってすぐに見つけることができた。
「スーツだね。タキシードなかったの?」
「サイズが合うのをまだ仕立てていないから。スーツでも構わないんでしょう?」
「構わないよ」
  ルラはチケットを払い、二階の指定された席まで歩いていく。
「ちなみにオペラ初心者の君に言っておこう。一階が一番高く、三階が一番安い。だけどシーズン初日は少し値上がりする」
「つまり高くもなく、安くもないと」
「まあ値段は関係ないよ。なんせタダ券なのだし」
  ルラはそう言うと席に腰掛け、ゆったりと構えた。森下もその隣に座り、開演を待つ。

 開演時間が来た。
  女が三人現れて、口々に何かを言いながら消えていく。
  何を上映するか聞いていなかったが、劇中何度も「マクベス」と言っていたため、それがマクベスなのはすぐにわかった。
  とても不気味な内容だった。魔女が出てくるとその口々にする台詞の怖さに震え上がったし、マクベス夫人が錯乱する場面ではごくりと息を呑んだ。
  ストーリーを簡潔に話すならば、ほとんどの登場人物が死ぬ。というのが一番簡潔だと思う。登場した瞬間殺されるような役もあった気がする。
  隣を見るとルラは椅子に寄りかかって寝ている。タダで見られるのだし見ておけばいいのに、誘っておいて自分は寝るとは何事だと、森下は少し憤慨しながら最後までマクベスを見た。

「ふあーあ、眠いな」
  起きたルラが第一声で放ったのはそれだった。これだけ寝ておいて、まだ眠いというのだろうか。
  閉館時間になり、森下はルラといっしょに夜の街を歩いて帰った。
「ルラがオペラを好きなわけじゃあないの?」
  ぐーすか寝ていたルラにそう聞くと、彼はけろりとした顔でこう返してくる。
「オペラが好きなんじゃあない、マクベスが好きなんだ」
  その割にはマクベスのほとんどのシーンを寝て過ごしていたではないか。子守唄にするには少し不気味な台詞が多すぎるぞ。
「さあ、たらしこめ、己の子を九匹食らった豚の血を。仕置きにあった人殺しが末期(いまわ)のきわに流した脂汗も、さあ、たらしこめ」
  こんな魔女の台詞を聞きながら眠れるルラの神経が信じられない。
  信じられない神経の男は森下に構うことなく、自分の好きなものを並べ立てる。
「好きなもの、色々あるよ。小説ならマルキ・ド・サドやゾラ。絵ならエゴン・シーレやゴーギャン。音楽ならショパンが好きだけれど、よく聞くのはセロニアス・モンクのジャズで……好物は珈琲とシュークリーム。これだけは外せない」
  正直森下には、ルラの言っている内容の半分も理解できなかった。ショパンは聞いたことがある、その程度だ。
「何よりも好きなのがリルケだ。リルケは大淑女サロメと付き合う前に平凡な女、ヴァリィと付き合っていた。その頃の『キスの味』という詩が好き。『キスをすると――キスすることがあるなんて!』の部分が意味不明で大好きすぎる。気持ちはわかるけれども意味がわからないあたりが大好きなんだ。僕もリルケのように白血病で死ねないかな、そうして薔薇の下に埋まりたい」
  白血病になりたいと言うルラに圧倒された。リルケって誰? と思っている森下に
「君は何が好き?」
  とルラが聞いてくる。
「数学が好き。煙草が好き。コーラも好き。でも好きなもので思いつくのはそんなもの」
  本当に、好きなものなんてその程度だ。ルラは「オペラは?」と聞いてきた。
  マクベスは正直怖かったから好きなのかどうかわからなかった。だけどその世界観に呑みこまれそうになったのも事実だった。次にルラに「オペラを見に行こう」と言われたらいっしょに行くのだろうか。あまり気乗りしない様子で「嫌だよ」と言う自分が想像できなかった。気乗りしないフリをして「仕方がないな」と言っている自分は想像できたけれども。
「わからない。見たの初めてだったし」
「きっと好きだよ。根拠はないけれども、君はきっとあの世界が好きだ。絵だったらクリムトやマネが好きで、音楽だったらJazzが好きだと思う。なんとなくだけど、そう思う」
  どこかで見てきたかのようにルラはそう言う。すぐに言われた画家の絵や音楽でぴんとくるものを上げられなかったが、嫌いな世界ではないのだろう。
「なんでそんなことを言うの?」
  不思議に思って森下は聞いた。ルラにとって、自分などとりとめもない存在でしかないはずだ。
  ルラは立ち止まり、こちらを振り返った。
  街燈の下で赤茶色の目が輝く。
「きっとね、君は僕を見つけたけど、本当は自分を見つけて欲しかったんだよ。絶対にバレないように嘘をつくくせに、どこかでその嘘はバレて欲しい……そう感じているでしょう」
  図星すぎて息を呑む。ルラは首を傾げて、「違う?」と聞いてきた。
  そうして彼は手を差し伸ばしてくる。
  なんとなく、その手に縋りつきたいような気分だった。
  不思議な青年、ルラとの出会いはそんな感じだった――

(了)