手紙

  もう一度人生がくりかえせたら 十六歳になってみたい
  十六歳よりあとに起こったことは すべて忘れたい
  手に入れためずらしい花を押し花にしたい
ドアのところで背を(伸びざかりなので)測りたい
  登校の途中 他人の家の入り口という入り口に向かって大声で叫びたい

 夜中 窓辺にたたずんで
  みんなのやすらかな眠りを妨げる
  通行人の声を耳にしたい
  嘘をつく相手がいたら 腹を立てて
  五日間 顔を合わせずにいたい

 もう一度市の公園を通って そろそろ家に帰る時間が迫っているのに
  キスをしたくてもそれができないでもじもじしている
  少女と散歩してみたい
  店が閉まる前に 彼女と自分のために
  二マルク五十ペニヒするおそろいの指輪を買いたい

 歳の市で遊ぶには小銭がいるので
  母親にねだりたい
  そこへ行って いつまでも水にもぐっている男や
  葉巻を吸う猿を見物したい
  怪物女に頬を撫でられたい

 お目当てのレーマンさんのフィアンセとは別の女に誘惑されているのに
  これはレーマンさんのフィアンセだと思いつづけたい
  レーマンさんのフィアンセの手を肌に感じつづけたい
  実家のドアが夜中バタンバタンというように
  心臓がドキドキ高鳴ることだろう

 十六歳のときに見たことすべてを もう一度見たい
  十六歳よりあとに起こったことすべては
  もう一度別なふうに起こってもらいたい
  十六歳のときに見た光景をもう一度見たい?
  もちろん!

 ケストナー「もう一度人生がくりかえせたら」


***
 五月には森下の誕生日がある。
「おうし座は性欲が強いんだって」
  と占い好きな女の子が言ったことがあるが、まったくそのとおりだと森下自身は思う。ともかく自分はスケベだ。
「やあ、シェル・アミ。誕生日を教えてくれないなんて酷いじゃあないか」
  シェル・アミ、またはル・シャ。彼は自分のことをそう呼ぶ。その意味を聞いてみたところ「愛しい友」または「猫ちゃん」という意味だと教えられた。顔が茹蛸のように赤くなったのを覚えている。
  オープンテラスでルラにそう言われて、今日自分が誕生日だったことを遅まきに思い出した。
「どうしてルラが僕の誕生日を知っているの?」
「どうして? そんなの、君の身分証を勝手に見たからだよ」
  この手癖の悪さをどうにかできないのだろうか。
  ルラは胸もとから封筒を取り出して森下に渡した。
「君が好きそうな詩をプレゼントしよう」
  その若草色の封筒を受け取り、中身を開く。そこにはケストナーの詩が書いてあった。
  しきりに十六歳に戻りたがる、それでいてその後の人生は違うように起こってほしいと感じている男の詩だった。
  二十六歳の誕生日に、十年前に戻りたいと言っている詩をプレゼントするその悪趣味なあたりがルラらしい。
「十六歳以降は碌でもない人生だったみたいだね。ケストナーって人」
「史実、碌でもない人生だったみたいだよ?」
  ルラは面白そうに笑ってそう言った。
「君にとってこの二十六年はどうだった?」
「僕? けっこう順調だったと思う」
「じゃあそろそろ雲行きが怪しくなる頃だ。十六歳に戻ったほうがいいかもしれないよ」
  森下はルラの顔を見つめた。彼はどうせ思いつきでこの詩を用意して、気まぐれで自分をからかっているのだろう。
「十六歳に戻れたら、何がやりたい?」
「好きだった女の子にやさしくしたい。そうして好きだってことを伝えたかった。君は?」
「CDショップに出かけて、気に入ったCDを買おうかどうしようか迷ってみたい」
「なんかその微妙な雰囲気がルラらしいや」
  たしかに大人になってからCDショップで悩むことなんてほとんどない。
  ルラは続けて質問攻めにしてきた。
「十六歳のとき、何が好きだった?」
「僕? フェルマーの定理って本が好きだった。何故好きだったかわからないけれども、ノートの端っこに投げやりに書かれていた公式が世界を揺るがしたことが面白かったんだと思う」
「他には?」
「日本には焼きそばという麺類があるんだけど、それをパンに挟んだやつを、よく昼食に食べていた」
「あとは?」
「好きだった音楽はアヴリルだったと思う。男の声は出しにくかったから、洋楽でちょっと声がハスキーな女性ヴォーカルの歌ばかり練習していた」
「なるほど」
  にっこり笑ってルラは
「凡庸だね。どこにでもいる高校生だ。それがとても好印象だよ」
  と言った。まあこいつの高校時代は聞かなくても高尚そうな名前がいっぱい出てきそうな気がしたので聞かないことにした。ほとんどのことは「それは何?」と聞き返さなければわからないような内容ばかりだ。
「僕は十六歳のときにリルケに出会った」
  リルケ。何度も彼が口にしている詩人の名前だ。あまりに口にしているものだから、この前リルケの詩集を買ってみたくらいだ。
「リルケが白血病になった原因、ちゃんとわかったよ。薔薇の棘に指を刺して、それが原因で白血病になったんだってね」
「そうだよ」
「君が薔薇を見るたびにわざと怪我をする理由がやっとわかったよ。何と破壊的な」
「建設的だよ。前向きに白血病になろうとしているんだ」
  噛みあわない会話だと感じる。
  ルラは薔薇を見ると必ずといっていいほどその棘でわざと怪我をする。最初見たときにはびっくりして何をしているのかと聞いたくらいだ。
  彼はそっと唇に指を含み、目を伏せる。
「白血病になれないかと思って……」
(いちいちが狂っている)
  そんな狂っている彼が自分にとって唯一のお友達だったりするのだ。
  財布をスられなければこいつに会うこともなかったのだろう。イタリアに来なければ財布をスられることもなかった。日本で過ごしていればきっと違う人生があったに違いない。十六歳のとき、初恋の子と結婚していたのならば今頃はエリクに孫を見せていたのかもしれない。
  だけど、ルラには会えなかった。
「やっぱり今のままでいいよ。こんな悪趣味な詩をくれる友達にイタリアで会えた未来を変えたくない」
  森下はそう言った。ルラは笑って
「僕が君を見つけなかったら、他の誰かが君を見つけただろう」
  と言う。たしかにそうだろう。
  たぶんルラのことも森下が見つけていなかったら誰かが見つけているのだと思う。
  そうして財布ごと魂を奪われて、今ごろこいつといっしょにいるのだ。
  そんな腹立たしいパラレルにちょっと腹を立てていたところにケーキセットが届いた。
  大きなザッハトルテがルラと自分の前にひとつずつ。
「さて、君が生れたことに祝福しようか」
「本当にそう思っているの? ルラ」
「当然だろう。どうすれば信じる? キスすればいいのかな、抱擁かな、何か現物支給のほうがいいの?」
  この暑苦しいまでの歓迎ぶりに、森下は居心地の悪そうな顔をして手紙を鞄に仕舞った。
「君からの手紙で十分だよ」

 十六歳のときに見た光景をもう一度見たい?
  もちろん!

 二十六歳の今に後悔していないかって?
  そりゃそうさ!

(了)