猫
来たれ、美しき猫、恋するわが胸に。
足の爪を秘めて、
金属と瑪瑙のまじる美しき眼のなかに
われを沈ましめよ。
その頭と しなやかなる背とを、
指もてゆるやかに撫ずるとき、
電気をおびて体に触れて
わが手 快楽に酔いしれるとき、
電気をおびし体に触れて
わが手 快楽に酔いしれるとき、
わが女を 心の中に見る。その目差しは、
愛き動物よ、汝の目のごとく、
奥深く冷ややかに、投げ槍のごとく切り裂きて、
足さきより足まで
するどき気配、あやうき薫り、漂い
褐色の体をくるみぬ。
ボードレール「猫」
***
「ル・シャ、僕の部屋に今度遊びにこないかい?」
彼は問いかけるとき、必ず自分のことをル・シャと呼ぶ。猫ちゃんという意味だということは知っていた。
自分の足に猫が顔を擦り付けてくる。森下は珈琲を口に運ぶ手を止めて、下を向いた。
「猫飼ってるの?」
猫は雑種のようだった。しかし汚い毛並みはしておらず、たぶんルラが飼っているのだろうと思った。
「猫が僕を飼ってるとは考えないの?」
珈琲を入れてくれた本人はこの調子だ。足から離れて、床でごろごろと背中を擦り付けている猫を一瞥する。自分の足に飽きたのだろう。そして床にもすぐに飽きて、別のことを見つけるのだ。それが猫のきまぐれというやつだ。
「猫様って扱うタイプに見えない。捨て猫だよね、あれ。拾ったの?」
「今も捨て猫だよ。僕は拾っていない、勝手に同じところにいるだけ」
「でも懐いてるんでしょ? ルラに」
「飼わないよ、猫は。捨てる日が来るに決まっているから。そうでなかったら、猫が僕を捨てる日がくる」
猫から少し視線をずらすと、小さな皿の上に魚の喰い残しがある。ルラが床で食べて喰い残しを放置するわけもないので、あれは彼が猫にあげたものだということがわかる。
お皿の模様は赤や緑がふんだんに使われた、地中海特有の模様。安っぽさを感じる子供っぽい柄を彼が使っているのが意外な気がした。
ルラの部屋には本が山積みで、コンピューターの類が存在しない。
「機械は好きじゃあない。テレビやパソコンで素早く情報が手に入ることが許せないんだ。僕は新聞を読んだり、手紙を書いたりする時間が楽しみだから。どうしても活字で何かを提出しなきゃいけないときはタイプライターを使う」
最初にパソコンは使わないのかと聞いたときに彼はそう答えた。そしてどの家にも一台くらいはあるコーヒーメーカーもこの家には存在しない。
彼はコーヒーミルでいちいち豆を挽いて、そしてお湯を沸かし、挽きたての豆と沸きたてのお湯で珈琲を淹れる。
スローライフのお手本のような男だと森下は感心したような、それだけ時間のある彼の生活を羨ましいと感じるような気がした。
この家はルラが借りているようだけれども、彼がどんな仕事をしているか知らないし、また仕事をしているところを見たことがない。
彼は仕事時間の比較的短い自分よりも先に、待ち合わせのカフェにいる。だから無職なのかと思っていたが、生活に困っている様子は少しもない。
親からの仕送りか、もしくは彼のスポンサーがいるのだろうと思った。
そんな馬鹿なと思うかもしれないが、ルラを養おうという人間はきっといると思うのだ。なんとなくそういう他人に生活を保障させる方向に持っていくだけの要素を彼は持っている。
ヒモと言えばわかりやすいかもしれないが、実際は話を黙って聞いているわけでもないし、女性にこの男が必要だと思わせるのが得意なわけではない。
もう少し適切な表現を使うのであれば、女王蜂。周囲の働き蜂たちは、本能で彼の生活を保障する。しかしこれも適切な表現とは言いがたい。
彼のこの表現しがたい魅力に引き寄せられ、彼の望む方向へとすべてが動くこの世界の構造をどう言葉で表現するべきなのか、森下は言葉を知らない。
(雰囲気としては、猫なんだけれどもね……)
周囲が可愛いと思って、拾う猫。
だけど猫自身が飼い主に媚びることはないし、それでも人間は猫様と猫を可愛がる。そうして可愛い可愛いと、家族のように可愛がりながら、ある日いらなくなれば、捨てる。
それでも猫は彼らを恨まないし、もしかしたら恨んだかもしれないが、自力で生きていく。そして誰かが猫を拾う。そして捨てる。その繰り返し。
猫が可愛いのはいつでも捨てられるから安心して可愛がられるのだ。
そう言った人がいるそうだ。当時知り合いの女の子が許せないと激怒していたのを覚えている。だけど森下はその気持ちがなんとなく理解できる気がした。
森下が孤独な生活の中で猫を飼わなかったのは、いつか捨てなきゃいけないときの猫の気持ちを考えたからだ。
猫は勝手に生きていくかもしれない。
だけど自分は、猫の気持ちに責任が持てない。だから猫も女の子も、騙すような形で愛しているフリをしてはいけないのだと、そう自分に言い聞かせていた。
それならば最初から愛してなどいないと、はっきり言うべきなのだと。
「捨てられたって生きていけるよ。また誰かが拾ってくれるだろう」
ふと気づくと、ルラがそう言った。
自分が思考していた間の前にあった台詞を思い出す。
彼は捨てる日がくるから猫は飼わないと言った。もしくは猫が自分を捨てる日がくると。
また誰かが拾ってくれるだろう。そのとおりかもしれない。だけど、また捨てられるのだろう。
「僕は捨てられたら、もう誰にも懐かない。また拾われても、また捨てられるだろうから」
猫が自分に懐かない理由は、また捨てられることを知っているからだ。また自分が女性を愛さないのも、自分が捨てるか相手が捨てるかして別れるのがわかっているからだ。
ふて腐れていると言われればそれまでかもしれないが、自分の心を守れるのは自分だけしかいない。
「また拾ってもらえるよ」
「また捨てられるだろうけどね」
不毛な言い合いになりそうな雰囲気になってきたな。森下はそう思った。
「どうしてそんなに捨てられるにこだわるの? ル・シャ」
普段と同じように、彼は自分を猫ちゃんと呼んだ。なんとなく、ルラも最後は自分を捨てて離れていくのかもしれないと思った。
「小学生の頃さ、ルドルフとイッパイアッテナっていう、猫が出てくる児童文学があったんだ」
「へえ。どんな話?」
「飼い猫のルドルフは捨てられたばかりで、野良猫のイッパイアッテナと出会う。イッパイアッテナっていうのは、イタリア語に置き換えると……そうだな、 Mi ciamo molto miei nomi. かな? ともかく彼は、『俺の名前はイッパイアッテナ』って言って、それでルドルフはそれを彼の名前だと思うんだよ。実際はそれだけ彼は捨てられたり拾われたりしたことがあるってことなのにね」
「なるほど。それで?」
「そのときはなんて人間は自分勝手なんだろうって思ったんだけど、それだけだったんだ。小学生の高学年になるまではね。そこで今度出会った本は、アドラーの『おき去りにされた猫』だった」
「ああ、それ知ってるかも。主人公の気持ちは母親から置き去りにされているよね。それこそ捨てられた猫のように」
「そう。なんだかなあと感じたよ。つまりそこで置いていかれた猫の気持ちを理解したんだけどさ、もっとすごい本があってね、それは中学生のときに読んだんだけど……」
「驚いた。昔はけっこう本を読む人だったんだね、シェル・アミ」
「ルラに比べれば読んでいるなんて言える量じゃあないよ。『サラ、神に背いた少年』って読んだことある?」
「ない」
「実はあとで自伝とみせかけた、ただの女の空想話でしかなかったことは証明されたんだけど……当時の僕はそんなこと知らなかったから、本当に母親に男娼をさせられている男の子の話だと思って読んでいた」
「まあそれは虚偽だったとしても、ありえない話じゃあないね」
「その最初のほうに、正確な台詞は覚えていないんだけどさ、母親がその男の子を孤児院に入れたりまた引っ張り出したりするシーンがあって、そのときに『猫みたいに捨てたり拾ったりできるところがいいんだ』って台詞があって。そのとき、僕は何か……飼い主たちがそういう気軽さで捨てるんだって気がしたんだ。だから猫はずっと飼わないって決めたんだよ」
森下の独白を聞いてルラは沈黙した。少しだけ猫を振り返り、そして――
「拾われたって、捨てられるから、傷つくだけだって言いたいんだよね?」
「そうだね」
「最初から拾われずに、誰の協力も得られずひとりで生きていくのは、ずっと辛いよ。シェル・アミ」
答えずにいると、軽くハグをして背中を叩いてルラは言った。
「あまり悲観しないほうがいい」
ルラに抱かれたまま、背中ごしの猫を見た。猫は部屋の隅のクッションの上で丸くなっている。そこに捨てられて可哀想、と思いすぎていたかもしれない。
「ごめんね」
「いいや、気にしていない」
「もう言わないよ」
「そうしてくれると助かるよ」
ルラは笑って抱擁を解くと、冷蔵庫のほうに歩いていった。
「ねえ、オイルサーディンのパスタは食べられる?」
「大丈夫だよ」
「じゃあ今日はそれにしようか」
ルラが手料理を作るなんて珍しいと思った。彼はジャガイモを茹でながら、オイルサーディンをばらばらにしている。
美味しそうな匂いに猫が鼻をひくひくとさせて目を覚ます。
「どうしたの? ル・シャ」
自分のことを呼んだのかと思って振り向くと、ルラが猫の相手をしていた。
彼は気づいてこちらを見て、笑う。
「気に入ってるんじゃない? ル・シャって呼ばれ方」
「うるさいな」
ルラは笑ってキッチンに向かった。いつの間にか定着した呼ばれ方に、森下自身が苦笑いするしかなかった。
(了)