シュークリーム
この上まだ あちこちをさまようつもり?
ほうら いいものはすぐそばにある
幸福をつかまえることだけを心がけていればいいのさ
幸福は意外とすぐそばにある
ゲーテ「考えてもごらん」
***
友人の家に遊びにいく途中、いつも通らないほうの小径に入ったら可愛いお菓子屋さんがあった。
「シュークリーム」
その友人がそう自分の脳内で囁いている気がした。彼はシュークリームが大好物だ。
扉を開けてお菓子屋に入る。甘い焼き菓子の香りが鼻をくすぐり、目の前にビスコッティが所狭しと並べてある。
「何が買いたいの? お兄さん」
彫りの深い、日に焼けた顔で店員である男が笑った。
「シュークリームをふたつ」
「カスタードと生クリームがあるよ。どっちがいい?」
ルラはどっちが好きなのだろう。そこまで嗜好を知らないので、顎に手をあててどちらにしようか考え込んだ。
「両方、ひとつずつください」
ルラに好きなほうを選んでもらって、残ったほうを自分が食べればいい。森下はそう考えて両方のシュークリームをひとつずつ買った。
「遅かったじゃあないか、シェル・アミ。さては誰か女の子を口説いていたんだろう?」
ルラの自宅を訪れると、彼は洋書を片手に顔をあげた。
「何読んでるの?」
「ドストエフスキーの『罪と罰』」
「知ってる。やたら読みづらかった記憶があるけれども」
「そう? 僕は彼の書いた作品は好きだよ。これを再読しているのは特に好きだからってわけじゃあないけれども」
これ、と言って本に指を落として、ルラは言った。
「その片手に持っているもの、何?」
「シュークリームだよ。食べるでしょ?」
「もちろんさ、気が聞くじゃあないか。きっと僕の小腹が空く時間がわかるんだね? ル・シャ」
ルラは本を閉じるとそれを本棚に戻し、そうして珈琲を入れるためのケトルを火にかけはじめた。森下は先にテーブルにつくと、お菓子屋の小箱をその上に置いた。
「罪と罰、君はそんなに好きじゃあないでしょう」
「どうしてそう思うのかな。まさか代表作すぎて嫌いだなんて僕が言うと思っているの?」
「なんとなくそんなイメージがあるよ。人の知らないちょっと癖のあるものが好きって感じの」
「へーえ」
ルラは気のない返事をする。
「君はさ、ソーニャとか好きでしょ? ああいうの理想だと思ってそうだ。実際は理想と程遠い女を好きになるくせに」
「どういうこと?」
「実際には存在しない、絵に描いたような女性を理想だと思っているということだよ。他のものもそう、君はきっと存在しえないものに焦がれている。だけどそんなものが存在しないことも知っているから絶望もしている。不憫だね」
「シュークリーム買ってきた人にそれはないんじゃない? たしかにソーニャみたいなAV女優が恋人なら完璧だと思うけれども」
「うわあ、そりゃ探すの難しいよ」
ルラはけらけらと笑いながら沸騰したポットをドリッパーにそそいだ。ルラは珈琲を入れるのが得意だ。あまり部屋中に香りがしない珈琲のほうが美味しく入るのだと説明してくれたことがある。
「さて、」
珈琲を淹れ終ったルラは席に座ると、手をもみこすりしてから小箱の蓋を開けた。
「シェル・アミ。君は天才だ」
最初何を考えてそんなことを言っているのかわからなかった。
「生クリームとカスタード、両方とも買ってきてくれるなんて、なんて気のきく人なんだ。僕は祈るよ、君のソーネチカがいつか現れることを」
なんだ。そんな理由でか。森下はふっと笑って、次の瞬間顔が固まった。
「ちょっと待って。両方とも食べる気?」
「当たり前だろう、シェル・アミ。僕はシュークリームが大好きだと再三言っているだろう。君の好意を無駄にするとでも思っているのか?」
「いや、片っぽ僕にちょうだいよ。いや、ちょうだいよって言い方おかしい。僕が買ってきたんだから」
「案外くだらないことに拘るんだね。僕は君のそういうところがとてもくだらなくて大好きだ」
褒められている気がしない。
ぱくり、とルラは生クリームのほうのシュークリームにかぶりついた。続けてカスタードのほうにも。
歯型がついてしまったので森下は仕方なくルラが入れた珈琲を飲む。
「シュークリームは今度から三つ買ってくる」
「そうしたら僕は三つシュークリームを食べるだろう」
「いくつ買ってきても僕のシュークリームはないわけね」
「エクレアだったら君にあげるよ」
「シュークリームが食べたいときはどうすればいいわけ?」
「僕のいる目の前で食べないことだ」
「ルラとシュークリームが食べたい場合はどうすればいいわけ?」
「そのときはシュークリームを食べて幸せそうな僕の顔で満足するといい」
ルラは指についた生クリームを美味しそうにぺろりと舐めた。そうしてもう一方の手にあるカスタードのほうのシュークリームもぱくりぱくりと美味しそうに頬張る。本当に、世界一美味しいシュークリームを食べているように緩慢に笑みを作りながら食べるのだ。
「……。それもありな気がしてきた」
シュークリームひとつでこんなに幸せそうな顔をする友人を見て、森下は頬杖をついたまま呟いた。
「幸せな勘違いだよ」
ルラは笑って最後に指先をぺろっと舐めて、珈琲でシュークリームを胃に流し込んだ。
男のシュークリームを食べる顔を見て頬笑むだけの自分なんて、なんて気色悪いのだろう。結局、シュークリームはふたつともルラが食べてしまって、自分の小腹は空いたままだ。
「味、どうだった?」
「シュークリームに不味い物があると思うのかい? ル・シャ」
「買ってきた店の評判がわからないから、味の感想を聞いているだけ」
「美味しかったよ。また買ってきてほしいな、もちろん君の好意でね?」
ルラは口元をにんまりとさせて笑った。森下はため息をつく。振り回されているなあと思いながら。
次に買ってくるときは、エクレアとシュークリームにしよう。
ルラが幸せそうで、自分もきっと美味しいエクレアが食べられるだろうから。
(了)