音楽

 ふたりはぞっこん惚れあった仲でした
  女はあばずれ 男は盗っ人
  男がひとかせぎすたびに
  女は両手を叩いて ベッドの上で笑いころげました

 毎日毎日 おもしろおかしく過ぎていきました
  毎夜毎夜 女は男の胸もとでねむりました
  男が牢獄にしょっぴかれたとき
  女は窓べに立って笑っていました

 男は人を介して言いました――「頼む 逢いに来てくれ 恋しくてならぬ おまえの名をいつも呼んでいる 焦がれて死にそうだ」
女はただかぶりをふって笑いました

 午前六時 男は首を吊られました
  七時 死体が墓に埋められました
  でも八時には 女は
  赤ブドウ酒を飲んで 笑ってました

 ハイネ「あばずれ」

***
「僕はセロニアス・モンクの弾くピアノジャズが大好きだ」
  ルラがそう言っていたことがあった。
  彼は自分の好きなものを語るのが好きだ。といっても、過分に語るわけではない。一言二言、それがどうして好きか説明するだけ。だいたいは森下にとって理解不能な説明で、だけど森下はその作品に興味をもつ。なぜ興味をもつのかはわからないが、それがルラ=スノリという人間を形成している一部だからじゃあないだろうかと森下は思っている。
  ともかく、何かのきっかけでルラがセロニアス・モンクのジャズが好きだと言ったことがあった。森下はそれを自宅にひとりでいたとき、ふと思い出し、インターネットで検索にかけてみた。動画つきの音楽はすぐに引っかかった。森下はやや早る気持ちを押さえながら、そのメロディに耳を傾ける――

「ルラ、セロニアス・モンクは好きになれそうもないよ」
  いつものカフェ、いつものテラスで待ち合わせをしていたルラにそう言うと、彼はシュークリームを食べる手を休めて首を傾げた。
「そう? あのはっちゃけちゃいましたのようなてきとうに引いてる感じがすごく好きなんだけれども」
「あの足でとってるテンポが僕と合わないんだよね」
  セロニアス・モンクは足でリズムをとりながらピアノを弾き鳴らす。彼の独特のリズムやテンポが、森下はどうも自分のリズムと合わずに苦手だった。
「シェル・アミ、君がジャズにこだわりがあるとは知らなかったよ。どんな曲ならばお気に召すのかな?」
「こだわりってほどのこだわりはないけれども、そうだな……ミシェル・ペトルチアーニとか、綾戸智絵とかは好きかも」
「メロディアスなジャズが好きなんだね」
  ルラはそう言ってシュークリームのパイ生地にもう一度噛み付いた。彼がシュークリームを食べ終わるまでは椅子を立たないのは知っている。森下は頬杖をついたまま、ルラがシュークリームと格闘し終わるのを待っていた。
  濃く入ったエスプレッソに砂糖をたっぷりといれて、一口啜る。それでも苦いと感じて森下は眉をひそめる。イタリアの珈琲はともかく苦く、濃い。
「飲まないならば頂戴よ」
  隣からそう言われて、ルラのほうに珈琲を押しやった。ルラはコップを両手で包むと美味しそうに一口ずつ口に運ぶ。森下は代わりに彼の残したミネラルウォーターを口に運んだ。硬水の味も、実はまだ慣れていない。
「さて、君が待たせるものだから随分日が暮れちゃったけれども……」
  ルラは指先についた粉砂糖を舐めながらそう言った。森下はたしかに遅れたのは認めるが、ここに長居した理由はどちらかといえばルラがたくさんシュークリームを頼んだのが悪いと言いたかった。
  ルラはそんな眉を寄せてる森下のことは気にしてないよという表情で立ち上がり、時計を確認する。
「君がジャズが好きだということがわかったからね。ならばジャズバーに行こうじゃあないか。時間もちょうど夜の時間帯に差し掛かってる」
「いいけれども、ここらへんにジャズバーなんてあるの? 僕は地理はさっぱりだよ」
「何軒かあるって聞くけれども。僕が知ってるのは一軒かな」
  ルラはそう言って先を歩き出す。一歩遅れて森下もついていく。彼はミラノの立て込んだ道をいくつか曲がりくねり、小路にある半地下のバールへと入っていった。森下もついて入っていく。
  間接照明が室内をあたたかい色に照らしている、少し広いバールだった。奥にグランドピアノがあり、ステージもある。壁には赤いペイントの抽象絵画が飾られており、美術バーのような雰囲気を思わせる。
  ルラはカウンターの席に腰掛けた。森下もその隣に腰掛ける。手を布巾で拭きながら、メニュー表を確認する。
「僕は白ワイン。シェル・アミ、君はどうする?」
「うーん……じゃあ、このあばずれっていうカクテルで」
  なんとなく気になったカクテルを指定してみる。ルラはそれ以外にナッツとピクルス、森下は生ハムを注文した。
  やがて部屋の照明が落とされ、演奏者とシンガーらしき女性がステージにあがってお辞儀した。
  ルラもたしかジャズっぽい曲を弾くと言っていたことを思い出した。といっても、彼が弾いているところを聞かせてくれたことはないのだが。
「お待たせしました。あばずれです」
  バーテンの声に、意外と早くできるものなのだなと思ってカウンターを向き直ると、そこにあるのは赤ワイン。
「ワインのカクテルですか?」
「知らないで頼んだの? ル・シャ」
  隣ではグラスワインを傾けているルラがフォークでピクルスをつまんでいた。森下はグラスを引き寄せるとくん、と匂いを嗅いでみて、それから一口含んでみた。赤ワインの酸味と、レモンの果汁、そしてソーダの気泡が口に広がった。
「レモンソーダで赤ワインを割ってあるのか。でもなんであばずれ?」
「ハイネのあばずれって詩にあわせてあるんでしょう、きっと」
「詩? なんでそんな詩が関係あるの?」
「ジャズの中にもビッチェス・ブルーって曲があるからね。たぶんそれとかけてあるんだと思う」
  そう言ってルラは壁にかけてあるハイネの詩を指さした。
  森下は眉をひそめた。泥棒が処刑されるときに女は処刑場にさえ行かなかっただと? けしからん内容だと思って。
「その泥棒が可哀想だと思う?」
「女が哀れすぎる。もうそんなに愛してくれる男は現れないだろうから」
  きっと自分が悲しかったことにすら気づかない、そのあばずれが可哀想すぎると思った。ルラはにんまり笑って
「シェル・アミ、君は仮に脱税で捕まったとして、恋人が面会にこなかったとしたらどうする?」
「恋人なんていないよ。考える必要もないじゃあないか」
「じゃあ、僕が面会に行かなかったとしたら?」
  何を言われているのかわからず、ぱくりと生ハムを口に頬張った。ルラは頬杖をついたまま、グラスの中の白ワインを揺らしてこう言った。
「君が不味い留置所のご飯を食べているときに、寂しいから会いにきてくれと君が僕を呼んだとしよう。僕はここでこうやって、ワインを揺らして首を横に振る。君が簡易裁判を受けている最中も僕がここで酒を飲む。君の有罪が決定したあとも僕は君のことを気にしてないかのようにここでワインを傾ける。どう?」
「どうって……」
  口ごもるように、「それはちょっと腹が立つな」と呟いた。
「でも仮に僕が脱税で捕まったとして、君はきっと一年後に出てきたときには、とっくに違う友達をつくって酒を飲んでいるのだと思うよ」
「ご名答。待たないよ」
  短くそう言って、ルラは首を傾げる。
「いつまでも待っているよなんて、君も心の重荷でしょう?」
  森下は反論できずにあばずれカクテルに口をつけた。悔しいが、こいつは待っていないのだろう。そして自分もそんなときに待っていてほしいと思う性格ではなかった。
「でも僕が仮に何かの罪で捕まったとしたら、君は待っているのだと思うよ。ね? ル・シャ」
  そう言われたときの森下はどんな顔をしていたのだろう。自分がそんなに情に厚い人間だとまだ思われていたとはとびっくりしたのだろうか。ただ目に映ったのは、ルラの勝利を称えるような満面の笑みだった。
  女性ヴォーカルとピアニストが退場して、次のジャズグループが演奏を始める。
  流れ始めた曲にルラが「ビッチェス・ブルーだ」と呟いた。あばずれ女の憂鬱……仮に森下が何らかの罪で投獄されて、ルラが待っていなかったとしても森下はそんなもんだろうと思うだろう。ルラはどうだろうか、こんなにお前のことが大好きな友人をひとり失って、もう二度と見つけられないかもしれないのに、探しもせずに酒を飲み笑っているのだろうか。
  なんだかそれも可哀想だな、なんて自分勝手な同情をしながら、森下はジャズに耳を傾ける。前衛的なジャスはお気に召さないのでなんとなくいづらい気分だった。一方のルラは楽しそうに聞いている。
  彼とジャズの趣味は絶対にあわないと思った森下だった。

(了)