林檎

 言わせてください――
  キスは 歌のよう
  ことばのない歌のよう
  キスすると――キスすることがあるなんて!
  ふたつの魂がひとつになって 短調の 和音の
  ソロをかなでます――
  キスしてください…………
  キスしてください――ああ何と甘美な――
  キスしてください さあ この唇に……
  そう このようなキスはあれやこれやを語ります……
  キスしてください 傷がつくほど……
  キスしてください いつまでも 何分も何分も
  このほっぺたにも 赤くなるまで
  あなたが好きで まるで病気になったみたい――
  キスしてください 死ぬまで ぼくに……

 リルケ「キスの味」

***
 ルラの部屋に林檎があった。真っ赤な林檎があった。
  日本ではないから紅玉ということはないだろう。それにしても真っ赤な林檎だ。白雪姫が食べた林檎はこれくらい赤かったのだろうかと思うくらい赤い。ワックスがかけてあるわけでもないのに、ツヤツヤとみずみずしい果実を湛えている。
  森下は思わず、口を開いてそれに噛み付いた。
  しゃり、と音がして、甘酸っぱい果汁が口に広がる。よく熟れていて、花のようなふんわりした香りが鼻腔をくすぐった。幸せな気持ちになる。
「えろっ!」
  家主のいきなりの発言に思わずそちらを振り向く。ルラは水菜のカルボナーラをトングではさみながら、森下を指さして言った。
「なんか林檎に対していやらしい。視線とか、口とか、手つきとか、色々」
「は? 普通だよ。普通に食べてたよ」
「なんか林檎にキスしているみたいな食べ方だった」
「そんないやらしい食べ方していません」
  やや顔が紅潮したのが自分でもわかった。齧りかけの林檎を見下ろす。赤い実の中に自分が噛み付いた部分だけ白く、歯型がついている。
「キスしているみたい」というルラの発言が頭を駆け巡り、森下は林檎に噛み付くのをやめてフルーツバスケットに戻した。
「ちょっと、そのままじゃあ茶色くなるよ。食べるなら最後まで食べてもらいたいなあ」
  お皿に山盛りに注がれたカルボナーラを運んできながら、ルラは抗議の声をあげる。
「だって、意識して食べられなくなったんだもの」
「意外とシャイだね、シェル・アミ。林檎食べないならば僕が食べるよ?」
「食べかけをあげるのもどうかって気がするしね。僕が食べる。ナイフとって」
「ナイフ使って食べるなんて日本人だね。そのまま齧り付きなよ」
  ナイフを洗うのが嫌なだけだろうと思い、森下は仕方なく林檎に齧りつく。林檎はほどよく酸味があってとても美味しかった。じっとルラに見られていることに気づき「カルボナーラ冷えるよ?」と言ってみる。
「林檎、美味しそうに食べるよなあと思って。君は果物が好きなの?」
「そんなに好きなわけじゃあないけれども、これは美味しいよ」
  そう言って、もう一口齧り付こうとしたときだった。ふと森下の頭の中を林檎の逸話がかすめていく。
「ルラのことだからエデンの禁断の果実〜とか言い出すんでしょ。なんかそんな感じがする」
「何のビジュアル系バンドの影響? それよりか白雪姫の真っ赤な林檎を先に思い出すよ。林檎を喉に詰まらせて仮死状態になるなんて、なんか理想的な死に方じゃあないか」
「君、白血病で死にたいんじゃあなかったっけ?」
「白血病になれなくて絶望したときは林檎を喉に詰まらせて死ぬよ」
「それ、絶対シュークリームの間違いだから」
  つまらせるなら絶対にシュークリームのほうだろうと思った。ルラは手を伸ばし、森下の持っていた林檎を上から掴む。自分でも執着していなかったものだから、テーブルの向こうにいるルラに林檎はあっさりとられた。
  ルラはその林檎にかぷりと噛み付く。その噛み付き方こそ、キスをしているような噛み付き方だと思った。
「ためしに死ねないか噛み付いてみた。ただ美味しかっただけだけど」
  口をもぐもぐと動かして、森下が齧ったところを除いて周囲から食べていくルラを見ながら、森下は白雪姫の逸話を思い出す。
「白雪姫ってあとで王子様のキスで起きるじゃん。僕は放置して帰るよ?」
「そのうち誰かが僕にキスするために白馬に乗って通りかかるはずだ。硝子の棺に僕をいれてから帰ってくれ。薔薇を敷き詰めるの忘れないでね」
  また薔薇か。薔薇にそのうち嫉妬してしまいそうだと思いながら溜息をつく。
  本当に薔薇を敷き詰めた棺に仮死状態のルラを寝かせておいたら、誰かキスをしていく不届き者でも出てくるのではないだろうかと思った。
「ルラって林檎に似ているよね」
「は?」
  ルラが林檎に噛み付こうとしたまま、口を半開きにしてこちらに視線をやった。
  禁断の果実くさい。色も赤いし。
  森下はそこまで考えて、ルラに「早く林檎食べなよ。カルボナーラ冷めるよ」と言った。ルラは林檎に大きく口を開けて噛み付き、そうして芯だけになった林檎をゴミ箱の中につまんで捨てた。
  そういえば林檎って全部芯だけれど食べられる部分と食べられない部分があるんだよなあ、などと森下は考えた。齧られた部分からしおれていくなんて、なんともしおらしい食べ物だなと思うとちょっと愛おしい。

(了)