遠いところへ
いくつかの書類にサインしていると、自分の名前はどうにも間抜けたものに見えてくる。「ルラ・スノリ」。古いゲルマンめいた名前の響き。なぜ、二十一世紀のこのラテンとノルマンディの文化のはざまで、ぼくはこのヴァイキングの末裔のような名前のサインを繰り返さなくてはならないのか。
「できました」とぼくは受付のコリーヌに何枚かの紙を渡す。「これでいいですか?」
「ええ」と彼女は事務的に受け取って、それらに軽く目を通すと、脇に置いてあるスタンプを書類に強く押し付けた。「はい、これを。それじゃ、ムシュー・スノリ、ご機嫌よう」
彼女の手から控えを受け取る。彼女は笑いもしない。今はもう、また別の書類のほうに目を落としてる。まともに通っているときは、もう少し優しくしてくれたのに。固い木のカウンターを2度指でタップして、それから振り返って、歩き出す。まずは二歩。それから深呼吸。
これからどうするか、考えなくちゃいけない。いや、それもどうでもいいか。まずはウィーン。少し音楽に触れてみたい。あそこだったら、いくらでもオーケストラが聞けるだろう。別にパリで聞けないわけではないけれど、なんというかもう少し違う空気で聞いてみたい。でもウィーンにずっといるわけじゃないだろう。よくて一年、いや半年か。それくらいが限界だ。
セーヌ川が見えてくる。橋を渡って、リヨンのほうへ。都会の川の匂いは嫌いだ。
少し地中海のほうへ行ってみようか。イタリア、きっと、太陽の光にだってオリーブの香りが混じっている。
アパルトマンに帰ると、家主のアンヌが心配そうにぼくを迎える。「お帰りなさい」と彼女は言う。「ただいま」とぼくは返事する。もう、二、三言、いつもなら何か気の利いたことでも思いつくのに、今日はなぜだか頭がうまく回らない。セーヌ川のまるで何か油めいた匂いが、ぼくの頭の中を腐らせる。リルケ、君は正しい。ぼくもまた生きようと思ってここに来た。でも、やがて死んでいくのだ、ここで。廊下を抜けて、階段に足をひっかける。
「大丈夫?」とアンヌは尋ねる。
「ええ、大丈夫です」
「明日、出て行くのね」
「ええ、明日出て行きます」
「もしいたかったら、もう少しいたっていいのよ?」
「アンヌさん、あなたはとてもいい人です。この町で生活できたのも、あなたのおかげだと思う。でも、ぼくはどうにも、ここじゃあ、だめな気がする」
微笑んで、階段につっかけた足で体をぐいと引く。体が持ち上がって、次の階段へ。あまり気分はよくない。明日出ていけるかどうかが心配だ。荷物はもうまとめてある。何着かの服。何冊かの本。それ以外は全部捨てた。部屋へ入って、窓もカーテンも開けずにベッドに寝そべる。疲れたのだ。何に? ヴァイキングの名前を書くことに。それもある。セーヌの匂いに、太陽の光に、パリに、フランスに。まあいい。どこかへ行こう。金はある。なくなったら、また父か母に手紙でも出せばいい。いくらだって金は送ってくれるだろう。
「太陽のせいだ」ムルソーを真似て、ぼくはそう呟いてみる。シャワーでも浴びよう。立ち上がる。歩き出す。浴室までは十三歩。
熱いお湯を浴びると、少し目も覚めてくる。明日パリを出るのだ。まずは東へ、それから南へ、そのあとは西へ行こうか。そのあとは? 今考えたってしょうがない。パリ・ソルボンヌ。卒業だってしようと思えばできただろう。文学のレポートはいつも満点だった。語学だって悪くなかった。昨日までは授業に出ていたのだ。イタリア。どこがいいだろう。どうせヨーロッパの長靴に潜り込むなら海の近くがいい。ニース、ジェノバ、ヴェネツィア。塩の香り、おいしい魚、酸味の効いた葡萄酒。こういうことを考えると少し気持ちが明るくなってくる。ウィーンならまずはビールだ。食べ物のことはよく知らない。いや、でもウインナー・ソーセージと言うくらいだから、ソーセージはきっとうまいだろう。ここのこじゃれた料理のいちいちには少し飽きてきた。食文化が変わる。きっとこれは大きな違いだ。だって、料理には文化が全部つまってるもの。これでレポートひとつ書けそうだ。「人類の食文化的分類」。まず、大別して料理には二種類の……。いや、もうレポートなんて書く必要ないんだから、そんなどうでもいいことは考えなくたっていい。ウインナーの意味よりも、ウインナーの味だ。
シャワーから出て服を着たところで、扉が叩かれる。タオルで髪拭きながらノブを回すと外にジャンが立っている。ジャンは二つの太い眉をくっつけんばかりに近づけてぼくの顔を見る。ずいぶん、間抜けな表情だ。この調子だとぼくを引き留めにきたんだろう。スペイン生まれの彼の濃い顔が歪むと、何か戯画のような趣きがある。
「やあ」と先にぼくが切り出す。「どうしたんだい」
「外で話そう」ジャンは言う。「今日くらい付き合えよ」
彼のスペイン訛りもそういえばようやく慣れてきたところだった。彼のまちがえた発音を正してやることももうないだろう。
「ぼくが断ることなんて一度もなかったじゃない」
「三度あったよ」
「最後なんだから、そこはおまけしてくれたっていいのに」
ぼくとジャンはアパルトマンを出て歩き出す。歩いている間、ジャンはほとんど喋らないので、ぼくがほとんど一方的に喋り続ける。他愛もない話ばかりが、やたらと回る口の隙間から滑り出ていく。自分でも何を喋っているのかわからない。二ブロックほど歩いて、ぼくたちは適当に見つけたバーに入る。ぼくは酒をやりたくなかったが、ジャンが容赦なくウィスキーを注文したので、仕方なくハイボールにしておいた。ジャンは少し顔をしかめたが、許してよ、と表情で示すと諦めた。
酒が来ると、ジャンはグラスをこつこつとテーブルにぶつけながら、言葉を選びはじめた。
「やめるのか?」
「やめたんだよ」
「どうするんだよ?」
「フランスを出る」
「アメリカにでも行くのか?」
「アメリカは嫌いだ。言ったじゃないか」
「おれはアメリカに行くよ」
ジャンは、もう一度こつんとグラスをテーブルにぶつけてそれからウィスキーをぐいと飲み干す。
「そうなの?」
「ああ」
「いつ」
「来年」
「なんでまた」
「わからないよ」
ジャンはもう一杯ウィスキーを頼む。この男は肝臓があまり強くない。だから、すぐに顔が赤くなるし、酔っぱらう。そのくせ、よく飲む。酔っ払いの典型だ。このペースじゃ、こいつを家に送り届けるのはずいぶん厄介な仕事になりそうだ。
「君だって、ずいぶんアメリカのこと毛嫌いしてたじゃない」
「そうだよ。だから行くんだ」
「闘牛士の血が騒ぐわけだね」
「それならお前は気狂いピエロだ」
「それはありがたい」
「近々出るのか」
「明日ね」
「ずいぶん近いな」
「近いほうがいいと思ったんだ」
「そうか」
結局、ジャンは酔いつぶれなかった。ぼくのことを気遣ってくれたんだろう、優しい奴だ。ただ、ふらつきながらヴォルテール通りを下っていくジャンの後ろ姿を見るのは少しものかなしいものがある。ぼくはできるだけ、もう彼のことは考えないようにした。
家へ帰るとまたアンヌが迎えてくれた。
「彼とはきちんと挨拶できた?」アンヌは優しい微笑みでぼくに尋ねた。彼女は心から優しく笑える。時々不安になるくらいだ。
「いつも通りさ」
「優しいのね」
「ジャンはね」
「あなたもよ」
そう言うと、アンヌはルラをそっと抱きしめた。
「さみしくなるわね」
「ぼくに恋でもしたんですか?」
「あと私が十才若かったらわからなかったわ」
「あとぼくが十才はやく生まれていたら、ずっとここにいたかもしれないのに」ぼくは笑って、アンヌの頬へキスをした。「ありがとう、アンヌ」
「お父さんやお母さんにあまり迷惑をかけちゃだめよ」
「それは難しいです。もう寝なくちゃ。明日早いから」
ぼくはアンヌから離れて、自分の部屋へ行く。アンヌとあまり長く話すと、出発を引き延ばしてしまいそうだった。部屋へ帰ると、アルコールのおかげでか、思ったよりもずっと早く、ぐっすり眠れた。
朝、リヨン駅はひどく混んでいる。鉄道はあまり使わなかったし、人込みはできるだけいつも避けるようにしていたから、これだけの人を目の前にすると、パリにはこんなに人が住んでいたのかと感心してしまう。アンヌが見送りに来てくれた。電車に乗り込む、少し前に今度はぼくがアンヌを抱きしめた。
「ねえ、あなた(シェル・アミ)、ぼくはまたフランスへ来ます。何年後かはわからないけど。でもどこか、落ち着いたら、いや、落ち着かなくても、きっと手紙を出しますよ」
「ええ、きっとね」
アンヌは優しく笑ってそう言った。それでぼくは抱擁をといて、電車に乗り込んだ。シートに座り込んで、あまり大きくはないバッグを抱えて、電車が揺れた。遠のいていくリヨン駅を見ながら、ぼくはぼくがここへ来たのは間違いではなかっただろうと思った。