愛と、その変種
ぼんやりとカフェのテラスに座ってルラがコーヒーを飲んでいると、男から財布を盗んで逃げていく少年があった。男は自分の財布がなくなったことにも気付かず歩いていく。ルラは何の気もなく彼を見送って、大した腕だと感心してしまった。でも、多分あのスリの少年の収入は男の財布の中身の何分の一かなのだろう。スリの元締めがいるはずだから。子供たちにスリをやらせて金を稼ぐ馬鹿みたいな商売。いやこれは商売じゃないのか、何も商ってなんかいないから。そういえば、ブレヒトの『三文オペラ』がそんな話だった。といっても、あれは乞食だけど。
そうこう考えていると待ち合わせに十分遅れて森下がやってくる。森下の姿が視界に入ると、ルラはウェイトレスを呼びつけてコーラを持ってくるように言った。
「遅かったじゃないか、ル・シャ(猫ちゃん)?」とルラは正面に座った森下に笑いかける。森下は不満げに眉をひそめて言い返した。
「君ね、ぼくの仕事が三時終わるからって、待ち合わせを三時十分にするのはどうかと思うよ」
「だからわざわざ君の家から五分もかからないカフェで待ち合わせしてるんじゃないか?」
「準備とか休憩とかの時間は勘定にいれてくれないわけ?」
「準備は早起きしてすればいいよ。休憩なんてぼくに会ってからでも十分間に合う。そうだろう?」
森下はやれやれといった具合に溜息をついて運ばれてきたコーラを飲んだ。
「それにさ、そのル・シャっていう呼び方やめてよ。なんでぼくが猫ちゃんなんだよ」
「他になんて呼べばいいんだよ」
「森下でも、透でもいいじゃない」
「モリシタ」ルラは何度か、舌の上で森下の名前を転がす。それから次に「トオル」とつぶやく。「まるで日本人じゃないか」
「日本人だよ。ハーフだけど。ぼくは日本人だよ」
「日本人の名前にはどうもアクセントがないから楽しくないな。いいじゃないか。ル・シャ。素敵だし、似合ってる。パリじゃ、女の子だってこんな風に呼ばなかった。名誉に思えよ」
ルラがこう言うと、森下は何も言わず、不満げに目をそらして手元のコーラを飲む。ルラは森下が好きだった。好きな理由はいくつかあったが、なにより好きだったのはルラのことを森下が大好きなだったからだった。だから、ルラは森下といればいくらだって足を延ばしてかまわないと思っている。ルラのピントのずれた言葉のひとつひとつを、きちんと森下は好きでいてくれるのだ。
森下がふてくされている間にルラはぼんやりとまた往来を眺めた。さっきのスリの少年の姿でもないかと思ったが、やはり見つからなかった。そんなのは当たり前の話だ。ルラは今ごろ、少年から金をせしめているだろうスリの元締めの男のことを考えた。こういうのは熊みたいな巨漢で、髭がぼおぼおで、歯がぼろぼろで、頭がつるつるに禿げあがっていると相場が決まっている。そして、いやらしい顔で笑うのだ。
「少し歩こうか」
考えていたら気分が悪くなったのでルラは立ち上がった。森下も黙ってついてきた。勘定はルラが支払ったが、森下はありがとうとも言わなかった。
「女の子にもてないぞ」と言ってやると「困ってないもの」と返された。それで二人は並んで往来に出た。乾いた日の光がさんさんと照っていた。森下は歩き出してまもなくポケットから煙草を取り出して火を点けた。二人は黙って、適当に歩き回っていたが、まもなく森下が疲れたと言った。それで二人は適当に見つけた公園のベンチに座った。
「不機嫌なの?」と森下はルラに聞いた。
「なんで?」
「なんとなく」
「まあね」
「そう」
森下はそう言って、もう一本煙草を取り出した。煙草の先端から、白い細い煙が宙に伸びて、風にあおられた。森下はもう何も言わなかった。ルラは森下が煙草を吸い終わるのを待っていた。待って、何をしようというわけではなかったが、煙草がすべて灰になるまで何もせずに、流されていく煙を見つめていた。煙草が短くなるにつれて、少しずつ悪かった気分も晴れてきた。
公園を歩いていく何組かのカップル、大人から子供まで、楽しそうに笑っていたり、気難しそうな顔をしていたり、手をつないでいたり、男が一歩前を歩いていたり。
「君はアムールって信じる?」森下が煙草を捨てたのと、ほとんど同時にルラはそう言った。
「愛?」
「アモーレじゃない。アムール」
森下は、不可解なような、と同時にまた講釈か、というニュアンスの表情を示したが、ルラはそっくりそれを無視した。
「ぼくは信じてるよ。ぼくを無条件に愛してくれるような、そんなアムール。ぼくが無条件に愛してしまうような、そんなアムール。なぜだかわからないけど、愛してしまうような、なぜだかわからないけど、愛されるような、そういう愛がほしい。わかるかな? そして、ぼくはそんなアムールのために、いつだってその座を取っておかなくちゃならないんだ、ぼくの中に」
ルラは慎重に、言葉を選びながら喋った。なぜ自分でこんなことを喋ったのかはわからなかったが、なんとなく話したくなった。森下は、じっと公園の空気の中に何か答えを探しているようだった。乾いた光、乾いた風。地中海から150キロ離れたこの町は潮の香りからもほど遠い。
ルラは森下が日本のことを考えているのだろうと思った。親指の位置、唇の閉じ方、目の細め方、そういった体のところどころに日本のことを話すときの仕草が見て取れた。森下は日本が好きなのだろう。
「16歳のとき」と森下はつぶやいた。やっぱりと思ってこっそりルラは微笑む。
「もしかしたら、ぼくはそういう人に会ったのかもしれない」
「名前は?」
「陸さやか」
「さやかちゃんね」
「言わせるなよ」
「言ったのは君だろ」
森下は悔しそうな、恥ずかしそうな顔をする。そんな森下の顔を見て、ルラは笑う。
「それで?」
「それだけ」
「アモーレはしなかったわけだ」
「びっくりするよ。他の女の子には性欲わく癖に、彼女にはそういうこと何にも思わなかった」
「そういうのなんていうか知ってる?」
「なに?」森下はどこかいやそうな顔をしてルラを見る。
「青春」ルラは笑う。
「うるさいよ」
ルラは一通り笑うと、森下の顔を見た。整った顔立ちをしているから、きっと日本ではもてたのだろうと思う。それに性格もユニークだ。今だって、捕まえようと思えばひとりふたり見つけるのは難しくないはずだろう。ここの文化にのっかるのが嫌なのかもしれない。ルラたちの前で、道を行く女の子に男が声をかけている。あらゆるロマンチックな言葉を使って、彼女を誘うが、彼女はつんとした様子のまま通り過ぎて行ってしまう。男は男で、無理だと判断するや諦めて、平然としてどこかへ向かってしまう。お互いに慣れているのだろう。ルラはそんな様子がおかしくなって、笑顔で森下に話しかけた。
「ぼくたちは多分、いつもアムールを探してるんだ。気づいていなくても。それで、いろんなアムールの変種を作る」
「変種?」
「そう。不完全な愛をいろんな形で作り上げていく。アムールを夢見て。それでぼくたちは恋をする。アモーレしてみたりね。そこにアムールを見つけようとして。こうしてぼくたちが仲良くなったのも、アムールを探していたからだ。いま、ぼくたちの間にある友情も、きっとアムールの変種なんだよ。でもだからって、変種に価値がないわけじゃない。アムールの変種だって大切にしなくちゃいけない。それだって、やはり愛には変わりないからね。でも、やっぱりアムールを探してしまう」
森下が何か言おうとしたが、ルラは無視して、立ち上がった。
「甘くて、冷たいものが食べたい。ジェラードを食べよう。奢ってよ」
ルラが笑うと、「お断りだよ」と森下も笑う。それで二人は公園の隅のジェラードの屋台に向かって歩き出した。ルラは森下のことが好きだと思った。
「それにしてもユーロっていまいち品がないと思わない?」とルラが言う。「ぼくはリラの方が好きだったな。舌を二度はじいてリラ」
「ルラみたいなリラ、ね」
「その通り」
ルラたちの隣を一組のカップルが通り過ぎて行った。彼らはとても幸せそうに見えた。
それからルラはぼんやりとまた、あのスリの少年の行方を頭の中で追っていた。