姉が帰ってくるという連絡が入ったのは一週間前だった。
前日になっていきなり連絡してくる父親と違い、きっちりと「一週間後、旦那と娘を連れて帰国します」と書いてあった。
そのメールを見たときに、姉がもう八月朔日聖(ほづみさとる)になっていることを今更ながら、思い出した。姉と会うのは本当に久しぶりである。
「透さん、随分大きくなりましたね」
聖は森下を見たときにそう呟いた。最後に見た自分が十六歳ならば、当然大きくなっただろう。
「本当だー。大きくなったね」
娘を抱っこしている八月朔日もにこにこしながらそう言った。
「ほら、菜々美、挨拶してごらん」
「こんにちは、透!」
菜々美が元気に手をあげて挨拶した。
「梗さん、少し菜々美の面倒を見ておいてください」
聖は荷物を運び込むと、森下を呼びつけた。「話がある」と事前に聞いていたので、その件についてだろう。
聖はキッチンでティーパックをお湯につけるとカップを森下と自分の前に置いた。
「お茶の位置、変わってましたね」
「姉さんがいなくなって随分経つからね。そりゃ物も移動しているよ」
戸浪がおき場所を移動させたあと、漂がさらに移動させたのだ。今じゃあキッチンのどこに紅茶があるのか森下にもわからない。
「それで、話ってなに?」
紅茶に角砂糖を沈めながら森下は聞く。
「簡潔に結論だけ述べるならば、イタリアに一緒に来ていただきます」
「はあ。なんで?」
「お父さんが退職したからです。予てより透さんと一緒に暮らしたいと言ってましたが、お父さんを日本に住まわせるよりは若くて一人身のあなたがイタリアに来るのが筋でしょう?」
聖は早口にそう言った。
「それとも、父親に孝行もできないんですか?」
「そんなことはないけれども……」
デイトレーダーの仕事は日本以外でもできないわけではないし、結婚しているわけでもない。エリクは歳をとっているのだから、一緒に暮らすなら今のうちにイタリアに渡るべきだろう。
「……わかりました」
森下は結局、応じることにした。聖が安堵したような顔になる。
今まで遊びに行く気もなかった遠い地に行く気になったのは何故だろう。日本に未練がなくなったからではないだろうか。
長い間兄役を務めてくれた章彦に会いに行くと、彼は少し寂しそうな顔をして
「元気でな。お父さんを大切にするんだぞ?」
と言った。
イタリアに行ってもたまに連絡することを伝えて、章彦と別れる。
あとは裁判部のメンバーで今も連絡をとっている海馬と戸浪、現在付き合いのある女の子たち、そして最後に漂に連絡をした。
漂は「ちゃんと会って話そう」と言ったので、漂の家まで歩いていった。
彼は玄関で待っており、「少し歩こう」と言った。
暗い川べりの道をふたりで歩いた。漂とふたりきりで川べりを歩くのは久しぶりである。
「昔はさ、宮月さんを送った帰り、ふたりだけで色々話したよね」
森下はそう話題を振った。
「いつの間にか二人だけになって、そしてまた三人になったけど、また二人に戻るんだな」
漂が少し寂しそうに呟く。
「そう? 僕はさ、二人きりだと思ったことはあまりなかったよ。三人いるときは、三人だけど、僕と宮月さんだけのときは咲良の話題ばっかで盛り上がってて、咲良と僕のときは無意識に宮月さんの話題が入ってね、結局さ……咲良は界面活性剤みたいなもんなんだよ。僕と宮月さんを混ぜる、ね」
「なんだよ。僕がいないとそんなにぎくしゃくしていたわけ? 二人とも」
「ぎくしゃくはしていないけれども、なんていうのかな……咲良がいると自然になれるというか」
漂が照れて顔をそらしたので、森下は笑った。
「最初会ったときは二人のこと女の子と間違えて、咲良不機嫌だったよね。嫌われているんじゃあないかって思ってたのに、咲良のほうも僕が君を邪魔扱いしているんじゃあないかって勘違いしていて」
「お前は高校生のときから本当身勝手な奴だった。すぐにべたべたしてくるし、寂しがりやだし、女にだらしないし、サプラーだしさ……本当みんなどうしてこんなどうしようもない男を好きになるんだろうな」
「母性本能?」
「アホか」
漂が呆れたように呟く。森下は立ち止まって、漂を見た。彼もこちらを見やる。
「あれじゃない? ラムのテーマ」
「何それ」
「あんまりそわそわしないで〜、余所見をするのはやめてよ〜ってやつ」
「僕が『あたしが誰より一番』とか言うのか。ありえねえ」
もう一度呆れたような顔をして、漂は言った。
「昔、なんかすごく寂しい歌、歌っていたじゃないか。それ聞いたときになんとなく、お前の側にいなくちゃいけない気がしただけだよ」
「ありがとう」
森下は笑顔をつくると、漂を軽く抱きしめた。
「おい!」
「好きだったよ。咲良のこと」
きっと、彼は困った顔をしているだろう。そういう感情は受け入れることができないと。だけど伝えるならば、今しかなかった。
「本当、困ったやつ」
それだけ呟いて、抱擁に抵抗することなく、漂はじっとしている。
「宮月さんのこともね、大好きだった」
「どっちかひとりに絞れないのか? お前」
うめくように漂が言った。本当に自分自身でもそう思ったので、笑ってしまう。
「宮月さんが退院する日、近づいたら教えてくれる?」
「帰ってくるのか?」
「もう帰ってくるかどうかはわからないけれども、お祝い贈りたいから」
「また何か企んでないだろうな?」
「何を企むっていうの?」
不思議そうに聞き返して、漂を抱いていた手を離した。
「さようなら」
本当に、もう会うことはないのだろうと思ってそう言った。そのまま踵を返し、駅のほうへと歩いていく。
「森下!」
後ろから漂の声がした。
「お前はもう一人じゃあないからな!」
振り返って、お人よしの男を見て笑う。
「ありがとう」
とても、とても幸せな気持ちだった。自分の居場所が日本にもあって、イタリアにもあって、大切にされていたことを知ったから。
◆◇◆◇
森下がイタリアに渡って、しばらくしてメールが届いた。生活は概ね順調だが、言語がわからないことにちょっと苦戦しているらしい。
まああいつの言語能力はそこそこ高いし、英語の通じない国でもないので、そのうちあっちの生活に慣れるだろう。
宮月の退院が近づいている。僕は森下に退院するだろう日を教えた。「プレゼントを咲良の住所に送っておく」と返ってきた。
何が送られてくるのだろう。あいつのことだから値の張るものを送ってきたりするんじゃあないだろうか。宮月にそれの管理ができるかちょっと心配になりながら、僕は仕事と病院の往復をそれからもした。
そうして、宮月の退院の日がやってきた。彼女はこの半年くらいで、随分と痩せた。久しぶりにパジャマ以外の服を着て、タクシーに乗った途端に「ガストのハンバーグ」とか言い始める。
「そんな安いハンバーグでいいわけ?」
「あのチープな味付けがとても恋しいのよ」
「なるほど」
「あとね、ケーキ。今の時期、桃のタルトが美味しいじゃない? お酒も飲みたいなあ。最近全然飲んでないし」
退院したと同時に不摂生な生活に戻りそうだ。僕はため息をつく。しばらく宮月の面倒を見なければならなさそうだ。森下とは別の意味で生活管理のできない彼女を。
「あ、そうだ」
僕は思い出したように、宮月に言った。
「今日さ、午後に僕の家に荷物届くんだ」
「何か買い物したの?」
「森下から退院祝いが届くんだってさ」
「わあ! 楽しみ」
宮月が歓喜の声をあげる。本当に現金な奴だなあと思いながら、元気になった彼女が見られて少し嬉しかった。
自宅に帰りつくと、丁度宅配便の人が荷物を横に置いて僕が留守なのに困っていたようだ。その荷物の大きさに、絶句。
「大きな荷物ねー」
判子を押している間に宮月がにこにこ笑いながら箱を運び込む。青い包装紙に包まれた、洗濯機くらいの大きな箱がひとつ。
宮月が嬉しそうにその箱を開けると……中から真新しい純白のドレスが出てきた。
「ウェディングドレスだ!」
きゃーっ、と声をあげて宮月はドレスを抱えるとくるくると回った。宮月がドレスを引き離したものだからその下にあったもう一枚のドレスに目が止まる。
「ちょっと待て、僕の分も用意したのか!? あいつ」
「あはははは。胸に当ててみたら?」
宮月がおかしそうに笑う。一番底から手紙と指輪まで出てきた。
――指輪はちゃんとみっつあります。
そう書いてあって、写真に左薬指に指輪を填めた森下の写真が映っていた。なんとも、いい笑顔である。
「あんのやろう」
「ねえねえ、漂くん、ウェディングドレス着て見せ合いっこしようよ!」
「着るか!」
思わず真っ赤になって叫ぶ。宮月はドレスの綺麗さに有頂天だ。
指輪のダイヤはとても大きな雪の結晶のような形をしていた。
永遠に溶けることのない、輝きをもって。
(了)
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