ハンカチにい染み


「あたしは殺されるために生きている」
  そのことを初めて告白したのは、絶対に自分を殺してくれないと思った男だった。森下くんは絶対にあたしのことを殺してくれるほど愛してくれはしない、ゆえに秘密を洩らしてもまったく問題ないと判断したのだ。
  彼は「どうして?」と聞いてきた。今思えば、理由を話せばもっとすっきりしたのかもしれない。そのとき自分の内に秘めていた悲しみを全部吐露していれば、あたしは今こんなに男に絶望することもなく、普通に結婚していたのかもしれないのだ。
  誰もあたしを殺してくれる男など、いないということに気づいたのは遅すぎる二十五歳の秋だった。
  そもそもどうして男に殺されることを夢見たのだろう。
  あたしのお父さんは、あたしに「綺麗すぎて怖い」と言った。あたしは世界で一番自分を愛してくれるはずの男にそう拒絶された。たぶんそれゆえに、男に絶望し、それゆえに、男を渇望し、それゆえに、愛してやまず殺してくれるような男を、歪んで望んだのだと思う。
  あたしの人生をぐちゃぐちゃにしたお父さんに、最後に殺されたかった。あたしは躰を蹂躙されながらそう感じる。
「この女、叫ばないな」
  まさぐる手を止めてひとりの男がそう言った。
「口に砂利詰めすぎたんじゃないか? 声帯傷ついてたりして」
  喉が痛いのは確かだ。砂利をいくつか飲み込んだのも確かだろう。
  あたしの下腹部には男の欲望が差し込まれていて、それは気持ちがいいどころか痛いだけだった。
「まあいいじゃん、この女犯せば仕事終了だろ?」
  誰かが依頼したのだろう。だけど恨みを買いすぎて誰が依頼したのかわからない。そうしてそんな恨みを買った相手ですら、自分を直接殺したいとは思わないということを知ったのだ。

◆◇◆◇
  漂と会うことはもう二度とないと思っていた。
  部屋は散らかったが、別段困ることもないと思いながら、過ごす日々。穏やかすぎた。心に波風ひとつたたない、平穏な日々。
  きっと漂のことなど、あさり思い出の存在に昇華できると思っていた矢先だった。漂から一本の電話が入る。
「宮月が入院した。保証人が必要だから行ってくる」
  漂が深刻そうにそう言った。手術に保証人が必要なほどの怪我ということだ。
  こんなときに自分でなく漂を頼ったのは、結局自分がそれだけの男だったからだろうか。
「母親には連絡しないでほしいって言われて、森下に言ってもいいか聞いたらそれはOKだって言うから。お前も来るか?」
「行く。病院の住所教えて」
  こんな形で、宮月草那と再会することになるとは思っていなかった。

 ICUの待合室で、森下と漂はじっと待った。その間に漂から草那が強姦に遭った話を聞く。殴る蹴るで内臓に相当ダメージがいっており、口に砂利を詰め込まれた状態で見つかったため喉の損傷も酷いとのことだ。話を聞いた瞬間に眉をひそめたくなるような内容だった。
  やがて集中治療室に入る許可が五分だけおりて、森下と漂は草那の様子を見にいった。パイプとコードがいっぱい繋がれた草那を見たとき、森下は「こんなになってまでも人間は生きるものなのだ」と思った。
「お二人は宮月さんのお友達ですか?」
  手術をした医者がそう言った。
「少しお話があるのですが、どちらかひとり来ていただけませんか?」
「咲良が医者なので、そっちのほうが話わかると思います」
「では、こちらへ」
  森下は草那との面会を済ませて、漂が説明を受けるまでの短い間、病院の喫煙室で煙草を吸った。

「高額医療の説明と、あと宮月の障害について聞いてきた」
  説明書のコピーを森下に渡して、漂は言う。
「あいつさ、子宮壊れたって。もう子供できないかもしれないってさ」
  漂は坦々と言ったが、怒りのような、絶望のような、無力感のような、なんとも言いがたい、殺した声だった。
  森下は自分が冷静に受け止めているのを不思議に思った。「なぜ」より先に「ああ、やっぱり」がきたことに残念さを感じる。
  そのあと、手術代をふたりでどう折半するかソーシャルワーカーも参えて相談した。漂は自分ひとりで手術代を持つつもりでいたが、それはあまりに負担が大きすぎる。自分にも負担させてくれと願い出てそうした。
「宮月には、退院するまで内緒な?」
  漂がそう言った。内緒にするのは入院代ももちろんのことだが、障害についてもだ。余計な心配をさせたくない。

 数日後、個室に移動した草那の様子を見に行くと、彼女は流動食を不味いと言って残していた。
「本当に不味いのよ。飲んでみて?」
「コーヒー牛乳の味がするけど?」
「舌大丈夫? 森下くん」
  がさがさにしわがれた声で彼女がそう言う。声帯は完全に壊れてはいないとはいえ、相当傷がついている。
「あたしのことについて何か言われた?」
  草那がそう聞いてきた。
「すぐに綺麗な躰になれるって言ってたよ」
  森下はバレバレの嘘をつく。草那は笑って「よかった」と言った。
「僕もそう思うよ。宮月さんが生きていてよかった」
  森下はやさしく頬笑んでそう言った。
「ねえ、森下くん。私の鞄の中に入っていたハンカチ、洗ってきてくれない?」
「ハンカチ?」
「暴行受けたときにそれで血を拭いちゃったの。お気に入りのハンカチだし、しみになると嫌だから」
  草那が笑ってそう言う。それくらいならばお安い御用と森下は鞄の中からハンカチを探した。
  ぐしゃぐしゃになったハンカチが出てきた。それが元ハンカチだったとはわからないくらい、血塗ろの泥だらけのハンカチだ。
  自分の中に感じたどろりとした嫌な感情に蓋をしようとしたが、タールのようなそれが心の床に黒いしみを作る。
「洗ってくるよ」
  それだけ呟いて、森下は外に出た。ハンカチを洗ったが、もちろんそれで綺麗になるはずもなく、柄が見えるようになったところでそれがニナリッチのハンカチだとわかったので、まったく同じものを買ってきて草那に渡した。
「綺麗に落ちたのね!」
  草那が嬉しそうにそう言った。
「まるで新品みたいでしょ。看護婦さんがよく落ちる洗剤貸してくれたんだ」
  またしてもバレバレの嘘をついた。
「そのハンカチみたいに、宮月さんもすぐ綺麗になれるよ」
  そう言って笑った。

 帰り道、森下はくしゃくしゃのどろどろになったハンカチを広げた。彼女の受けたダメージが色濃く残っているハンカチを。それにライターで火をつけて、携帯灰皿の上で灰になるまで燃やした。
  水で一度しめらせたそれは、不完全な形で燃えカスになって残った。
  まるで自分の中の不完全燃焼な感情のように。

(了)


ハンカチにい染み