草那が入院してから、もっぱら見舞いにくるのは森下のほうだった。もちろん漂も見舞いにくるのだが、仕事の忙しい漂と、どんなに忙しくても午後三時には終わってしまう森下だと、必然的に森下のほうが多く来ることになる。
草那のために森下は家にある化粧水を持っていった。彼女は歓喜の悲鳴をあげて「アルベルタ・ベッラの化粧水? 高かったでしょう」と言った。まあ、家にごろごろあることは内緒にしておいて、喜ぶ彼女の顔を見た。
ぺたぺたと化粧水をつけてから「綺麗になった?」と聞いてくる彼女に苦笑する。
「綺麗になったよ」
「うん。ありがとう」
草那は綺麗な笑顔でにっこり笑った。
彼女の表面上の傷は癒えていく。しかし内側までは見えない。黒くどろどろになったハンカチを見たとき、森下は草那の表面を取り繕った部分ではないところを見た気がして、とても苦しかった。
だからいつものとおり笑ってくれる彼女にほっとするんだか、本音の部分を見せてくれない彼女に寂しさを感じるのかわからなかった。
本音を見せてくれるのは嬉しい。しかし重すぎる本音は嫌だ。そんな我侭な自分がいることに気づく。人間は適度な負荷が一番だと無意識のうちに思っている。
草那の表面の怪我は日に日に治っていった。しかし彼女の内側を治す術を、少なくとも森下は持ち合わせていなかった。
その日、いつものように彼女の個室を訪れると、そこには間仕切りのカーテンがしてあった。
「陽射しが強くて」
冬は真横から光が差すためにまぶしいと言いたいのだろう。
草那はたいへん退屈していたようで、森下がくると同時に色々なことを話し始めた。今日は15メートル歩いたこと、お風呂にそろそろ入りたい、ガストのハンバーグの味は長い間食べていないと懐かしく感じるなど、様々なことを。
「ねえ、森下くん。あたし最近御無沙汰なのよ」
最後にはこう言い出す始末である。病院だぞ? しかもお前が患者なのに、と思わず苦笑いしてしまった。
「退院したら、いくらでも付き合ってあげるから」
「ええー、今しようよ」
15メートル歩いたことを自慢しているような状態でそんなことができると本気で思っているのだろうか。
森下は「じゃあ宮月さんが外出してもよくなったらね」と言い聞かせた。その頃になったら、彼女もきっと元気だろう。
「あたしは外出なんてしないわよ?」
草那は不思議そうに言った。
「ここで死ぬの。森下くんに殺されて」
森下の薄笑いが止まる。彼女を見つめた。本気の目差しだった。
「あたしね、今までに殺されるために生きてることを告白したのは、森下くんだけなのよ」
だからなんだというのだ。殺されないことがわかっているから言ったのではないのか。
「人間ってさ、すごく頑丈にできているんだね。やっと死ねると思ったって簡単なことでは死ねなくて、殺してやるってふざけて言い合うことはあっても、ニュースみたいに殺人が起きるのはやっぱり稀で…………あたしを殺してくれる人は、誰もいないんだって、気づいた」
「それでいいんだよ、宮月さん。君に死んでほしいと思っている人間がどれだけいたとしても、その人たちのために死ぬ必要なんて、まったくないんだ」
森下はそう言った。草那は笑って、言った。
「あたし、誰かに殺されるほど愛されたかった。もしくは殺されるほど憎まれたかった。だけど誰もあたしにそれだけの感情を抱いてくれなかった。ねえ、森下くん、漂くんにはこんなこと頼めるわけないでしょう? だって漂くんは、あたしのことを絶対殺してなんてくれやしないんだから。だから森下くんに頼んでいるのよ」
こ ろ し て。
彼女の唇がそう動く。本当に絶望しきった目で、最後の砦がお前なのだといわんばかりにそう懇願するのだ。
森下は、きっと世界中に彼女を殺してやるほど愛しているのは自分しかいなくて、そしてすべてを終わりにできるのも自分しかいないということを感じ取った。
その細い首に、指をかける。軽く絞めたりゆるめたりして、最後に一瞬だけ強く絞めると、脱力したように草那にもたれかかって、言った。
「宮月さん、生きてほしいんだ」
情けない。殺す勇気はなかった。
「それだけでいいんだ。健全に生きろとも、真面目になれとも、痛いことするなとも、何も言わない。君が生きている明日を僕にちょうだい。君が明日も当たり前のように僕に笑いかけてくれる未来を僕に約束してくれるだけでいいんだ」
たまらなく愛しているがゆえに愛されないならば復讐してやろうと思った。
だけど殺したいほど愛しているわけではなかった。
だけど草那のいない明日など想像できないくらい大切に思っていた。
「君は殺されるほど愛してほしかったというけれど、生きている君を愛する僕は無力なの……?」
俯いたまま呟く。
そのときガラリ、と引き戸が開いて、漂が御見舞いにきた。
「森下、来てたんだな」
何も知らぬ漂がそう言った。振り返った森下を見て、びっくりしたような顔をする。
「泣いていたのか?」
きっとひどい顔をしていたのだろう。自分でもわかる。どうしようもなく、泣きたい気持ちだ。
「咲良、」
草那から離れて、漂とすれ違いざまに森下は言った。
「僕は無力だ」
生きている草那を愛する資格をもっているのは、最初から最後まで、漂に与えられた資格なのだ。森下は選ばれた、彼女に自分を殺してほしい男として。漂とは違う形で、不名誉に。
「宮月さんを助けられるのは、咲良だけだ」
「何を――」
漂の言葉をさえぎるように引き戸を閉めた。そのあとは振り返ることもなく、まっすぐと病院を出る。
振り返ってはいけない、未練をもってはいけない、あのふたりに対して、自分は害虫でしかないことを、今更ながら知ったのだから。
愛の形は様々だとは言うが、どうして苦しい愛しかないのだろう。苦しいならばそれは愛ではない、そうじゃあなかったのかと自分に問うた。
(了)
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