「え、ちょ、お前、なんでそんなにげっそりしているわけ!?」
「飲みすぎて……」
迎え酒にビールを飲もうとしている森下のビールを取り上げて、僕はあいつの頭をがしっと掴む。
「髪ありえねえくらいぼさぼさなんだけど! お前ここのところ碌に食事もとらずに酒ばっか飲んでるだろ!? 何考えてるんだよっ」
「いやちょっとこー……宮月さんと、いやいや、別にナンデモナイヨ」
宮月? またあいつが何か関係あるのか。あっちも相も変わらずな感じだが、こっちの森下は大人になってから相当だらしない男になった。
何せ引きこもりだし、女にはだらしがないし、サプリメントしか飲まないサプラーだし、夜更かしするし、何かあると酒を飲んで誤魔化す日々。僕でなかったとしても友達ならば心配するのが普通だ。
「とりあえずこれからしばらく何か作りに来てやるから、せめてしっかりそれだけでも食べろよ」
「サンキュー。助かる」
森下がげっそりした顔で手を挙げると、またビールに手を伸ばした。置いておくとまたそれを飲むつもりなのだろう、僕はそれを手にとると、缶の蓋を開けて一気に中身を空けた。
飲んでいる最中森下の顔色が変わるのが見えたけれども知らない。
「うっ……」
「あの、咲良さん。咲良漂さん……あなた酒に弱いのにそんなことして大丈夫?」
「大丈夫なわけ、ひっ……く」
僕は酔っ払いのようなしゃっくりをして、くらりと体の重心が傾いた。
「咲良、横になったほうがいいんじゃあ」
「ええい触るな!」
酒癖が悪いと思われるのは癪だ。ぶんぶんと手を振って森下を追い払うと、僕は体を引きずりながら森下家を後にした。
翌日は鈍い頭痛がした。ビールなんてものを何本も飲めるなんて森下の体はどういうふうにできているのだろう。
仕事を終わらせたあと、森下の家の近くにある午前二時まで営業のスーパーで納豆を山のように買った。
こうなったらあいつに徹底的に健康な習慣を身につけさせてやる。
「何、これ……」
「納豆」
山のように買い込まれた納豆を見て森下の目が点になる。
「見ればわかるよ、なんでこんなに納豆買ったわけ?」
「お前の食生活改善するためだよ」
「カロリーならとってるよ」
「納豆は良性たんぱくだよ。小学生時代に習っただろうが」
あまり覚えていなさそうな森下が首を捻る。
「ともかく、これをしっかり食べるように」
「え、ちょ……納豆以外は?」
「僕はちょっと最近仕事が忙しくて、思うように時間がとれそうもないんだ。だから納豆で我慢しておいてくれ」
「だからなんで納豆……」
「栄養価が高いからに決まっているだろ」
有無をいわさぬ僕の態度に森下が黙り込む。
「白米は炊けるんだろうな?」
「それもできないと思ったわけ?」
「ありえるだろ、サプラーなんだから」
僕は納豆を冷蔵庫に仕舞うと、玄関のほうに歩いていった。
「ねえ、咲良」
「仕事がある。今日はもう帰る」
靴を履いて外に飛び出すと後ろを振り返る。追いかけてくる様子はない。反論はないと判断。よし、それでいいのだ。
ところが納豆生活は、一週間くらいで森下が音をあげる形に発展した。
当然といっちゃ当然だが、もうちょっと保つんじゃあないかと僕は思っていた。
「そういえば納豆トーストってなかったっけ?」
明日はそれにしてみようか。レシピがあるかどうか調べてみなきゃ。
「咲良、納豆はもういらな……」
「え?」
納豆トーストからまた数日経ったある日のこと、僕が冷蔵庫に納豆を入れているときにその諍いは始まった。
「お前が飽きないように、わさび納豆とひきわり納豆も買ってきたぞ」
「うわーい、って喜ぶと思ったのか馬鹿。もう咲良なんて嫌いだよ! 納豆ばっか食べさせるんだものっ」
「なんだよそれ?」
「家来るな。家に納豆菌が増える」
なんで森下の世話をしている僕が森下に「嫌いだ」って言われなくちゃいけないのだろう。
「お前がちゃんと自炊するならな」
とりあえず自分の疑問は放置して、問題の解決の方向に舵を切ってみる。
「自炊なんて面倒だし」
「じゃあせめて納豆を……」
「納豆食べたくない」
「我侭言うなよ。僕だって安月給の身なんだから安くて栄養のあるものって言ったら……」
「だから、来るな! ここに納豆持って来るな」
森下は強制的に僕の肩を掴むとそのままぐいぐい押して玄関から僕を放り出した。
「おい、森下!」
「納豆ばかりの毎日なんてうんざりだ!」
ベランダのほうから僕の靴を放り投げて森下が叫んだ。まったく、なんて我侭な奴なんだ。だったら自分で自炊できるようになってほしいよ。
仕方無く靴を拾って履くとそのまま自宅に帰った。冷蔵庫を開けて出したのは納豆。保温しっぱなしで乾いたご飯の上に納豆を乗せると口の中に掻きこむ。
自分だけが納豆生活だと思うなよ? 僕だって給料日前だから納豆生活なのに!
病院勤めというのは忙しい。
勤め始めてからそれなりに時間は経っているので精神的には随分と慣れたが、時間の余裕の無さだけはどうにもならない。
ここのところ泊り込みか、よしんば家に帰りつけたとしてもそのまま眠ってしまう日々が続いていた。
数日――一週間くらいだろうか。日数がどれだけ経ったんだかはよくわからないが、随分長いこと、あのずぼら男の様子を見にいっていない。
そろそろ栄養失調で運ばれてくるんじゃないのか、そんな馬鹿な考えが頭をよぎった時だった。
窓の向こうに、見覚えのある人影が見えた。……ちょっと確かめにいくぐらいはいいだろうか。
結局、仕事中に病院の入口前を通りがかって、そこで初めて気がついたという風に装ってみる。
演技は苦手なので、実際にどこまで装えたかはわからない。バレバレかもしれないが、まあいいだろう。
「何してんだ、こんなとこで」
目の前の相手に、そう声をかけた。
――本当に久々にその顔を見つけた気がして、妙に感慨じみたものがあった。なんだこれ。
そんなに気になっていたんだろうか。僕は、コイツが。
森下は口元に柔和な笑みを浮かべて、僕にこう言った。
「さてどうして僕はここにいるでしょう? その1…看護婦さんに会いにいきた、その2…体調を崩した、その3…咲良に会いにきた」
「その1とその2、どっちかでも当てはまったらとりあえず一発殴っていいか?」
あんまりにも口が減らないから、思わずそんな毒を吐いてしまった。
久しぶりだろうがなんだろうが、やっぱり森下は森下だ、と思った。
その1その2がありえすぎるせいで、その3を真に受けることもできなかった。
第一、確かに随分と会ってはいないが、わざわざ病院にまで来て僕に会う用事って、ないだろう?
「じゃあ自動的にその3でOK? 咲良……昼休みいつから? たまには納豆のお礼に、とーっても美味しいところにつれていってやろうと思って」
「消去法かよ」
そうやり返したが、他の二つの選択肢を消したのは実質僕だ。それはまあいい。
が、なぜかその後に顔を凝視される。何見てんだと思った矢先、思わぬ誘いに目を瞬かせてしまった。
「おいしいところって何だよ。ホントにいいとこ知ってんのかよ、このサプラーめ」
やっぱり毒づいてしまった。なんだかこんなに無遠慮に喋るのも本当に久々だ。
「適度な値段で美味しいイタリアン、新鮮なネタで有名な寿司、どっちがいい? だって納豆飽きたんだもん。どこか食べにいこーよ」
「……あー。じゃあ、暇だったらその辺で待ってて。時間出来たら行くから。やっすいほうね」
安いほうと言ってみた。今言ったイタリアンと寿司ならたぶんイタリアンのほうが安いだろう。
「てか、ほんとにちゃんと食べてんのか。納豆だけ食べて他おろそかにしたりしてないだろーな」
言っていて不安になってきた。またできるだけ早いとこ時間作って様子見にいってやらなきゃいけないかもしれない。
ホントに世話の焼けるヤツだ、コイツ。
「待つの? 10秒? 20秒? せんせー何秒待たせる気ですか? わかった。寿司のほうね」
「秒かよ。つうか、待てないなら帰れよ……」
思わず溜息が出てしまった。
あくまでも今は仕事中の寄り道扱いなのだ。そろそろ戻らないといけないだろうか。
あとコイツの中では寿司のほうが安いときているらしい。金銭感覚もズレていやがる。
こっちはよれよれになるまで働いている割には大した給料出てないってのに。いろいろ何かが間違っている気がする。
そんな思考が交錯するうちに、向こうのにやにやと相まって何かイラッと来たので、
「もう行くからな。戻ったときにいなくなってたら承知しねえぞ」
そんな言葉がちょっときつめに出てしまった。
「待ってるよ」
森下はにっこり笑ってそう言った。
戻るまでの短い時間の間に、少し考える。
本当に、どうしてまたあいつはわざわざ病院にまでやってきたんだろうか。
別に体調が悪そうには見えなかったし、看護婦さん目当てでもなかったようだ――ずっと僕の顔を見て喋っていた。
わざわざ僕に昼飯を奢るために顔を出したとでも言うのだろうか。
性格的にはそんなことをするようなヤツには見えなかったが、何か思うところでもあるんだろうか。
ただの気まぐれであっても何にしても、まあ、たまには付き合ってみるのも悪くはないか。
まったく、面倒臭いヤツめ。
――面倒臭いといいつつ付き合う僕も、逆に面倒臭いやつなのかもしれない、と思った。
(了)
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