sense or passion


「透ー、今帰ったよ」
  久しく聞かなかった独特のイントネーションの日本語に森下はパソコンの画面から顔をそらした。
  そうか、今日は父が帰ってくる日だ。
  一階に下りるとすでに荷解きがされており、外国製の服やアクセサリが散乱していた。その真ん中で缶コーヒーを飲んでいるのが自分の父親だ。
「父さん、早かったね」
「あまりリムジンが混んでいなかったからね」
  父はイタリア人だ。彫りの深い顔とやさしそうな表情、正直美形なのかはわからないが、美人だった母親を射止めるには十分だったようだ。
「食事は食べてきた?」
「いや、今からだよ。透はどうせ料理が作れないんだろう。リゾットでいいかな」
  くたくたで帰ってきたくせにすぐにキッチンに行く父、エリクを見て森下は荷物を片付け始めた。
  エリクはファッションデザイナーだ。姉の聖もその道を目指している。散乱した服のほとんどは父親のものだが、中には自分のサイズと思われる服もある。
「父さん、これまたコレクションの没作?」
「そう、透のサイズだから貰ってきた」
「イタリアじゃあどうか知らないけれど、日本じゃあ原宿でもない限りモード系ファッションの男なんていないよ」
  森下はため息をついた。センスがいいのは分かるのだが、着たいと思うデザインではないのだ。
「透はスタイルがいいし、顔も薫に似ているから似合うよ」
「母さんも着せ替え人形にしていたの? 父さん」
「薫はとてもベッラだった。素晴らしい女性だったよ」
  コンソメの素をお湯に溶きながらエリクは上機嫌だ。
「姉さんは元気にしている?」
「元気だよ。仕事はまだ雑用ばかりだけど充実しているみたいだしね」
  荷物を片付けようとしたとき、エリクが言った。
「透は今年で十八歳だったか?」
「うん、そうだよ」
「来年は学校卒業だろう。イタリアに来ないか?」
「またその話? 僕にデザインセンスはないよ。期待されても困る」
  森下が困ったように言うと、エリクは笑って「モデルとかは?」と言った。
「は? イタリアのモード界でモデルできるような自信ないって。何言い出すの、怖いなあ」
「透なら無理じゃあないだろ」
「無理。コネでモデルの仕事なんてまっぴらだ」
  はっきり言った。わかっている、そんなのは口実なことくらい。エリクは森下といっしょに暮らしたいだけなのだ。
「僕は日本が好きだし」
「透は日本が大好きだな」
  エリクは苦笑いして森下の目の前まで歩いてきた。
「最近は薫によく似てきたよな。ただいまのキスをしてもいいか?」
  抵抗せずにいると両頬に軽く口付けられた。
「さて、食事にしようか」
  何事もなく食事が運ばれてきて、ふたりでリゾットを食べた。
  幼稚園生のとき、家での常識のまま友達の女の子の頬にキスをしたら泣かれたことがある。森下にとってはカルチャーショックだった。他の家では日常的にキスをしないなんて。
そのままキスへの貞操感が育たぬまま森下はこの歳になった。姉とキスすると聞くと普通の日本人は変な顔をすると思うが、森下にとってはそれが普通なのだ。

 姉は大好きだ。もちろん父親も。
  しかし家族の中に居場所を見つけるのは難しかった。父も姉も偉大すぎたからだ。
  イタリアに移住したとて、立派すぎるふたりに圧倒されて結局萎縮してしまうだけなのだから、ならばひとりで日本に残っているほうが得策というものだ。
  ベッドの上に広げたコレクションの没作を見ながら森下はこれをどう始末するか考えた。古着屋に売ったと言えば父が悲しむだろう。
  ふと、携帯がバイブレーションしたので開いてみると漂からメールがきていた。
――今度の土曜日泊まりに行っていいか? 姉さんの友達が来るとかで、ベッドをひとつ空けなくちゃいけなくて。
  父の帰る日と重なりそうもなかったからOKのメールを出そうとしたところでふと思いついた。
「咲良、服いるか? ちょっと服たくさんもらったんだけどひとりで着る量じゃあなくて」
  メールでそう返した。しばらくして漂から「いいのか? 貰っていいなら貰うけど」と返ってきた。
  服の始末先が見つかって一安心だ。

土曜日に漂は大きな鞄を持って森下の家を訪れた。
「ごめんください」
  漂が玄関でそう言うと、森下の代わりに出てきたのは外国人の男だった。少しびっくりしたようにその男を見ると、彼はやんわりと頬笑んだ。
「透の友達?」
「そうです」
「息子がいつも世話になってるね、さあ上がって」
  この人が父親なのだろうか、と漂は考えながら森下の部屋に行った。
「やあ、咲良」
  森下はパソコンをいじりながら片手間に挨拶した。
「出迎えてくれた人、森下のお父さん?」
「そうだよ」
「本当にイタリアハーフなんだ。びっくり」
「そんなに意外?」
  漂は部屋の隅に荷物を置くと、床に勝手にあぐらをかいて座った。
「なんか悪いな。いきなり押しかけて、しかも服まで貰っていいなんて」
「気にしない気にしない。どうせ僕のところにあっても箪笥の肥やしだし」
  紙袋に詰めてある服を漂に渡すと、彼はその紙袋の中身をよく確認せずに自分の荷物といっしょのところに置いた。
「もしかして、ブランドものだったりするわけ?」
「うん、Alverta Bellaってブランドだよ」
「アルベルタ・ベッラ? 聞いたことない」
「まあアルマーニやピサルノほど有名じゃあないにしろ、そこそこイタリアでは人気のあるブランド?」
「ふうん……」
  あまり興味のなさそうなに漂は返事した。
「服なんて着れればいいのに。人に不快な格好でなければ別に頑張って高い服買ったりしなくたって」
「まあユニクロで済むものをあえてポール・スミスで買う心理は咲良には一生分からないものだろうね」
  まったく服装にも髪型にも気を使わない少年を見て森下は苦笑いをした。
「お父さん、しばらく家にいるのか?」
「は? 咲良はあんま気にしなくていいよ。僕が誰とつるんでいてもあんまり気にする人じゃあないし。むしろ僕って友達少なかったから喜んでいるんじゃあないかな」
「だと、いいけど」
  漂は少しうつ向いてそう呟いた。
「どうしたわけ?」
「いや、なんでもない」
  森下は不思議に思って首を傾げた。今日の漂は普段の漂とはちょっと違う気がして。
「咲良、どうかしたの?」
「いや、なんでもないよ」
「なんでもなくてそんなうつ向くことないでしょ。ほーら、どうしたの?」
  両てのひらで漂の頬を挟むとやんわりと自分のほうに向けた。
「ばか、顔近いよ」
「そんなに近いかな? キスするような距離じゃあないし」
「キ……誰がお前とキスするか!」
  漂が赤面して腹を立てるものだから、森下は手を離すと「咲良とキスするわけないだろ」と言った。
「まあ昔の僕ならばしたかもしれないけど」
「は? 昔のお前?」
「といっても幼稚園くらいの頃ね。家での常識が挨拶のかわりにキスをする、だったから」
「ただのキス魔じゃねぇか。キスってもっと大切なものだろ?」
「減るもんじゃあないし。イタリアは両頬に一回ずつだけど、フランスなんて合計十回くらいやるのが常識らしいよ?」
  漂はしばらく沈黙したが、次第に何かを想像したのか思い出したのか、顔が茹蛸のように赤くなっていった。
「お前にしたってそうだけどどうしてそんなにイタリア人ってキスできるんだよ!? おかしいだろ」
「まあ日本の常識で考えればね。って僕以外にイタリア人の知り合いいるの?」
「え……あ、う……」
  言葉に詰まる漂を見て、森下はにやにやしながら顔を近づけた。
「なーにーその反応ー。知り合いいるの? ていうかキスされてるんだー?」
「うるさいだまれにやにやすんなー!?」
  赤面したまま怒鳴った漂にさらに追い討ちをかける。
「その人きっとローマ以外の出身だね。たぶん南イタリア。男が男にキスする習慣あるのってそっちのほうだし」
「しらねーよ! あいつがどこ出身だろうが」
「ローマだったらホモ確定」
「!? キモイこと言うな! なんかもういろいろアウトじゃんっ!?」
「何がアウトなの?」
「それは……え、う……」
  どんどんと漂はしどろもどろになっていく。森下は目をぱちくりとさせて、にやりと笑った。
「……はっはーん。咲良……実はその人のこと、好きなわけね?」
「だからうるせーっ!?」
「へえ〜、そうなんだ、へええ〜」
  もう自分の立ち位置は漂との場合においてはいじめっこかもしれない、とすら森下は思った。
「ねえその人どんな人なの? 咲良が好きになるってことはすごく優しい人とか?」
「答えるかっ! ちくしょー、お前楽しんでいるだろ」
「というか咲良ちゃんと付き合ってるんじゃあなかったっけ? そっちのほうに終止符は打ったわけ?」
「……まだ」
「あーあ、咲良ちゃんがOKって言うなら別だけど、違うならちゃんとケジメつけてからじゃあないと次の恋愛始めちゃだめだよ」
  そこらへんのケジメはしっかりつけておくべきだと注意すると、漂は顔をうつ向かせて言った。
「だって、彼女いるのに、男に恋するなんておかしいだろ。そんなの間違ってる」
  何が? と聞きかけて森下は口を閉じた。
「じゃあその男とケジメをつけて咲良ちゃんを愛するかだね」
  漂は沈黙する。それも無理、と言いたそうに。
「やっぱそのイタリア人のこと好きなの?」
「……うん」
「ならそのまま突っ走っちゃえばいいのに。日本もなかなか寛容になってきたよ?」
「できない」
  かたくなに感情と常識の狭間で苦しんでいる少年を見て、哀れなんだか、同情の余地もないのか、わからなくなる森下だった。
「でもさ……」
  森下は触れたくない話題だろうけれども、あえて踏み込んだ。
「男にしろ女にしろ、純愛だけってわけにはいかないよね。付き合ってるうちにはキスもするし、そのうちセックスもするだろうし」
「!?」
  仰天する漂に森下はゆっくりと説明した。
「咲良は考えたくないかもしれないけれどもさ、そういうことはいずれ視野に入れておいたほうがいいよ。どっちと、そういうことをしたいのかってことをね」
「考えたくない」
「でも考えておいたほうがいいんだってば」
「お前汚れすぎだ」
「汚れてないよ。それが普通なの。咲良が初心すぎるだけだよ」
「だって……」
  水面で酸素を吸おうとする金魚のように口をぱくぱくとさせて、漂は言った。
「怖い、だろ」
  森下は目をぱちくりとさせて、漂を見た。
「怖いの?」
「うん」
「咲良ちゃん相手でも?」
  しばらく沈黙したあとに漂はこくりと頷いた。森下は「ふーん」と呟く。
「女の子みたいなこと言う男っているんだね」
「んな……なっ」
「いや馬鹿にしたわけではないって、うわっ」
  いきなり胸を突かれて倒れたところを胸倉を掴まれ、ゆさゆさと揺さぶられた。
「僕はお前みたいにはなれないんだよ!」
自分の腹に馬乗りになっている漂を見て思ったことはこうだった。
(まるで僕は男だろうと女だろうと構わないみたいな言い草ですね……)
  男相手に本気なのはあっちなのに、なんだか真面目に説明している自分が馬鹿みたいだ。心底心外である。
「咲良ぁー、僕は暴力的に押し倒せるくせになんでその勢いで咲良ちゃんを押し倒せないわけ?」
「は?」
「君さ、もうちょっと暴力以外の手段に訴えることを覚えたほうがいいよ」
「僕ってそんなに暴力的?」
「うん、とてもね」
  森下は起き上がると膝の上に漂を乗せたまま言った。
「まずね、こういう風に女の子を……というか咲良は男だけど、抱っこしてるときは、見つめるの」
「あ?」
  漂がとても怪訝な顔をした。構わずじっと見つめてみる。
「おい、何を見て……」
「君の大好きなイタリア人はやっぱりじっくり見つめてくるんじゃない?」
「うっ……」
  視線に耐え切れず漂が視線をそらした。森下はくすっと笑って漂を抱き寄せる。
「なんで視線ずらすかなあ? 咲良の可愛い顔が見たいのに」
「何遊んでるんだよ」
  森下の膝の上から下りようとする漂の頬に音を立てて口付けて、耳元で囁く。
「気づいてないんだね。咲良は自分がとても可愛いってことに。あるとき君が背中から羽を生やして僕のいない世界に飛んでいってしまわないかがとても心配だよ」
「ちょっと待て、今頬にキスしただろ!? 何しやがっ……」
  視線がかち合った瞬間、じっと見つめられて漂は凍りついた。
「ずっと僕の近くにいてよ。遠くに行ったりしないと誓ってほしいんだ」
「……そんなこと言われたって、」
  視線の強さに圧倒されて動けずにいると、森下はあっさりと抱いていた手を解放して言った。
「じっと見つめるのが大切ってわかった?」
「……は?」
「だからね、じっと見つめるのが大切なんだってば」
「って今の『ずっといっしょにいろ』ってレクチャーか!?」
「当たり前だろ! なんで僕が咲良相手にそんなベタベタしなきゃいけないんだっ」
  思わず叫び返す。
「だって、キスまでしておいて」
「そんなのおまけだよ! 咲良が好きだったら口にキスするよっ」
「おそろしいこと言いやがった!」
  ひー、と青ざめて森下の膝の上から下りた漂を見て、森下は言った。
「女の子を落とすときはともかく見つめること。でも男を落とすときも基本は同じ。イタリア人は、口はうまいよ。挨拶の代わりに口説くんだから。僕なんかよりずーっと口が上手いに決まっているんだ。だけど案外本気でなく一回寝たら終わりなんてことも多いわけ」
「……そんな人じゃあない、と思う」
「だからさ、そこらへんはどうでもよくて、遊びのつもりなら本気にさせちゃえばいいわけ。言葉でね、いくら『すきすきだいすき』って言ったって、男って生き物は女と寝るためなら『愛してる』なんて平気で言える生き物だってこと心しておきなよ」
「だからそんな人じゃあないってば」
「本気なのは咲良だけかもしれないって言ってるんだよ。だからね、相手も本気にさせちゃうには相手が恋しちゃえばいいわけだから、大切なのは視線だ」
「……ふ、ふーん」
  熱弁する森下に圧倒されたように漂が唸った。
「押すだの引くだの、本に書いてあるハウツーなんて本当どうでもいいから。まずね、新しい技巧とか仕入れる前に自分を磨くことだよ。女の子がプロポーズされるためにするのは出世することでも貯金をすることでもありません。エステに行ってダイエットしてお洒落すること。鏡の前で笑顔をつくる練習をして、大好きな彼氏がどうしたら次のステップに踏み出す気になるかにひたすら努力するのが女の子という生き物です。チンパンジーの精子が人間の男の精子よりもずっと元気なのはあの社会が乱婚制度だから。人間の男だって乱婚のほうがいいに決まっているけれどもひとりの女性を選ぶのは、女が一枚上手だからだよ。でもそういう女性と会えることはっとても幸福なことだ、一生ひとりの女性だけでいいと思えるんだからね。つまるところ咲良がそのイタリア人を落とすためには、他の男も女も全部蹴落として『咲良漂だけいればいいです』とその男に思わせることだ」
「ちょっと待て、別にあの人を落としたいとか僕まったく考えていないから!」
「どうだか。咲良は好きな人の本命が別にいるとかぜーったい耐えられない性格だもの」
「僕は……別にレトニが僕以外を好きになったってそれを止める権利はない。ただ、嫌われたくないと感じるだけで……好きになってほしいとか、恋人になりたいとか、そんなことは、本当……」
  とつとつと言う漂を見て、森下は複雑そうにため息をついた。もっとも、複雑なのはどちらかといえば森下よりも漂のほうだが。
「宮月さんはなんて?」
「宮月は『漂くんの恋だから』だとさ。あいつは基本的に人の色恋沙汰にはノータッチだよ」
「まあ咲良が介入しすぎだよね、普通そういうものだ」
「お前らは恋愛に対して自由すぎる」
  即座に漂はそう切り替えしてきた。まあ堅苦しい恋愛をしているつもりは草那にも森下にも毛頭ないだろう。
「咲良って本当恋愛に対して不器用だよね」
「悪かったな」
「まあ、堅実なのが咲良のいいところかもしれないけれども」
  と、そのとき、部屋をノックする音が聞こえた。
「透、夕飯ができたよ。お友達も食べるでしょ?」
  エリクが顔を覗かせてそう言った。森下は「食べるよ」と言って立ち上がる。
「咲良も食べるでしょ? 行こうよ」
「あ、うん」
  階段を下りるとチーズのいい香りがしてきた。今日はピッツァのようだ。
  各々席に座って、エリクが食事の祈りをささげたあとに夕食は開始された。食事中はエリクに質問攻めにあった漂だが、ピッツァはお気に召したようだ。
  シャワーを浴びて部屋着に着替えて戻ると、森下が布団を床に敷いて漂の寝床をこしらえていた。
「今日は父さんの部屋が空いてないから、ここで寝て」
「ああ、そうか。わかった」
「ちなみに電気は消さないからね」
「停電恐怖症まだ治ってないのか。わかったよ」
  漂はため息をついて布団に潜る。
「もう寝るの?」
「何話せっていうんだよ?」
「最近の宮月さんのこととか、咲良ちゃんのこととか、例のイタリア人のこととか」
「ほとんど話すことないし」
「つまんないのー」
「どうせお前のことだ、全部笑うに決まってるよ。僕が男に惚れたことも、結宮さんのことが諦めつかないことも、相変わらず宮月に振り回されっぱなしのことも」
  ふぅ、とため息をついて漂は横に転がった。相変わらず自分の評価は地の底だな、と森下は感じたが、だからといって別段努力しようと思わないのが漂との関係だ。
「咲良ぁー、僕は君をあいしてるよー?」
「はいはい、僕もだよ」
  心底どうでもよさそうに漂は返事をすると、布団の中で丸くなって寝てしまった。
  森下はしばらく文庫本を読んでいたが、それを読みきった頃にふと漂を見た。漂は寝息をたてている。もっとも、揺り動かせばすぐに起きるだろうが。
(僕は咲良のことを馬鹿になんかしてないのになあ……)
  全部遊びだと思っているのだろうか。男を落とす方法も、「愛してる」という言葉も、全部冗談だとでも。彼のことを心から尊重しているからこそ、本気で言っているというのに。
(なんというか、咲良は男だって気の迷いが生じるような顔しているんだよね。いじめると涙目になったり、からかうとムキになったり、性的に未成熟だけれどもこいつに色々仕込むの楽しそうだし、好きな人のためならどれだけだって努力するタイプだし。そういう意味じゃあ男の中でもこいつを落としたいと思う人だっているかもしれないよね。レトニさんだっけ? その人本気で咲良のこと好きなのかな。まったく知らない人だけど)
  考えてみれば、そのレトニという男性をまったく知らない。どこで知り合ったかも、いつ知り合ったかも、漂の生活にどれだけ食い込んでいるかも、まったくわからない。ただわかっていることは漂がその男にぞっこんだということだけだ。そして結宮咲良のこともさっぱりわからない。
(咲良ってまったく自分のこと話さないんだなあ……)
  もう草那をはさんで一年以上の付き合いになるのに、ほとんど何も知らないことに気づいた。
(もしかしてそのレトニさんは僕よりも咲良のことよく知ってたり?)
  よく知らないレトニ像がもやもやと広がる。だんだん面白くない思いが脳内に湧きあがってくる。
  この先、漂との付き合いがなくなったとして、自分のことなんてすぐに忘れられてしまうんじゃあないかとすら感じた。少なくとも碌な覚えられ方だけはしていないはずだ、と。
  だからといってどうがんばったとしても漂のことを大切な友達だと思っていることなど伝わりっこないような気がした。むしろ憎まれることのほうがずっと簡単のような気がする。漂の嫌がることは心得ているつもりだ。そんなことをするつもりは毛頭ないが、自分が漂の中に絶対的ポジションを作るとしたら、彼に徹底的に恥辱的なことを強いて恨まれるくらいしかなく、プラスの意味で彼の中に記憶されることはないのだろうと思ったときに、なんとなく、後ろ暗い気持ちになった。
  だが自分がどうしてそういう気持ちになるのか理由はわからなかった。男友達は他にもいるが、別に彼らに好かれているか嫌われているかでこんなに気分が浮き沈みすることはないだろう。女を落とすことには躍起になっても男を落としたいとは思わないし、草那か漂のどちらかと結ばれたいかと聞かれたら間違いなく宮月草那を選ぶ。
(咲良って僕にとってどんな存在なわけ?)
  そして漂にとって自分はどんな存在なのだろう。自分にとってどうでもいい存在ではないから、相手にとってどうでもいい存在でありたくない、それだけなのだろうか。
  ふと、文庫本に目を落とした。夜中に恋愛小説を読むと全部性対象に見えたりすることがあるのだろうかと考えてみるが、それもないと思う。
  別に漂が男を好きになったからといって、自分まで男を好きになる必要などない。どこにもそんな必要はない。自分には可愛い女の子の知り合いがたくさんいて、好きな子もいるではないか。何が悲しくて男のことを気にせねばならないのだ。
(ああ、そういうことか)
  森下はそこでふと気づいて、漂を見た。たぶん彼の気持ちもそんなものなのだろう。彼女がいるのに男が気になるというのは。
(ま、僕はレトニさんか咲良ちゃんかと聞かれたら間違いなく女の咲良ちゃんをとるけれども)
  だけど咲良ちゃんか咲良くんかと考えたら途端にわからなくなったので、真夜中の判断はあてにならないという法則に則って寝ることにした。
  きっと明日になったら全部忘れている、そうに違いないと考えて。

 翌日、漂は昼食を食べたあとに帰っていった。キッチンでエリクが食器を洗っていたので食器を片付けるのを手伝ったら、彼はこう言った。
「さっきの子は男? 女?」
「あれだけ女に見える顔だけれども男。ざーんねんでした、口説けなかったでしょ」
「透の友達をなんでお父さんが口説くわけ? 男の子かあ、女の子だったら昨日はお楽しみだったのにね」
「何それ。ドラクエの宿屋の店主みたいなこと言わないでよ。日本の家屋は壁が薄いんだ、父親がいる日にそんなことするわけがないでしょ」
「イタリアだとね……」
「近所の人がアモーレしている声が聞こえてくるんでしょ。どうかしている」
  いくら自分でもそこまでオープンにはなれない。
「透ー、愛し合うということはとても大切なことだよ」
「はいはい、そうだね」
「お父さんが薫を見つけたときなんてな、もう彼女以外誰もいらないって思ったもの。本気で愛しました、外国に来る気はないって言われたから日本国籍に入っちゃうくらい」
「すごいと思うよ。その思い切りのよさが」
「だから透もお父さんにとっての薫くらい素敵な女性を見つけるんだよ? そして僕に孫の顔見せてちょうだい」
「姉さんとホヅミンの子供が先に生まれるでしょ、僕は独身主義だから」
「とか言いつつ透はプレイボーイだから絶対そのうち避妊に失敗するんだ」
  言われた言葉に思わず仕舞いかけた食器を落としそうになった。
「そのときは覚悟を決めなさいね。コンドームに穴を開けた女の子の作戦勝ちです」
「そんな姑息な女とは絶対結婚しない」
「NO、NO、行為をするということは、愛しているということだよ。そういう結果に至ったとしてもそれを女性のせいにしてはいけない。それもこれも透が彼女にそうさせてしまうだけ魅力的だったのがいけないんだ」
「お父さんって親ばか発揮しはじめるとキリがないよね」
  心臓に悪いことを言い始める父親に呆れながら布巾がけをした食器を受け取る。
「そういやお父さん、」
「何?」
「男が男に恋するってどんな感じ?」
  エリクが手をすべらせて食器を割った。
「まさか、透……」
「ちがいます、ちがいます、ちーがーいーまーすー。僕じゃあなくて友達がね、」
「昨日の子が透に恋しているのか?」
「なんでも僕に結びつけるな。咲良じゃあないよ、本当友達の友達くらいの知り合いだから」
  事実は伏せながら言うと、エリクは首を捻った。
「お父さん別に男が男好きでも構わないと思うけど?」
「カトリックなのに?」
「なんだかカトリックのほうがゲイご法度だと思っている人日本には多いけどね、本当にゲイがご法度なのはプロテスタント。カトリックはけっこうなんでもありなの」
「へえ……」
  この際宗教云々はどうでもいいわけだが。
「透もそういう人たちを馬鹿にしちゃいけないからね」
「しないよ。ただ不思議なだけで」
「どうして?」
「僕は男の人とセックスしたいと思わないから。気の迷いでね、誰かにどきどきすることなんかはあるかもしれない。だけど最終的にそこまでできるかって考えると、無理。だから僕はゲイにはなれない」
「別にそういう人たちを理解しろって言っただけで透にゲイになれなんて言ってないよ。じゃあ、自分の友達がゲイで、透にせまってきたらどうするの?」
  今度は森下が皿を落として割った。思わず父親を振り返る。
「断るに決まっている!」
「どうやって?」
「僕は君のこと友達以上に見ることできないからって言うよ」
「じゃあ透が男の人を好きになったとしても同じように言われるの覚悟しなさいね」
「誰を好きな前提でもの言ってるわけ? 誰もいないよ、そこまで好きな人なんて」
  割れた食器をかき集めながらエリクに聞くと、彼は真顔で「咲良くんは?」と言った。
「……。今、この割れた食器を投げつけてやろうかと思った」
「可愛い子だったなあと思って」
「いやらしっ! 四十代にまでなって僕の友達までストライクゾーンなんてどうかしている。近づくな、あっちいけ、ケダモノ」
「お父さんに向かってケダモノとは何事ですか。ねえどうする? お父さんがあの子のこと口説き始めたら時間の問題だよ。イタリア人好きそうだもの、あの子」
「やめてよ! 咲良とお父さんが結婚したら咲良のことパパって呼ぶことになるんだよ。やめてよ!」
「えーっ」
  本気なのか冗談なのかわからない父親を見て、嘘も方便かと思って森下はこう言った。
「別にパパがもうひとり増えようが僕は構わないけど、あいつは僕が狙ってるから他の人にして」
  エリクはにんまりと笑って、「お前は友達思いだね。そんな調子だと本気で誰か男が惚れるかもよ?」と言った。
「冗談やめてよ!」
  遊ばれたことに気づいて腹を立てるとエリクは笑いながら食器を再び拭きはじめた。
「いいじゃないか、愛している気持ちに嘘をつくよりも、愛したことに戸惑いを覚えるほうがずっと素直だ」
「……。もしかして扉の向こうで僕らの話しを盗み聞きしてた?」
「盗み聞き? なんのことでしょう、家主がどこにいようと別に自由です」
「半年に一回しか帰ってこないくせに家主面!? しんじられない。このっ」
「この?」
「このっ、エロ親父!」
「何言ってんの、自分だって相当エロいくせに」
  ぐぅの音も出ない切り替えしに森下は黙り込んだ。
  まあ父親の言うことは一理ある。迷わず突っ走るのも愛だが、愛しているからこそ迷うのも摂理なのだろう。

愛って何? と聞かれたらよくわからないが、「愛している」という言葉はそんなことを知らなくても使える。あらゆる愚行を愛という言葉の元に免罪することもできる。
  だけど人を愛するということは、ごく自然なようで、その実不自然なことだ。
  好きになれば相手のことが気になり、普段と同じように振舞えなくなる。もっと親密になりたいと思ったり、関係を壊したくないがために臆病になったり、それが自然だといえるのだろうか。ただでさえそうなのに、相手が同性ならばなおさら苦しみは大きいだろう。
だけどあえて言わせていただくならば、苦しむならばそれは愛ではないと森下は思っている。
  みんな幸せになるために人を好きになるのだから、それで苦しむのなんて馬鹿馬鹿しい。しかし恋はときに苦しみをともなうものだ。どうせなら苦しみも楽しんでしまえ、幸せな悩みだと笑ってしまえ。
  人間の愛の形は様々だ。安易で使い古された答えなどに飛びつかず、悩みに悩みぬいて答えを見つければいい。

(了)


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