好きな人に好きって伝えることは世界で一番素敵なこと。
そうエリクは言っていた。森下もそう思うけれども、残念なことに森下には好きな女性がいない。
君じゃあなくちゃいけない、なんて存在はこの世にひとりとて存在しない気がした。自分の長いこと気の迷いの原因となっている漂を除いては。
(だけど咲良はそっちのケないわけだし……)
もちろん自分もないと思いたいわけだが。これは同性の美しい男に感じるちょっとしたドキドキであって、恋愛感情ではないと思いたい。
だいたいドキドキってなんだ、脳内物質で言うならばドーパミンだろう。この女は自分の子孫を残すのに丁度いい! って脳が判断するのがこの作用だろう。漂の胎に子宮はないのに何を自分の頭は誤作動しているのだ。
最近はこのよからぬ思考が始まると、深く考えるのは罷すことにして、携帯を確認したり新聞を読んだりしている。小説を読むのも効果的だ。
高校時代の性教育で性欲を発散するためには運動するのが一番だなんて教えられたが、そんなので発散できたら男は手淫をせずにすむのだと心底突っ込みたかった。もちろん漂をおかずにしたことは一度とてないが。
一度とてないが、それでもトランクス一枚で自分の目の前を歩かれるとぎょっとするときがある。
「咲良、服着て」
思わずそう言ってしまう。草那が素っ裸で歩いていても「どうにかならないかなあ」くらいにしか思わなかったのに、だ。
「は? 暑いんだもん。それにここ、僕の家だし」
そう、ここは漂の家だ。別に彼がトランクス一枚で歩いていようが、素っ裸で歩いていようがまったく問題はない。
「だいたい、気になるなら僕のほう見なけりゃいいだろ?」
「無理言わないでよ。この狭い部屋で咲良のことを見なければいいなんて」
「狭くて悪かったな」
どうせ一軒家よりは狭い、と言いたげに漂が低くうめく。
「宮月から連絡あったか?」
「あったよ」
「そうか。どうしてるって?」
「相変わらず自由な性生活おくってた」
「あっそう」
漂は自分のほうにメールが来なかった理由を察して黙り込む。
――森下くん聞いてよ、この前中学生を童貞狩りしたら、最近の中学生ってびっくりなのよ。「三千円で俺の彼女とヤらせてやる」とか中学校で言いふらしてあたし五人の中学生相手しなくちゃいけなかったの。でも人数よりも三千円って金額がいかんともしがたく腹がたってね、ヤった相手全員から有り金全部巻き上げたんだけど中学生って貧乏ね。
みたいなメールが来たときにはどう返信しようか迷った挙句「それは童貞狩りをした宮月さんが悪いです。中学生に美人局をやるのはやめなさい」と書いて返した。
彼女自身は腹がたって思わずこっちにメールしたのだろうけれども、返信しなければ角がたつし、しかし返信する価値もないメールだというのも確かで、未練がましく携帯メールのアドレスを変えなかったのが仇となったと思いながら、草那の新しいメールアドレスを知ったことが少しだけ嬉しく、なんだ、自分はまだ彼女のことが好きなのか、と思った。
草那のことは好きだ。彼女がどんなに無茶苦茶なところがあってもそれは彼女を嫌いになる理由にはならず、むしろ愛おしい理由のひとつと言える。
(問題はこっちなんだよ)
隣で裸に近い状態で麦茶を飲んでいる漂を見ながら森下は思った。こいつに対する感情の処理をいかんともしがたい。
「咲良ってまだつるつるなんだね」
無駄毛の一切ない体を見て、思わずそう言った。
「わきは生えてるよ。見る?」
といって腕を持ち上げるが、申し訳程度にまばらに生えている程度だった。
「だいたい、森下だってつるつるじゃないか」
「僕はね、処理したの」
「なんで男が無駄毛処理するんだよ。毎回思うけれどもお前自意識過剰だって。ナルシスト」
別にナルシストというわけでもないと思うが、たしかに容姿に対して気をつかいすぎかもしれない。
「でもこれ、処理してないのに少なすぎでしょう。下は生えてるわけ?」
「確かめてみるか?」
「いえ、けっこうです」
そっちも申し訳程度だったら何もかける言葉が見つからないのでやめておくことにした。
わきを指先でこちょこちょとくすぐってみる。
「ひゃ、お前、やめろ」
漂が体を捩って逃げ出した。森下は手をわきわきと動かしてその体を引き倒し、腰のあたりをくすぐる。
「やめろ、やめ、うひゃ、わはは」
脚をばたつかせるのを押さえつけて柔道の寝技をかけたりして二人で暴れた。一階の住人がいなくて本当によかったと思う。本当こうしているとべたべたな関係が続きっぱなしだ。
「森下、いい加減にしないとひどいぞ!」
くすぐりすぎて涙目になっている漂が裏返った声で腹をたてる。
「へえ、何がひどいって?」
やれるものならやってみろ、と笑いかけてみると、漂が「お前に下敷きにされると怖いんだよ」と言った。
「……なんで?」
「目がぎらぎらしているから」
「ああ、猛禽類と草食動物、みたいな?」
森下は笑う。漂が少し沈黙して「そういう食われるならまだいいけどな」と呟いた。
「お前のこと、僕はそういう意味では受け入れられないから」
真面目な目でそういわれて、ずきんと心が痛んだ。別に漂は鈍い男ではない、気づいていたとしたって不思議ではないし、自分はヒントを十分与えすぎたと思う。
「あのね、咲良。自分を狙っているかもしれない男の前で裸同然の格好していると、こうだぞ?」
傷つくのが嫌だったから、冗談めいてそう言うと腰を撫でた。
「……っ、やめ」
「さて咲良くんはどこが弱いんでしょう。耳は? 鎖骨は? 脚は? わきは?」
「お前、やめろ!」
からかうように指先で体を撫で上げると、素直に反応してみるみるうちに赤くなっていく漂に笑った。
「咲良、本当に可愛い」
「可愛いってなんだよ!」
腹を立てたように漂が怒鳴る。思わず、勢いで口付けてしまった。漂が固まって、押し返す手を止める。漂は前にキスは特別な人としかしないとか言っていたが、キスに抵抗のない森下としてはそんなのおかまいなしに顔にキスの雨だ。
抵抗する手に力がこもらず、弱弱しく「やめろよ、やめろって」と懇願する漂の顔をふと見たとき、巫山戯すぎたことを後悔した。
本気で怯えていたのだ。顔を真っ赤にして、目に涙を浮かべながら、抵抗する術を知らずに、ただ。
「ごめん」
思わず謝った。体を起こすと漂の上から退いて、そうして革鞄を手にとる。
「もう、目の前に現れたりしないから」
「森……」
「いいんだよ、それで。本当、これ以上は僕も危ないと思うし」
いつ一線を踏み越えるかわからない。無理やり踏み越えて彼を傷つけるくらいならば、会わないほうがまだマシだった。
部屋を飛び出すと、とぼとぼと駅のほうに歩いていく。
――好きな人に好きって伝えるのは、世界で一番素敵なこと。
父親は死んだ母のことをいかに愛していたか自分に教えてくれた。森下もいずれはそういう女性に会うのだろうことを夢見ていた。
だけど自分はどこで間違ったのか、その対象に男を選んでいたようで、しかもその道を進むことをためらい、ためらうことで余計に深みにはまり、相手が抵抗しないのをいいことにさらに深みにはまり、そうして最後は大切な人を傷つける形で別れた。
「宮月さんなら、こういうときなんて言ってくれるだろうな……」
マイノリティな性にも彼女なら寛大だろう。結局こういうとき、連絡をとってしまうのは彼女だった。
あちらは中学生を童貞狩りするような女で、こっちはノンケの男に迫るような男で、本当にどうしようもないお互いのインモラルぶりを衝動で告白しあう恥ずかしいメールだったが、とりあえずそれを送信してみる。
八年間続いた。それだけ続けば十分じゃあないか。
終止符を打つには、十分すぎる理由もある。
「さようなら、咲良」
そう呟いて、駅の改札口より向こうに入った。
(了)
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