れの日


 朝メールチェックをしたら漂から「受かった」という報告がきていた。卒業式の翌日の発表だったので、どうなったかハラハラしていたが無事通ったようだ。
「宮月さんとお祝いに行くよ」
  メールでそう返信してから、シャワーを浴びに行く。部屋を出る寸前に目に入ったカレンダーには三月四日と記されていた。今月一杯は"学生"だが、そのあとは"自営業"とアンケートには書くことになる。森下は結局進学しなかった。あまり意味のあるものだと思えなかったからだ。それは草那も同じようで、彼女は来月からキャバクラで働くとか言っていた気がする。漂は知っているのだろうか、と思いながら、もし必要ならば彼女自身が自己申告するだろうと思ってあえて自分からは話題に触れないことにした。

 電車で揺られて新宿駅まで出た。目的地に行く前に花束とプレゼントを購入して、待ち合わせ場所に行く。
  草那と漂は先にいつもの場所にいた。
「咲良ぁー、おめでとう」
  森下はにこにこ笑いながら近づき、花束を草那に渡した。
「ちょっと待てぇ! そこは僕に花束渡すものだろっ」
「え、これは宮月さんの卒業おめでとうの分だよ」
「咲良はこっち」と言って包装された箱を手渡す。漂は箱を開けて、中から出てきた腕時計に眉をしかめる。
「……いくらした?」
「内緒」
「だって高そう」
「教えると絶対折半するとか言い始めるんだもん。僕の厚意だからありがたく受け取っておきなよ」
  草那が隣でくすくすと笑っている。
「森下くん、白い薔薇って気障ねー」
「安かったんだよ。一輪二百円」
「全然安くないだろ、それ」
  漂が草那の持っている薔薇の花束を見て呟く。
「僕はお前に何もプレゼント用意してないんだけど」
「別に構わないよ? 今日コーラ奢ってくれれば」
「やすっ」
  あまりに代償が軽すぎるので漂は思わず突っ込んだ。
「ともあれ、みなさん卒業おめでとう」
  草那がにこにこ笑顔でそう言った。これで高校生活ともさようならだ。
  草那お気に入りのカフェで昼食をとりながら、これからお互いがどうするか話した。森下は自分がデイトレーダーになるつもりなことを話したし、漂はやっぱり小児科医になると言った。草那が正直に「お水の仕事をやる」と言ったのがびっくりだった。
「宮月、頭いいんだから大学行けばよかったのに」
「勉強したいと思わないもの」
「だからって水商売は……」
  漂は最後まで納得していない風だった。
「まあ僕も宮月さんもヤクザな商売始めるけれども、咲良はがんばって高収入の勝ち組になってね」
  森下が無理やりそうまとめる。
「漂くん、無理しちゃだめよ? 体壊さない程度に、根詰めずにやるのよ?」
  草那も自分のことより漂のことを心配している。たしかに彼ならば過労死するまで激務をこなしそうだ。危なっかしくて仕方ない。
「社会人になってからもたまに会えるといいね」
  森下がそう言うと、漂が「そうだな」と応じた。草那だけが何も言わなかったことをそのときは気にせず、ひととおりお喋りをしたあとはいつものように草那を送って、漂も森下も帰路についた。

 さて、普通ならば新生活が始まるまでの期間、卒業旅行にでかけたり遊んだりするのだろうが、森下の場合は翌日からデイトレーダーとしての生活が始まった。
  数字のゲームは楽しい。それが本物のお金で、ともすれば自分が大損をするかもしれないとわかっていてもだ。
  規則正しく午前九時から午後三時まで、ずっとパソコンのディスプレイに向き合い、それが終わったあとはネットサーフをして新聞を読んで寝るだけの生活。一週間に一回、月曜日に戸浪がやってくる以外はひたすら単調な毎日だ。
  だから四月に入って、草那から連絡をとってくれたときはとても嬉しかった。
  森下の家にきた彼女はキャバクラ嬢の仕事を始めたとは思えないくらいナチュラルメイクだった。
  服装もそんなに派手なものではなかったし、髪も黒いストレートのまま。
  あまり水商売っぽくない雰囲気を売りにしているのだろうか。そうだとしても彼女は男を手玉にとることにかけてぴか一だが。
  森下家に草那が遊びにくるときはだいたい彼女が夕食を作ってくれる。彼女の料理はそれなりに美味しいため、きっと母親が留守のときは自炊しているだろうことが窺い知れた。
  いつものように食事をいっしょに食べたあとは、新しい生活の様子をお互い話し合い、それも終わったら服を脱いで体を重ねるのもいつもどおりだった。そうしていつものように、朝がくる。

「今日で森下くんとはさようならよ」
  朝食を食べ終わって朝刊に目を通している最中、草那が唐突にそう言った。
  森下は新聞を読む手を止め、草那を見る。
「さようならって?」
「もう会わないってことよ」
  嘘だろう? と森下は心中独りごちる。
「どうして?」
「仕事が忙しくなるから」
「それ理由になんない。会おうと思えば会えるでしょ?」
「そうかもね。でももう森下くんとそういう関係はやめるの」
  なるほど、そういうことか。と納得した。好きな男ができたのだろう。
「じゃあ、元気でね」
  森下はあっさりそう言った。それとも止めてほしいの? と笑顔をつくってみる。草那は「結局その程度だったってことね」と呟いて、玄関を開け放つとすたすたと帰っていった。
  その孤独の文字を背負った後姿を見送ったあと、森下は扉を閉める。
  初めて彼女と会ったとき、彼女の周りにはひとりぼっちという空気があった。おそらく今の自分の周りにあるものもそれと同じ空気だろう。
  所詮森下と草那はS極とS極なのだ。意識しあうことはあっても、くっつくことはない。真ん中にN極をはさまないとバラバラになる運命なのだ。

 その日を境に、草那は姿を消した。森下の前からという意味だけではなく、宮月が家を出たということを漂から聞いた。
「……何かひどい顔してないか?」
  そのことを知らせにきた漂が、森下の顔を見てそう聞いてきた。
「そりゃ宮月さんがいなくなったんだもの。落ち込むでしょ」
「そういうもんか」
  漂はあまり心配してなさそうだった。
「というかさ、お前、宮月のこと好きだったわけ? 恋愛対象として」
「どうだろうな。なんか本気になったらいけない人っているよね。こっちがおじけづくのもあるけど、あっちもこっちも幸せになれないカップルもあると思うし。そういうのは僕賛成派じゃないから」
「というか、お前って本気になったことあるわけ?」
  漂の痛烈な突っ込みが入った。森下は
「本気になるのは、怖いよ」
  と言った。
  特に宮月草那相手に本気になるのは怖かった。距離をとっていれば傷つけられないことは知っていたが、踏み込めばそこは刃物でできたレールの上のような気がして。
「だって、必ず自分の前から消える存在を、本気で好きになるのは、自分が傷つくじゃない」
  漂は頬杖をついたまま、森下を見た。
「それって好きってことじゃあないの? 単純すぎる?」
  漂の言うことは本当かもしれない。今頃になって、草那のことが好きだったのかもしれないとぼんやり思った。
  あんなに手の届くところにいた存在なのに、今は遠く感じる。
  この隣にいる漂もいずれは遠くへ行ってしまうのだろうか。
  だとしても、彼を引き止める権利など自分にあるわけがない。もちろんそれは彼女に対しても言えることで、自分にも言えることだった。

 人間はひとりじゃあ生きられない。なのに孤独を欲する。
  人間は孤独じゃあない。なのにたまにひとりぼっちになった気分になる。
  森下は今ひとりではない。なのにとても寂しい気持ちだった。
「咲良がいっしょにいてくれてよかったよ」
  寂しさの感情に蓋をするように、森下は笑った。

(了)


れの日