「最近、咲良はどうしているの?」
自宅に遊びにきた草那に珈琲を出しながら森下はそう聞いた。
「前はいつでもいっしょだったのに、最近は宮月さんだけだよね」
「ああ、漂くん、今とても忙しいの。受験勉強で」
「受験勉強」
学校でも頻繁に聞く言葉に森下はふうん、と呟く。別段「勉強勉強」と言うつもりはないが、いい加減高校三年生の十一月だ。大学を考えている生徒ならば神経質にならないはずがない。
「でも、咲良ほど頭がよければどこにだって入れるでしょう?」
「医大に行くんだって」
「医大!?」
森下は胸から取り出した煙草を落としそうになりながら素頓狂な声をあげた。
「あいつ医者になりたいの?」
「うん。小児科が足りないから小児科の医者になりたいんだって」
「今小児科医なんかになろうもんなら人手不足で忙殺されるよ? 文字通り、忙殺。忙しさに殺される」
「それ漂くんに言うとどう答えると思う?」
「『だからこそやるんだろ』みたいなこと言い出しそうだね」
正論だが、本当に過労死するぞ? と言いたいのを抑えた。草那にそんなことを言ったところで仕方がない。
「しばらく咲良には会わないほうがいいのかなあ……」
「そうね。受験が終わるまでは煩わしいことは考えさせないようにしてあげなきゃ」
草那がくすくすと笑う。
「宮月さんは進路、どうするの?」
「え? お水」
「水商売に進むんだ」
「うん。先生には就職って伝えてあるけど」
「そのほうがいいだろうね」
生徒が水商売に進むなんて聞いたら進学校の先生は何が何でも止めようとするだろう。
「森下くんは?」
「僕はデイトレーダーになるつもり」
「それ何?」
「家のパソコンから直に株取引する人、みたいな? 確定申告が面倒だって感じるけれども」
「へえ。すごーい」
草那は本気ですごいと思っているようだった。森下自身はあまりすごいことだと思ってはいないが。
「ねえ、森下くん。せっかく久しぶりに会ったんだし、漂くんもいないわけだから、どう?」
唐突に草那が体をすり寄せて誘いをかけてきた。
「そういう気分ならお付き合いするけど?」
「シャワー浴びてくるね」
草那が立ち上がって、一階へ降りていく足音が聞こえた。
森下は部屋の中を片付けながら、ふと草那との関係を考えた。去年の今頃から、彼女とこういう関係が続いている。昔聞いた矢島くんと今も恋仲なのかは知らないが、彼女がそれだけの関係に満足していないのは確かだった。
別に満足していないなら、それを埋める程度の関係になっても構わない。しかし漂にはそのことを伝えていない。伝えればすごく汚いものを見るような目で見られそうな気がして、怖くて言えなかった。
後ろめたいことをしているという気持ち。草那はこの関係のことを漂に話しているのだろうか。
「シャワー浴びてきたよ」
草那がバスタオルを巻いて部屋に戻ってきた。
「どうしたの?」
「いや、宮月さん、咲良に話しているのかなって」
「何を?」
「僕たちがこういう関係だってこと」
「言う必要がないじゃない。言ってないけど?」
「そうだよね」
森下が眉をハの字にして笑った。そうだろう、胸を張って言える関係ではない。
草那を抱き寄せて、キスをする。タオルを取り払って彼女の綺麗な四肢を見た。
「宮月さんの胸ってちょうどいいサイズだよね。体のラインも綺麗だし」
指先でラインをたどりながら、誉めてみる。森下は時間をかけてじっくり楽しむのが好きだ。草那もそれがわかっているから体を触りあう時間もたっぷりととる。
草那の体はやわらかい。いつも女性の体に触ると不思議に感じる。何故同じ人間なのに、こんなにも違うのだろう。ちょっと力を入れれば簡単に壊れてしまいそうな気がする。
「宮月さん」
名前を呼んでみた。腕の中の存在を確かめるように。
今は何時だろう。窓の外は暗いし、実は九時を回っているのかもしれない。
腕の中には草那がいる。森下の腕を枕にしながら、昨日の漂がどんな雰囲気だったか楽しそうに話している。
こうして見ていると、最初草那をはさんで漂と森下がいたのに、今は漂をはさんで草那と森下がいるような気分になる。
「それでね、漂くんがあまりに授業中外の景色ばかり見ているから、先生が当てたの。そしたら全然聞いてなかったようなフリしてしっかり理解しているんだよね。どうなってるんだろう」
「まあ単純に考えれば予習しているんだろうね」
それじゃあなかったら本当に頭がいいのかもしれないが、そのレベルに到達していないにしても、森下から見て漂は頭がいい。
「宮月さんは本当に咲良のことが好きだよね」
森下は腕の中の草那にそう言った。草那はくすくす笑って「嫉妬した?」と聞いてきた。
「嫉妬するよー、咲良と宮月さんのアツアツぶりに」
草那の唇に口付けながら、笑う。
「付き合えばいいのに。咲良と」
本当にさらりとそう言ってしまった。草那はきっと漂のことが好きだし、漂も草那のことを特別視しているだろう。むしろ二人が恋人でなかったことのほうが森下としては不思議なくらいだ。
「それとも三人で付き合う? 宮月さんをシェアすることに僕は抵抗ないけど」
漂の「おまえ、さいていだ」の声が聞こえてくるような気がした。
草那は笑ってから「それは無理ね」と言った。
「どうして?」
「漂くんはあたしのこと好きだから。それもね、特別好きなのよ。あたしと漂くんが喧嘩別れすることなんて、この先絶対にないんだもの」
「そこまで好きってわかっている男をどうして逃すの?」
不思議に思ってそう聞くと、草那は
「あたしは殺されるために生きているから」
と言った。
言っている意味がわからず、森下は沈黙する。
「どうして?」
そう聞くのがやっとだった。
「それが当然の報いだからよ」
返ってきた答えは具体性を欠いていた。森下はどう答えるべきか逡巡して、もう一度聞き返す。
「誰に殺されるの?」
「あたしを好きな誰かによ。恨んでいる誰かでもいい」
「宮月さんが好きで好きでたまらないか、嫌いで嫌いでたまらなくて殺すの?」
「うん」
彼女は頷く。森下は底知れぬ不安と、不気味さを感じながらこう言った。
「宮月さんが今ね、僕の腕の中にいるじゃない? それが僕にはとても嬉しいんだけど」
「そうなの?」
「うん。とてもね」
彼女の額に口付けると、それ以上は言及することなくベッドから起き上がって服を着た。草那は巻いてきたタオルを掴むとそのまま一階の風呂場まで下りていく。
裸で歩き回るのだけはどうにかしてくれないかな、と森下は思いながらシャツを着た。
それから、草那を駅まで送って外で夕食を食べた。ファミリーレストランでハンバーグを食べながら、サプリメント以外の夕食を食べるのは久しぶりだと考えた。
頭の中には今日草那が言った、「あたしは殺されるために生きている」という言葉がぐるぐると回っている。
(どういうことだろう。咲良ならば知っているのかな)
あいつならば草那の家庭事情を知っているかもしれない、そう思って携帯を取り出した。
が、考えてみたら漂は現在大学受験の勉強真っ只中だ。医大に合格するのはとても大変なことくらいわかっている。草那が殺されるために生きているとしても、すぐに死ぬわけではないし、事情を聞くのは彼が大学に合格してからでも十分間に合うだろう。
そこまで考えて、携帯をテーブルに置くと煙草に火をつけた。
三人の歯車が少しずつ狂い始めたのは、おそらくこの日からだろう。
(了)
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