(01)自分

「いちばんわからないのは自分のことだよ」
  と昔、知り合いが私に言った。
  私はそのとき、「自分のこともわからないうちから他人のことわかった気にならないほうがいいんでない?」と言った。嫌な高校生だと思う。
  だけどきっと彼が言った、自分のことが一番わからないというのは、おそらく彼自身が自分のことをよくわからないという、素直に感じたことなのだと思う。
  むしろこの場合問題があるのは自分の言動のような気さえしてくる。

 私自身が「自分」について、どう考えているかといわれたら、やはり答えは「わからない」だと思った。
  とても単純かつシンプルに生きているつもりなのだが、そのシンプルさを説明するのにはきっと原稿用紙二枚分くらいの説明が必要だと思う。
  それは本当にシンプルなの? と自分で思うので、今度は自分の複雑さについて説明しようとすると、きっと原稿用紙半分もいかないうちに説明が終わってしまう。
  つまるところ私は、思いのほかシンプルでも複雑でもない。

 「花南」という人間について説明しなさい、と言われても、きっと碌な説明ができないだろう。
  自己紹介はとても苦手である。
  しかし、ひとたび自分が考えていることを語りだすと止まらないこともある。
  「今日はこんなことを考えた」と日記に書き始めると、全部考えたことを書き終わって満足した頃には、最初の内容を忘れているし、それを見た友人は「君の日記は三度読まないと内容がわからない」と言う。
  言いたいことに焦点を絞らずにつらつらと書くということは、たぶんそういうことだ。
  つまり私という人間は、とても散漫にできている。意識しないと自分というものを相手に伝えることができない。
  だからだいたい喋るよりも聞く側に回ることが多い。そうして人の話を聞いているときこそ“自分の考え”というものを意識してしまい、相手の話に「そうねそうね」と相槌を打つことができないのだ。
  ついつい、「ちょっと待て。そいつは違うだろ」と言ってしまう。
  言わずにいられればいいのだが、母親は「あんたはとりあえず『はい』と言って聞いていればいいのよ」とまで私に言う。母親は私よりも我が強いため、私が「話を聞いてほしい」と言ったときも、だいたい私が3割、相手が7割話せばけっこういいほうだろう。たまに9割くらい母親が話している。
  そんなわけで、私は日常において、自分の意見を満足に全部言ったためしがない。もし私が全部の意見を言おうものなら、それだけで日が暮れてしまう。
  だから自分の考えを言いたくなったら、こっそり日記に書くことにしている。
「王様の耳はロバの耳〜」と、言った床屋といっしょだ。普段話さないことを、日記に書く。
  だからきっと、ネットの知り合いは私がおしゃべりな人間だろうと思っていると思う。実際はけっこう無口な女だ。

 私の三度の飯より好きなのは、書くことだ。
  小説を書く、詩を書く、日記を書く、勉強した内容をまとめる、色々語る、チャットをする、なんでもいい。喋るよりも書くほうがずっと楽だし、呼吸と同じ感覚でなんとなく書ける。
  私は自分の心情を語るときも、自分の頭の中を整頓するときも、何かを覚えるときも、とりあえず書いてみる。だから私の部屋にはジャンル別に分けたノートが山のように散らばっているし、ネット上にはジャンル別に分けたブログが散らばっている。
  書くことで飽きることはないから、とりあえず暇さえあれば何か書くし、書いていないときは何を書くか考えている。本当に書くことしか考えていない。そして書くことで考えをまとめる。
  色々書いていると、友人たちから「花南さんは色々考えているんですね」と言われるが、私自身は本当に何も考えていなく、あまりに考えていないからこそキーボードを叩いて考えをまとめなければいけない。声も文字も、一直線にしか出てこないため、物事の順序を整頓して考えるのにはもってこいだ。

 さてさて、「自分について」からいつの間にか「自分の考えについて」に内容が摩り替わってしまったが、「自分」というものについて考えるとき、アイデンティティという言葉が浮かんだ。
  国際的な家庭でもない限り、アイデンティティなんて普通は意識しないと母親は言った。たしかに「日本生まれの、神奈川出身の、こんな血統の人間です」という意味でのアイデンティティはそうだろう。
  アイデンティティという言葉の本来の意味は、自分が自分たらしめるもの、自己の統一という意味である。しかし一般的にアイデンティティという言葉は曲解されて「私が私らしく存在する」という意味で使われているらしい。今回はその曲解されたほうの意味でアイデンティティという言葉を使ってみることにする。
  私にとって、自分が自分らしいと感じるときとはどんなときか、「私」という人間はどんな人間かと考えたとき、そこに「こんな人間」という肩書きはいらないと思っている。
  たとえば「紅茶と文学が好きなオタクです」と肩書きをつくったとして、紅茶も好きだが、今はどちらかといえばアロマテラピーのほうが日常に密着しているし、だからといって「アロマもやります」と付け足したところで、一年後やっているかどうかわからない。
「お料理を作るのが嫌いです」と言っていた私が今はお菓子作りをしている。「向上心のない人間は嫌いだ」と言っていた私がとても今、向上心がない。
「これが私」という姿は、常に流動的で、私は一年前の日記を見るだけでも、ああ随分私は変わったものだなと思う。だから私は、自分らしさというものをこんな人間だと書いたとしても、それは書いた先から変化していくので、正確な情報ではないのだ。

 あまり「花南さんってどういう人なんですか?」と聞きたがる人はいないと思っている。
  そんなに有名人ではないし、あんまり魅力的な人でもない。
  だけどあえて言うとしたらこうである。

「私のことは私に聞いてください。
私は色々書くけれども、それだけが私ではありません」

「これが私」なんて文章では表せないけれども、実際に話してみればいいと思う。メールでも、メッセでも、リアルに会って話すでもいい。私は「私らしさ」なんて言葉は信じないけれども、「私は私」と思っている。
  我の強さだけは本当にひどいのだ。