(03)家族

 私の家族はおそらく変わり者だ。私が一番の常識派と言えばわかっていただけるだろうか。
  とても簡単に紹介するならば、私以外の人間はデザイン高校出身だ。だから絵が描けるのが当たり前である。したがって絵の描けない私は地位が一番下なんじゃあないかと思う。
  父と母は頭がいい。学歴が高いわけではないけれど、たぶん一番見る番組が「NHK」で、「人体」だの「世界史」だの、特集があるごとに撮ってはビデオの爪を折るような親たちは勉強好きだ。
  親が学生時代の勉強を見てくれるのは当然だと思っていた。だけど今になって、中学時代の勉強ですら満足に教えられるか不安な自分がいる。高校の勉強ですら教えられた両親は頭がよかったんだと、この歳になって知った。彼らに教えられなかったのは唯一、音楽だけである。
  残念ながら、音楽のセンスだけは父も母もとてもひどい。そして妹たちもひどい。もちろん私もひどいのだ。
  私の家族は絵の才能を得るかわりに音楽のスキルを削って生れてきた人たちの集団なのではと思うときがあるくらいだ。それくらいひどい。

 さて、絵の才能があって音楽の才能のない我が家だが、一番何があって何がないかというと、本があってお金がない。
  雑誌や漫画の類よりも専門書の類が多い。卒業した学校の教科書や参考書を捨てない。おかげで部屋のスペースがとても狭い。そしてお金が始終ない。
  この前父親の会社が倒産して、事実上の解雇を言い渡された。私は
「三年間仕事が続いたのは初めてじゃない?」
  と言った。この話を友達にしたら、「どうやって食べてきたの?」と聞かれた。
  本当にそう思う。二十六年間を三で割ったとしても、何度「収入がない」という状態に陥ったか思い出せない。
  父親が「お父さん、これで好きなことが出来るから嬉しい」とまぶしい笑顔で言ったのが忘れられない。解雇されてとてもごきげんな父親。またか、と苛ついてる母親。明日から収入がなくなるということの危機感がまったくない妹たち。全員体に障害持ちなのに、家族がこれだけ朗らかでいられるのはおそらく危機感がないからだ。事実、危機感のある私と母はよくストレスで体調を崩す。
  我が家はだいたい二つにわけられる。
  危機感のある人、危機感のない人。またはサディストとマゾヒスト。あるいは物質主義者と精神主義者。
  だいたいは危機感のない人がサドで物欲過多だ。ぐいぐいとマゾで危機感のある人たちに試練を与えてくる。ちなみに私はマゾで危機感に怯える人間のほうである。
  たまにこの家から逃げ出したくなるが、別に家族が嫌いなわけではない。他の人たちはどうして私が家族を好きなままでいられるのか不思議らしい。

 とはいえ、家族はいつでもストレスと楽しさを同時に運んでくる存在だ。
  変わり者の家族といれば、日常に刺激はつきもの。そのかわり、いらない荒波のような人生でもある。
「お母さんはね、なんでお父さんみたいな人を選んだかというと、今日はこの道を行こうと決めたら、明日はあの道を行こうって、色々楽しめるからよ」
  と母は言うが、私はたまに決められたレールの上を何も心配することなく進んでみたい気がする。
  嵐の日にオールの乗っていない舟にのっている気分になる。船員は船酔いしているか、酔っ払って歌っているかだ。
  比喩的な表現に思えるが、実際にうちの車は、走るときガードレールを突っ切ることがあったり、反対車線を走ることなんかもある。私は恐怖、サディストどもはきゃっきゃ喜ぶ。

 正気の沙汰じゃねえとしか言いようがない、変人家族を持っている私だが、前述のとおり「三年仕事が続いたなんてすごいすごい」と父親を褒めている段階で、私もどこか狂っているような気がする。
  慣れとは怖いものだ。「うちの家族って順調にきたほうだよね」と私が言ったら、いっしょに酒を飲んでいたお兄ちゃんがぎょっとした顔をしたのを覚えている。そのお兄ちゃんは波乱万丈な人生だと私は思っていたので、お兄ちゃんが私にぎょっとしたのにびっくりした。
  だけど何度でも言おう、私は割と順調にきたほうだと思う。誰も死んでいないのがその証拠だ。
  世の中にはもっとすごい家族がいっぱいあるのを知っている。うちの家族も何もなかったわけではないけれども、色々あった割にはとても朗らかなのがとてもいい。私はこの家族が大好きである。
  どこまでも明るいサディストたちに囲まれて、今日も私はいびられている。