(08)嗜好品

 嗜好品でこれについて語れと言われてそんなに語れそうなものはない。
  いい意味でも悪い意味でも雑食な私は、これだけは語れるというものを持っていないのだ。
  ちょっと前までは「紅茶」についてはちょっと詳しいと思っていた。家にある100種類ある紅茶の味は飲めばどの紅茶だか当てられるくらいには紅茶が好きな当時だった。
  紅茶を集めなくなった理由は今ある紅茶を減らそうと思ったこともひとつだが、とある人が言った言葉が印象的だからだ。

「紅茶が好きな人でいっぱい紅茶を買う人はいるけど、一番美味しいときに飲まずに古くなっていく紅茶は可哀想だ。それは本当に紅茶が好きって言えるんだろうか」

 考えたこともない考え方だな、と思った。私は一回飲んでそれっきりということはないにしろ、紅茶の楽しみ方は人それぞれだと思っている。日東紅茶を一日十杯飲むから私は紅茶好きと主張してもいいだろうし、50グラム3000円する紅茶を一日一回飲むのが紅茶好きだと語るならばそれもいいだろう。どんな紅茶の楽しみ方でも、主張した者勝ちだと思う。
  だから「本当に紅茶が好き」という表現があまりピンとこなかった。本当があるってことは偽物があるってことか。ひとつが正しくてあとは間違ってるってことなのかな……とかトンチンカンなことを自分でその後考えていた。

 とはいえ、紅茶は好きだけれども、一時期の一日カップ30杯分飲んでいた頃よりは落ち着きを取り戻していた私は、そういう紅茶の愛で方もあるだろうと思って紅茶を本格的に減らす方向に舵を切ったのだった。
  影響されやすいと言われればそのとおりだが、実際に一番美味しいときに紅茶を飲み終わるのが一番なのはたしかだ。

 さて、私には紅茶の好きな友達が何人かいる。
  実はとあるブログのファンだった私は、その後その人とミクシィで知り合うきっかけがあり、思い切ってマイミクを申し込んだ。快く承諾してくれたそのお兄ちゃんが私を吉祥寺の紅茶屋さんに連れて行ってくれたときの話だ。
  彼は私たちの前に8種類の紅茶、しかもアッサムとニルギリばかりを並べてテイスティングをさせてくれた。
  私はどの紅茶を飲んでも「アッサムだ」とか「あ、美味しい」とかはわかるのだが……どの紅茶が自分の好みかというのもわかるのだが、その紅茶の中に含まれている色々な香りはわからない。
「この香りは栗だね。あとは薔薇とナッツと〜(以下略)」
  みたいなことを彼は店員と話し始めた。ちなみに栗だけは覚えていたが、薔薇とナッツはいい加減な記憶である。たしかそんなことを言っていたような気がする、程度だ。私も負けじと聞き返した。
「このスズランの香りがするっていうアッサムはどうやってスズランって決めたんですか?」
  お兄ちゃん吹く。む、仕方ないだろう。私は気になったのだから。
  店員の人に説明されてもワインのソムリエほど敏感な舌を持っていない私はその差がいまいちわからない。断っておくが、私はいちおう紅茶コーディネーターという紅茶のソムリエっぽい資格を持っている。だけどわからないものはわからない。
  お兄ちゃんは本当にワインのソムリエみたいに紅茶を「ズズズ……ピョロピョロピョロ」とやって味わっている。私は「ズズズ……あーうまい」と味わっている。何度やってもピョロピョロまでいきつかない。あのソムリエ特有の飲み方はどうやったらできるのか、いまだにわからない。

 ということで、アッサム六種類斬りをするわけでもなければ、紅茶を美味しくいただくというこだわりもない私は、紅茶マニアというよりはただの紅茶好きだということに気づいたので、今は紅茶のことをあまり言わないように心がけている。

 嗜好品について語ることはほとんどないと言いながら紅茶だけでこれだけ書いたってことは、やっぱり私にとって紅茶というものは特別な嗜好品だと思っていいのだろうか。