(10)友人と親友の境界線

「私たち親友だよね!」
  という言葉が裏切りの第一歩だと今も信じている私。別にそんなたいした裏切りの洗礼を受けたわけではないのだが、何故かそう思う。そう思うことで自分を防御しているのかもしれない。
  親友なんて存在ができたら、その子と喧嘩をしたというだけで私はぐだぐだになりそうだ。その子と仲直りできただけでとても喜びそうだ。そういう一喜一憂は自分にとってあまり益にならないと判断しているので、親友はいらないと思っている。

「悪人礼賛」というエッセイに「あいつはダメな奴だとどんなに軽蔑しても最後の一点において相手を尊敬できる関係こそが親友だ」と書いてあったのを覚えている。
  高校生だった頃はそれが自分の求める親友の形だと思っていなかったが、今になればわかる気がする。それこそが親友の形だろう。どんなに酷し合う関係であったとしても最後の一点で相手を尊重する心をお互い持っている関係というのが親友なのだと思う。

 私という人間は友達に好き嫌いを作らないし、普通の人だったらとっくの昔にぶち切れるようなことを言われてもぼんやりと「あれ? 今イラッとしたけどなんでだろう」くらいにしか思わなくて、相手が失礼なことに気づけないような奴なので、友人は自分が寂しいと感じないくらいにはいるわけだが、そしてもちろん失礼な友達ばかりではなく、心を開きあえる友達もたくさんいるわけだが、それでも相手のことを心から寸分の軽蔑もなしに尊敬していたら、それは「崇拝」になりそうな気がするのだ。
  ちょびっとの「相手のここが駄目なんだよなー」という気持ちと、それを補ってもあまりある「大好き」っていう気持ち。これが友人の条件のような気がする。

 逆に親友というのはどんなに「駄目なやつだ」と思っていても最後は相手に尊敬の念をもっている人なのかな、という気がする。
  これはどっちの比重が大きいかだけの差だけれども、親友というものは文字通り親族のようなもので、親族というのは血を分けた者だけれども一癖も二癖もある人間ばかりで、まったく思い通りにならず苛々することばかりなのに最後は助けなくてはいけないような存在なのだと思っている。

 だけど実際は友人たちに救われることはあっても、あまり救いになることはない私なのであった。
  友人たちのどれだけの人間が私のことを「花南は駄目な奴だけれども自分にとって特別なんだ」と思っていてくれてるかはわからない。思ってくれていなくても別にかまわない。
  だけど私は、親友にだけは「ワタシタチシンユウダヨネ」という言葉を容易に口にしないだろう。
  それが私なりの礼儀だと思っているからだ。