(12)思考

 思考するということはどういうことなのか。
  厳密に聞かれるとよくわからない。
  ヘレンケラーがサリバン先生に、額に「think」と書かれて、初めて自分が思考するとはこういうことなのかと理解した……みたいな記述がどこかにあったと思う。
  ヘレンケラーほど不自由した人生でもないのに、私は思考するということがどういうことかよくわかっていない。
  きっと偉い哲学者の先生に「思考するとはどういうことなのですか?」と聞けば、現在の時点での説をいっぱい聞かせてくれるのだと思う。脳の偉い先生に聞けば、脳の仕組みから考えるということを教えてくれるのだと思う。だけど私の考える思考というのは、そういう仕組みやプロセスの問題ではないのだ。

 ネットの友達に「私は無口な人間です」と言ってもあまり信じてもらえないと思う。
  それくらいネットの世界に思考をだだ流しにしている、迷惑な人間だ。
  私以外でもそうだと思う。よく話す人はネットでまで主張することはないだろう。無口な人ほど心の中はうるさく主張している気がする。
  つまり私の頭の中は主張という名の思考であふれかえっている。
  常に何か考えているといってもいいけど、「今何を考えていた?」と聞かれるとそれを説明するのにすごくもたもたする。
「考えをまとめるために考えるからちょっと待って」と言いたくなる。
  考えていたことをそのまま話すときっと一時間以上かかる。だけど考えをすっきりまとめてから話すときっと10分もかからないだろう。
  私はカウンセラーいらずだ。前にカウンセリングにかかっていたことがあったけど、やめにした。
  私は今週あった悩みを10分で話すことができて、カウンセラーの先生は5分で答えを出せる人だった。20分中5分は沈黙なのだ。お互い自分たちの時間を大切にするべきだと思い、その20分は無用のものと判断してカウンセリングに通うのはやめることにした。

 そんなわけで、私は考えていることをまとめるのが得意なのか苦手なのかもわからない。
  それどころか「思考」ということを言葉にすることが難しい。すごく感覚的な人間なので、きっと聞いている人も苛々してくると思う。だから私は人にわかるように考えをまとめようとするが、そうするとシンプルになりすぎて自分の伝えたかったことってこんな単純なことだったのかと思ってしまう。

 そんな感じで、自分の「思考ということについて思考する」という内容はこうも益のない内容になるわけだ。ところが先の哲学者たちは「人間は思考する葦である」とか「我思惟するゆえに我あり」とか色々な言葉を残している。
  私は何故、人間が葦にたとえられるのかいまだによくわかっていない。
  自分が考えている間だけ存在しているとも思っていない。
  私は私であって、葦でもなければ、思考の塊でもないと思っている。
  だから私に哲学はできないのだ。言っている意味がわからないというより、あまりに感覚的に生きていて、思考的に生きられない人間なのだと思う。

「お前って何も考えていないだろ」
  と言われてもあまり反論できない。くだらない身のないことしか考えていない自分がいるのだ。