(16)傍にいるこということ

 私のパソコンに入っている音楽を見ると、青山テルマの「そばにいるね」とか、清貴の「The only one」みたいな「傍にいてあげるよ」とやさしく伝えてくれる歌がいくつか入っている。
  救けてくれるわけではない、受容してあげるわけでもない、だけどいつでも傍にいてあげるという、そのあたたかさが好きだ。

 ところが傍にいるというのは、案外難しい。
  物理的に距離が離れていることもあれば、心が離れることもある。
  ずっと傍にいるのがわずらわしいと感じることもあるし、傍にいることが苦痛になることもある。

 誰の傍にいるのが心地いいだろう。
  たとえ何もかもが不自由なかったとしても、嫌いな人の傍にはいたくない。とても不自由だったとしても大好きな人の傍にいたい。
  昔何かの格言で「嫌いな人の自由な庭園よりも、愛する者の隣に荊棘で繋がれたい」だったかという言葉があった気がする。さすがに荊棘で繋がれたいとまでは言わないけれども、まさしくそんな感じである。

 傍にいるということは、イコールあなたの味方という意味ではないと思う。遠い存在であることがイコール自分の敵という意味でないように。
  私は遠くの存在に唾を吐きかけるよりも、近くの誰かに「ちょっとそれは違うだろ」と言うことのほうが多い。あまりにも遠すぎる存在は、興味すら薄れてしまうのだ。

 傍にいるということは、あらゆる意味で自分に刺激を与える存在だと思う。
  やさしくなれる自分に気づくときもあるし、自分の嫌な面に気づくこともある。思わぬ自分を発見することもあれば、相手の意外な面を見せ付けられることもある。

 私が「傍にいるよ」というのは、きっと何もかも受容してあげるという意味ではない。
  だけど最後まで見捨てないって意味ではあると思う。
  だから傍にいるというのは難しいのだ。わずらわしくも感じるし、苦痛になるときもある。

 それでも傍にい続けるのは、何かを諦めていないからだろう。
  気づいてほしいのだ。「自分がここにいる」ということに。君はひとりぼっちかもしれないけれども、隣に私がいるということに気づいてほしいのだろう。