(20)個性

 私はこの言葉を英語にした単語が嫌いです。キャラクタという言葉が嫌いなんです。
  だから殆どの場合、自分の創作上作った架空の人物は名前と、その人格を個性と呼んで、キャラという言葉をなるべく使わずにきています。
  なんというかキャラという言葉を使っただけですごくうそ臭いもののような気がするんです。作った個性というか。
  お約束系のキャラっているじゃあないですか。前向きだけが命の頭の足りなさそうな明るいキャラとか、そう見せかけて実は根暗とか。すごい温厚そうなんだけれども実は残虐で冷酷な人だとか。そういうあまりにもリアルの人間から離れすぎた作られた個性というものにあんま魅力を感じないんです。
  人間がどうしてドラマを作りたがるがって、そんなの人間そのものの持ち合わせている感情とか、そういうのが魅力的だからにきまっているじゃあないですか。同じ感情を持っても、それぞれが違うように行動したりするのが面白いんじゃあないですか。それがひとつの法則にしたがっていないのが面白いんじゃあないですか。よくわからない理由がふっとわいたりするから面白いんじゃあないですか。
  キャラクタって言葉はそういうのをひねりつぶして一色の絵の具をどばっと塗ったようなイメージがあります。もうひとひねり欲しい。

――というのが過去の私の主張らしいと、今から5年くらい前のエッセイを見て確認した。
  今もキャラクタという言葉は嫌いである。架空の個性なんかには興味が湧かない。
  人間というのは不規則にできているから面白いと思う。なのに小説を読んでいて「何故そうしたのかわからない」という行動に賛同しかねる。それは私自身がそう感じたことがないからだろう。
  なんだかんだ法則を求めている自分がいることに気づく。自分の理解できる範囲に人間という存在を捉えていたいのだ。
  つまり、個性というものがあまりにもデフォルメされると、私はかえって理解できなくなるのである。
  何故そんなに単純なのか。何故そんなにわかりやすい思考なのか。
  わかりやすいのは、わかりにくいよりも絶対にいいに決まっているのだが、人間があまりにもわかりやすすぎるのはかえって気持ち悪い気がするのだ。

 たとえば私の人格をキャラクタ化しろと言われても、うまく特徴をあげることができない。
  それは私が個性的な人格でないからという意味ではないと思うし、私が複雑な人間だからということでもないと思う。
  私をキャラクタにすると、やっぱり私とどこかちょっと違ってくるのだ。質の悪いコピーのように感じるか、質のよすぎる模範的な私ができあがる。
  ちょっと待った、私はそんな綺麗な生き物でも汚い生き物でもないだろ!? と言いたくなる。
  だから自分の個性をデフォルメするのも、自分の魂を吹き込んだ登場人物たちの個性をデフォルメするのも好きになれない。

 私のお話は基本的にキャラ小説だとは思うけれども、そのキャラクタがデフォルメされていないよう、余すことなくそのキャラについて語る小説でありたいと思う。
  そこまで妥協しなくて初めてキャラ小説だと思うのだ。個性とはその人間を構成しているすべてについて語ることだと思う。語っても語っても終わりがこないものだと思う。
  私も、私のキャラたちも、物語が終わったとしてもひとりの個として存在し続けるのだ。