(25)執着と依存

 私はいったい何に執着しているのだろう。
  色々なものに執着している気がするのに、追い詰められるまで気づけないでいる。色々なものに依存しているはずなのに、いっちょ前に自立している気分になる。

 何に執着している?
  自分の我に執着している気がする。「自分がこうしたくない」って思ったものは頑としてやらない主義だ。もうちょっとこれがなんとかなれば、私は対応できる幅が広がるんじゃあないかって気がする。

 何に依存している?
  理論的であるということに依存していると思う。人間はもっと理論以外のところで勝手に針が振れる生き物だというのに、「そんなの理に適っていないじゃあないか」と感情のほうを否定する。そんなに理屈にあっていないことは感じてはいけないのか、と自分に聞いてみるが、世間一般様に通らない感情を、またそれ以上に自分の中で筋のとおらない感情に対してどうしても批判的になる。
  私は思考に依存しすぎて、感情をないがしろにしたまま生きてきたと思っている。

 ちょうど執着したものと依存したものが真逆になったように思える。
  私は理性的な自分というのに依存し、それでも自分の感情にしがみついているというわけだ。
  どっちかすっぱり切り捨てられたらきっとすっきりするのだろう。いっそ潔い生き方ができそうだ。
  だけどどっちかかたっぽだけになったとしたら、今以上にバランスの欠けた人間になるのだろうなあという予測もできるわけで、そうなってくると潔く捨てるという選択ができないのである。

 このまともな人間であろうと願う感覚は依存と執着のどちらなのだろう。
  これだけ人間のいる世の中なのだから、私ひとりくらいが駄目人間からさらに駄目人間になったところで家族くらいしか迷惑をこうむる人たちはいないだろうに。

 迷惑をかけること自体は別になんとも思わないけれども、それでも「迷惑だ」と言われるとなんとなく嫌な気分になるので適応できるようになろうとしているのだと思う。