(26)背中合わせ

 「背中合わせ」で最初に浮かんだのは、女子高生と男子高生が背中をあわせてしゃがみこんでいる姿だった。
  彼らは何がしたいのかと自分の中で考えてみる。女子高生と男子高生では名前がなくて可哀想だから、キヨコとマサルと名前をつけておこうかと思う。
  キヨコはマサルが背後で何をやっているかが見えない。同じくマサルもキヨコが何をやっているか見えていない。お互い「あっちは何をやっているのだろう」と考えている。しかし確かめるためには合わせている背中を離さないといけない。
  キヨコは自分のほうから動くのは負けだと思っているので、マサルのほうから確かめてほしいと思っている。一方のマサルは、自分が動いたらキヨコがひっくり返るかもしれないからあっちから動いてほしいと思っている。
  何故彼らがコミュニケーションをとらないのか私にはわからない。猿轡を噛まされているわけでもないのに、なぜにふたりして背中を合わせたままこう着状態で六時間が経過したのかわからないのだ。そろそろトイレに行きたいだろう、キヨコ。そろそろ背中がかゆいだろう、マサル。

 背中合わせという単語からこれだけの馬鹿空想が生れる人というのもあんまりいないんじゃあないだろうか。というより設定に色々無理がある。何故に口の聞ける男女が背中をあわせて六時間も膠着状態なのだ。
  小説にしたら絶対に突っ込みがくるのはわかっている。だからこういうどうでもいい空想だけで終わりにしておくことにする。

 マサルにとってのキヨコ、キヨコにとってのマサルにあたる、自分にとっての誰かは何だろうかと考えた。今は何をやっているかわからないけれども気になる、だけど実際に確かめに行くのはちょっと憚られるような人。
「そういえばあいつは今どうしているんだろう」と考えるとけっこうな数の人間たちと背中を分ちあっていたのだなあということを思い出したりする。中学時代の友達とは会うけれども、高校時代の友達とはほとんど会わない。そして創作仲間とオフ会をする回数と同じくらいしか友達たちと会うこともない。
「あいつはどうしているだろう」と思っても、それまでのブランクが空きすぎて会うタイミングがうまくつかめないのだ。
  きっとキヨコとマサルも長い間背中をあわせていると、そのうち相手のことを考えることをやめるようになるのだろう。そうしていつか「マサル(キヨコ)はどうしているだろう」とふと我にかえったとき、声をかけづらくなるはずだ。

 最初の三十分の間に声をかけるべきだったな、マサルよ。最初の三十分の間に行動するべきだったな、キヨコよ。
  タイミングを逸したあとにお互いを想うのも、尊重するのもとても難しいのだ。