(27)呼吸

 人間は呼吸をしないと生きられない生き物だ。
  たまに私は考える。呼吸せずに生きることができるなら、食べ物も食べず、眠ることもせず、生きることができたらどんなによかろうと。
  その代わり何を栄養にしたいかといえば、音楽である。
  ケリー・クラークソンの声はナッツのチョコレートのような味がするだろう。ショパンは白ワインのような味がするだろう。宗次郎のオカリナはレモンのシャーベットのような味がするかもしれない。
  私は音楽を聞いているとそんなことを考える。音楽を栄養にして生きることができたらどんなに素晴らしいだろうなあと思うわけだ。

 そういう夢のような考えとは別に、呼吸というのは当たり前のようにみんなしているわけだが、それができなくなったとしたら、もしくはすることに疑問を持ったとしたらどうなのだろう。
「お前、息の仕方おかしいよ」
  と言われたら、自分が変な呼吸の仕方をしていると思わないだろうか。
  もちろん「ハァハァ」とかしていたら指摘されて当然なわけだが、普通に当たり前のように呼吸をしていて、そのやり方はおかしいと言われたら、自然に呼吸ができなくなるんじゃあないだろうか。
  人間が生きるうえで当たりにやっていることに疑問を持った人は、きっと生きづらいと思う。たとえばそれが食事だったり、排泄だったり、睡眠だったりしてもそうだ。
  人間はそれを当然やるわけだけれども、それを「おかしい」と思いはじめてしまったら途端、生きづらいものになるのだろう。

 だけど呼吸をおかしいと指摘する人はあまりいない。
  だって、指摘できるほど上手に呼吸している人もいないし、溺れているときのような呼吸の仕方の人も滅多にいないのだから。
  しかしそれが趣味や、その人の生活の一部になっているものだったら、あっさりと自分と違うというだけで「それはおかしい」と否定する人がいる。
  マイノリティかマジョリティかという理由からか、それとも個人的にそれはおかしいと思っているからかはわからない。だけど「それはおかしいでしょ」と自分が感じたからってあっさり言っていいのかなあ……とたまに思う。
  もしかしたらおかしくても、その人にとってはそれが必要なのかもしれない。自分や一般論から違うというだけでその人の呼吸にあたる部分を否定していいのだろうかと思う。

 テレビを見ていて、母親が「この人は異常だ」と言うことがある。たしかに理解しがたい人もいっぱいいる。だけど何の疑問もなく否定できる母親がある意味恐ろしくもあるのだ。
  あなたは疑問も持たずに否定しているけれども、疑問を持つということがどんなに恐ろしいことなのか知らないからそんなことができるのだ。