(28)言葉の持つ力

 影響力のある言葉と影響力のない言葉があると思う。
  それは気軽に言ったか、それとも考えて言ったかの差ではない。いかに相手の価値観に揺さぶりをかける言葉だったか、というところに由来すると思う。
  私の言葉は基本的には強いらしい。相手に対して真剣に言ったときは特にそうだ。
  だけど私自身は自分の言葉が特別影響力のあるものだと思ったことはあまりない。むしろ無力すぎて、何もできないじゃあないかと思うことのほうが多いのだ。

 影響力のある言葉とまったく意味のない言葉、どっちのほうが日常的に多く使っているだろう。
  おそらく私はまったく意味のない言葉をたくさん吐き捨てている。意味のある言葉、影響力のある言葉はその言葉に対する反響も強いから、責任がとれないならば言うべきでないと思うのだ。
  つまり私は、自分の言葉を耳に(もしくは目に)した者たちの心におよぼす影響力まで責任を持つことができないため、普段は意味のない言葉だけを陳べることにしている。
  世の中にはブログやら日記やらがあふれている。
  そうしてたまに信じられないような言葉が吐き捨てられているというのに、「嫌ならば見なければいい」と自分の言葉に対しての責任を放棄する人がたくさんいる。嫌ならば見なければいいと思うならば、なぜ言葉にしたのだろう。そうすれば最初から影響力などないのに。

 無難な言葉は責めるに値しない。ゆえに人も寛大になる。問題のある発言や問題提起は人の心にゆさぶりをかける。ゆえに人は相手を責める形で自分の考えを認識する。
  問題のある言葉を出すというのは、ある意味勇者だと思うのだ。勇敢という意味では勇者だ。
  だけど問題提起のできる自分、格好いいと思っているようならばみならい勇者だと思う。本当に問題を呼びかける人間は、自分の言葉の影響力を考えて、そして無視するのだと思う。

 どれだけの人間が自分の言葉の影響力を考えて、無視しているのかは知らない。
  どれだけの人間が、自分の些細な言葉の影響力すら考えられず、特に深く考えることもなく吐き捨てているのかはわからない。
  ただ私は、言葉の持つ力の強さを知っているから、なるべく意味のある言葉を言わないようにしている、そういう臆病な人間だということは自覚している。

 言葉は相手を傷つけることもあるし、救うこともある。
  出した瞬間から魔法がかかっているのだ。
  だから私は魔法のかかっていない言葉を選んで使うようにしている。それでも何かしらの効果があったりするかもしれないが、なるべく無意味な言葉を選んでいる。
  勇者になり損ねた魔法使いは、自分の持つ魔法の威力に怯えながら生活するしかないのである。