気温35度の熱帯夜、私はエアコンを18度に設定した。

 

 

「暑い……」
  朝も、昼も、夜も、昨日も、今日も、明日もたぶん……暑い。
  私は夜中に目をさまして、冷蔵庫に麦茶を取りにいった。
  冷蔵庫の中の麦茶は冷たかった。
  だけど冷蔵庫はこの熱帯夜がんばっているみたいで、壁に触ると随分熱かった。
  麦茶を一気飲みする。足りなくてさらにもう一杯。
  エアコン効かせてたはずなのに、この暑さは異常だ。
  私はエアコンの気温設定を18度までガンガン下げた。
  隣にあった鏡にはぼさぼさの髪で汗だくの私が映っている。
  醜い。最近はおしゃれに気を使っていられないくらい暑くて仕方がない。
  エアコンはそれでも効きが悪く、私はどこまで下げればいいのだろうと悩んだ。
  下げ過ぎると電気代高いし、節電にもならないし。
  私は部屋の外に出て涼もうと思い、ベランダのサッシを開けた。
  むわっとした蒸し暑い風が流れこんでくる。
  それでも風もない部屋でじっと横になっているよりはマシだと感じたので、外に出た。
  ベランダの手すりに顎を乗せて、真っ暗な空を見上げる。
  もうすぐ七夕だというのに天の川どころか、星さえ姿を見せない。
  黒い黒い雲に覆われているのを見て、明日は雨か、と考える。
  梅雨は雨が多すぎて嫌だなと思ったのに、梅雨明けした途端にこの暑さで私はまた文句を言っている。
  去年も一昨年も異常気象。今年ももちろん異常気象。
  もう季節なんてあったもんじゃないなあ。夏に風鈴の音で涼がとれたら、エアコンなんていらないんだよ。
  若いころ、夏休みは楽しみだった。
  今の子はこんなに暑くて、どこかに遊びにいったりできるのだろうか。私が親ならば、こんな猛暑に子供が炎天下で遊ぶなんてそんな危険な真似、怖くて怖くてできやしない。
  といっても、子供どころか結婚してさえいないわけだけど。
  私は「はあ」と溜息をついた。
  お向かいの窓はカーテンがぴっちり閉まっている。
  昔、ここには幼馴染が住んでいた。
  今は一人暮らしを始めたらしく、実家のあいつの部屋は鍵がかけられ、カーテンがきっちり引かれている。
「ううー、涼平。暑いぞー」
  私は幼馴染の名前を小声で呼んでみる。
  名前に涼しいって入ってるから呼べば涼しくならないかなと思ったけれど、名前に似つかわしくない暑苦しい男だったから、名前を呼んで体感温度と湿度が上がったような気さえした。
「あいつどうしてるんだろ。外回りの仕事じゃなかったっけ?」
  たしか営業の仕事だったはずだ。
  この炎天下の中外回りなんてしていたら、私の体力だったら間違いなくさようなら私のライフポイント。そんな感じだ。
  涼太のことを思い出していたら、昔あいつに言ったひどい台詞や知ったかぶりを思い出し、私は恥ずかしさで死にそうになり頭をぶんぶん振った。
  若い頃の私を罵り、今の私は賢くなったのだと言い聞かせてみたが、その実若い頃の自分を罵れるほど機知に富んだレディとも言いがたかった。
  異常気象だねってあの頃も涼平と話してた。
「いつか季節がなくなるよ」
  ってあいつが言ってた。
  その時はそうかもねって言ったけれど、それがどういうことかなんて考えたことなかった。
  ファミレスでドリンクバーとエアコンで涼みながら、暑い暑い言いながら。

「俺たち35度で根をあげてるね」
「35度をなめんなよ? 今年最高の気温なんだからね」
「でも、去年は33度でひどいって言ってた」
「だから?」
「俺たちが小学生のときは30度超えたら猛暑って言ってた」
「そうだったかも。こうやって温暖化してくわけだね」
  私は笑いながらそう言った。涼平は笑わなかった。
「俺たちの子供が俺たちくらいの年齢になるときはどれくらいの温度になってるんだろうな?」
「は? あんたとの子供?」
「いや、俺と香織の間の子供でなく、俺と香織それぞれの子供が高校生になる頃の話。やーい、自意識過剰」
「うるさいな」
  私はちょっと恥ずかしさで顔を赤らめながら、ご高説を垂れ流そうとしている涼平さんの顔を見た。
  彼は真剣だ。涼平がこの顔をするときはたいてい、深刻に馬鹿馬鹿しい話をするときだった。
「緑茶って六十度で入れると美味しいらしいな」
  いきなりふって湧いた話題に肩がこける。
「ちょっとぬるめに入れると美味しいって聞くよねー」
  私はアイスティーを飲みながら言った。あいつは緑茶だ。
「ファミレスの熱湯は熱すぎる。60度をはるかに超えてる」
「紅茶もハーブティーもあるんだから仕方ないじゃない。冷めるまで待てば? 冷たいものでも飲んでさ」
  涼平はそれでも緑茶を啜っている。じじむさい男だと思っていたらこう言った。
「いつかこの緑茶と同じような60度の未来がくるんだぜ」
  二度目の肩がこけた瞬間だ。大げさな。
「そんな時代まで生きちゃいないよ」
「俺たちの子孫はそんな時代を生きるんだ」
「子孫の心配する前に彼女の心配しなさいよ。付き合ったこともないのに」
「彼女なんてそのうち出来る」
「どこからその自信くるわけ?」
「それよりもエコライフだ」
「すごい問題意識の高さだね。だけどあんたの子孫は途絶えるかもしれない」
  こいつ、今度は何の本の影響や音楽の影響を受けたんだろう。
「そんなことよりもエコライフです!」
  涼平は泣きそうな顔になりながらもう一度言った。
  いじめるのはよそう。
「うん。君の生まれるはずもない子孫と私の輝かしい子孫が生きてるずっとずっと先の未来じゃ、緑茶の温度が気温かもしれないね」
  無理やり話を合わせてやる私は天使のような女だと自画自賛。
「信じられるかよ。葉っぱが生きていける温度じゃねーよ、みんなお茶みたいに溶けちまう」
「そうだね」
「だから俺たちは大人たちに呼びかけなきゃいけないんだ。エコカーを買えと! フロンガスをやめるべきだと! 二酸化炭素の量を減らす努力をしろと! エコライフをエコライフをエコライフを!」
  だんだん声が大きくなってくる涼平を引きずってファミレスを出た。
  エコライフマシーンと化した涼平は商店街を帰る最中もずっと「大人のみなさーん! 俺たちのためにエコカーを買ってください」と叫んでいた。恥ずかしかった。

 それからもしばらく、涼平はエコを呼びかける活動をしていた。
  あまりに暑苦しく、他所様の家に押しかけて車を買い換えるように言ってたため、親も呼ばれて近所に謝り回る事件さえあった。
  ばっかじゃないの? そう思ってた。
「60度の気温になる未来なんて、ずっとずっと先にしかこないよ」
  私がそう言って慰めた。
  涼平は恨みがましそうな低い声で
「みんな60度の風呂に浸かってみろよ」
  と言った。無理だというのはわかる。
「大人が俺たちの未来を殺してるんだ」
  気持ちはわかるけれど、ちょっとこのエコロジーへの執着の仕方は異常だと思った。
  だから私は
「誰もそんなこと思っちゃいないよ。涼平の両親も、そんな気持ちで涼平を叱ったわけじゃないよ」
  とたしなめた。
「わかっちゃいない」と涼平は言った。
  わかっちゃいないのはお前だと感じてた。

 

 本当にわかっちゃいなかったのは私もだったのかもしれない。
  あの頃、こんな季節のない時代、40度を超える世界がこんなに早くくることを私は想像していなかった。
  60度の世界で私たちの子孫が生きていけるかなんて、無理に決まっているわけだけど、今の私たちに何ができるかはわからない。
  暑かったらエアコンを入れる。そうしないと熱中症になってしまうから。
  今さら昔のような生き方ができるわけもない。
  地球はどんどん温暖化していってるのだ。
  35度の熱帯夜に私はエアコンを18度まで落とした。
  この程度の暑さで私は音をあげている。
  未来は、私がおばあさんになった頃は、この世界はどうなっているのだろう。

 キンキンのビールが飲みたい。冷蔵庫強くしよう。
  暑くて眠れない。このエアコン壊れてるんじゃない?
  エコカー高いもんね。普通の車しか買えないや。
  雑巾洗うのめんどっちいし、ティッシュでいいよね。
  原子力怖いし、火力発電でいいんじゃないの?

 来年地球はどうなっているだろう。
  十年後の地球はどうなっているだろう。

 誰もが未来の子供を犠牲にしようと思っているわけではない。
  どうすればいいのかわからないだけ。

 遠くで雷が鳴った。
  いつもは嫌で嫌で仕方がない雨のサイン。
  これだけ傷つけられても地球は文句も言わずに地面を冷やそうとしているんだな。
  ぽつり、ぽつりと明るいグレーにかわってきた空から雨が降ってきた。
  日照り続きの時期に降る雨のことを喜雨と表現した日本は美しいなと思った。
  文句ばかりで何もやってなかった私に、心を洗うような雨が降り注いだ。
  天を見上げて、私は灰色の空に呼びかける。

「ありがとう」

 

 

 

使用お題:麦茶、風鈴、喜雨