親を血のつながった他人という存在以上に思ったことがなかった。だから彼女、夏子のことを理解するまでに少し時間がかかった。
夏に生まれたから夏子。そう彼女は名乗った。
夏のように暑苦しい女だった。
***
危険信号――とはちょっと違った。考え方は自分とまったく違う、そりの合わない、そして美しくもなく、たまにおよそ得策ではないと感じる馬鹿な真似をする女だった。
ともかく自分の周りにはいないタイプの女性が夏子だった。
当時平太は15歳で、夏子は30歳だった。自分のちょうど二倍、年が離れていた。
知り合ったきっかけは、夏祭りだった。地域の夕涼み会で、夏子は藍染めの浴衣を着てかき氷を食べていた。
自分はかき氷を食べたことがなかった。親はお小遣いというものを自分にくれなかった。
かき氷を食べている人は他にもいるのに、なぜか夏子のかき氷をじっと見ていた。彼女がとても美味しそうにかき氷を食べていたからかもしれない。
夏子はこちらに気づき、そしてにっこり笑った。平太は笑わなかった。
「かき氷、買ってあげようか」
彼女は頼んでもいないのにそう言って、平太の手を引っ張った。そしてレモン味のかき氷を買ってくれた。初めてかき氷を食べたが、それはあまり美味しいと感じられなかった。ただの合成香料の味だった。
「欲しかったんでしょう? 喜びなよ」
押し付けがましい女だなと思った。めんどうくさくて「ありがとうございます」と言った。
「名前、なんて言うの?」
「平太」
「へーた?」
自分はこの名前が好きじゃあない。何も特技がなさそうで、凡庸な人生を歩むようにつけられたような気がするからだ。苗字が角屋なのも、端っこで一生暮らせと言われてるようで嫌だ。へーたと呼ばれると、「下手」のようにも聞こえるところがさらにまずいと感じる。
「私は夏子。夏に生まれたから夏子なんだ」
夏に生まれたのがどうかしたのかと思いながら、自慢げに名前をアピールしてくる女を一瞥した。あまり顔は綺麗なほうじゃあない。目尻にシワがあるし、シミもある。なにより自分よりもずっと年をとっている女性だ。そろそろおばさんといった年齢だろうなと思った。
平太は涼しい顔で「いい名前ですね」と言い、お礼をもう一度言うとそのまま夏子と別れた。
そのとき、顔と名前をたまたま覚えた。
夏子と再び会ったのは自分が高校2年になったときだった。同じように暑い、夏のある日、平太は夜に公園でビールを飲んでいる彼女を発見した。
「お姉さん、こんなところで泥酔してると、襲ってって言ってるようなもんだよ?」
酔っ払ってベンチにうつ伏せになりはじめた彼女を放っておくのも咎められて、声をかけた。揺り動かしてみても「うーん」と言うだけなので、仕方なく彼女の酔いが覚めるまでいっしょにいた。熱帯夜だった。早くクーラーのあるところに行きたいのに夏子はなかなか起きなかった。
蚊にも刺された。喉も渇いた。平太は飲みかけのまま残っていたビールで渇きを潤した。
「うっそ、寝てた」
そう言ってがばっと彼女が起きた頃はもう午前0時を回っていた。
「じゃあ俺、帰るよ」
「もしかして番してくれていたの?」
「おばさんって年齢でもない女性を公園のベンチに残したまま帰るのはちょっとと思ったから」
「やっさしいねえ」
夏子は感心したようにそう言った。やさしいという言葉もあまり好きじゃあなかった。なよなよしい響きがするのが嫌だと感じる。
「今から帰ったらお母さん怒るんじゃない? いっしょに帰って事情説明して謝ろうか?」
「親はどうせ帰るの遅いから。また男のところに遊びにいってるだろうし」
「ふうん。もしかして君、苦労している人?」
「そういうわけでもない。普通に飯は出てくるし、学校も行かせてもらってる」
「そう。ならよかった」
「親は正直どうでもいい。邪魔さえしてこなければ」
「邪魔?」
「俺がしたいことを邪魔さえしなければ、あっちはあっちで自由にしていればいいってこと。それとも何? 夏子さん、親は大切にするべきだとか言うクチ?」
夏子は目をぱちくりとさせて「私、名前言ったかな?」と聞いてきた。
「二年前の夏祭りで夏子って名乗ったよ。かき氷おごってもらった男の子いたでしょ? 身長伸びてわかんないかもだけど、あの子供が俺」
「……。ああ!」
いや、忘れてるけれども合わせたな。なんとなく直感でわかった。
「なんだっけ、なんかこう覚えにくい名前なんだよね」
「角屋平太(すみやへいた)。しみったれた名前だから覚えられなくて当然」
「そんな。親からもらった名前なのに」
自分で名前がつけられるならばもうちょっとまともな名前をつけたのにと平太は感じる。夏子は「へーたくんはあんまり親が好きじゃあないんだね」と言った。
「鏡を見るとね、俺を捨ててった父親そっくりな奴が映るんで自分もそんなに好きじゃあないけれども。性格の悪いところは母親に似たしね」
「うわあ。そりゃあ大変だ。でもきっといいところも似てるよ!」
「どうだか」
夏子はビールが空なのに気づき、それをゴミ箱に投げ込んで、はずし、拾ってまたもどってきて狙いを定めてもう一度投げ込み、はずし、さらにもう一度やろうとしたので、平太は馬鹿なんだなこの女。と思った。暇つぶしにはいい相手だったが。
「夏子の親はいい親?」
「感謝はしてるよ」
だけど不満はありそうな響きがあった。夏子は三度目でようやくゴミ箱にシュートできたのに満足して、振り返る。
「感謝してるし、愛してる」
「BUT?」
「バット? えーと、“悪い”だっけ?」
「いや。“しかし”」
単純な英語さえ間違える。夏子はその意味がわかったらしく
「そうだね。全部が全部、これでいいと思えることばかりじゃあないけれども。平太くんは不満のほうが多いの?」
「世の中のほとんどに対して不満をもってる。たまに全部壊して、全員殺してまっさらにしたいくらい」
「いい具合に思春期だね。ほとんどってことは、信じているものもあるんでしょ?」
「夏子さんってポジティブシンキングで人を傷つけるほうでしょ」
「そうかも。無駄に明るくて何も考えてなさそうってよく言われる。私は綺麗なものを信じている人が周囲に絶望すると思ってるから、平太くんはいい意味で夢見がちなロマンチストなんだと思ってるよ」
「ああそう」
短く相槌をうって、平太は目の前のゴミ箱を見た。ゴミ箱の中には食いかすがいっぱい捨ててある。
「残飯みたいに、ノーモアって思ったら捨てられりゃいいのにな」
「もったいない。拾うよ?」
「腹壊すからやめときなよ」
「なんかこう、楽しいこと考えようよ。世の中そうすりゃちょっとは楽しくなると思う。いいこともあるさって」
「いいことだけ数えると足元掬われるよ? 夏子さん」
「私はよく空想するんだ。美味しい食べ物とか、旅行にでかけることとか、子供がいたらなあとか」
「子供」
そういえばいてもおかしくない年齢だなと感じる。夏子は続ける。
「よく理解できないって言われるけれども、自分に子供がいたら、私の今の姿胸張って見せられるかな? って考える。そして見せられないと思う態度は改めるようにしている」
「うん、理解できない」
全然理解できない。平太はちょっとずれてる夏子のほうを見ずにそう言った。
「平太くんは何か楽しいこと考えないの?」
「楽しいこと? そうだなあ……。ないな、ないない」
首を振る。つまらない人間だと思われてもかまわない。夏子はこちらをじっと見ている。
「あのね、私よくこの公園にいるんだ。何か話したいことあったら、いつでもどうぞ」
「は。ないです」
思わずそこだけ丁寧語になった。口調は平坦なままそう言ったから、夏子は「えー?」と言った。
「なんでもきくよ」
「俺はどちらかっていうと、夏子さんが話を聞いてほしそうに見えるんだけど?」
半眼でそう聞いてみると、夏子は「そうかもね」と言った。
「酔ってたのに理由あるんでしょ?」
「子供に打ち明けるような内容じゃあないよ」
「つまらない内容と見た。失恋?」
「だったら楽なんだけどね」
夏子は笑って、立ち上がるとスカートをはたき、にっと笑って「でもちょっと話してすっきりしたよ」と言った。そうして手をふって別れの挨拶をすると、帰っていった。
平太は夏子はたぶんそれなりに苦労している人間なのだろうと思った。よくはわからないが、そう思った。
それからしばらく、よく公園で夏子と話した。
夏子は思ってること、考えていることはよく話す。だけど感情的なことは何も話さない。そうして「それであなたはどう感じたの?」と聞くと、だらだらと整頓できないまま心情を語り出す。夏子は感情を整頓するのがとても下手だった。平太は「へー」と相槌をうちながらそれを聞き、彼女が心の整理をするのを手伝った。
「平太くんへーしか言わないからへーくんでよくない?」
「太だけ省略する意味あるの?」
そういうくだらない会話も交えながら。平太は彼女が痴呆の母の看病をしていることをしばらくして知ったし、彼女の父親が無口な人だということも知った。母がボケてからとても怒りっぽくなり、よくちょっとしたことを勘違いして怒り出すことや、父が何も言わずに実行することがしばしば母の怒りを買うことなど。
夏子は人生をさらっとしか語らないが、痴呆の介護がどれだけ大変かは知っていたつもりだし、非協力的な父親にかき回されるならばよりいっそう大変だろうと想像した。だけど力になれることなんて自分にいはないことを平太は知っていた。彼女は大人なのだから、自分で勝手に解決するだろうことも。
「平太くんの話も聞くよ?」
「朝黒猫が横切った。そしたら夏子さんを見つけたから今日はやっぱり悪い日」
「黒猫かわいいのに!」
「いい日じゃあなかったよ」
夏子の話の結末がハッピーだったことがない。平太はたまに不安になる。自分もそんなについている人生とは言えないが、この夏子の話の最後は……夏子が疲れて死ぬという結末ではあるまいな? と。
公園に来るまでの道のり、足取りが重くなることがある。夏子に会うのが苦痛だと感じることも。自分は好き好んで不幸を食べる趣味はない。平太は夏子が日に日に疲れていることを実感している。
だけど、できることなんて何もなかった。
事件は唐突に起きるものだ。
嫌な日だなと思った。入道雲が空いっぱいにでてきて不安な気分になったし、雷が鳴り響いてスコールが降った。誰か神さまが泣いてるんじゃあないかって思うほどに。
雨があがったその夜、予想は当たった。
公園のほうから慟哭が聞こえた。叫ぶような尋常じゃあない泣き方だ。平太はたぶんそこで泣いているのが、ほぼ確実に夏子だろうと確信して走った。
「夏子さん! どうしたの」
彼女は振り向いて、こちらに気づくと泣き止もうとして唇をかんだ。それでも押し殺しきれずに手で口をふさいで、うずくまった。
「泣いていいから」
変な呼吸の仕方をしている夏子にそう言って、途中くばっていた金融会社のティッシュを渡す。彼女はそれを全部使い切るまで、涙と鼻水をかんだ。
「どうしたの?」
もう一度聞いた。夏子はくぐもった声で、「お母さんが、」と言った。
「夏子はもういないって」
「死んだって言い始めたのか?」
「ち、がう。夏子はずっと前に家を出て行ったって。恩知らずな子だから、謝礼も残さずに出て行った。親に貰うことしか考えない子だった。私がどんなに愛してるかもわからないで、根が暗いから考えることがネジ曲がってあんな子になったんだって」
平太はたぶん全部本当のことなのだろうと思った。夏子はきっと昔、親を置いて家を出たのだろう。愛がないと親を罵ったこともあるのだろう。
「ボケてるんだからって諦められないよな。苦しかったな」
「わ、私……」
一呼吸置いて、つっかえつっかえ、呑み込み、吐き出そうとし、呑み込み、彼女は文脈が繋がらない形で最終的に吐き出した。
「DV受けた子ってさ、親になったときDVしかしないんだって。私親になったとき、同じことするのか、な」
平太は言う言葉を探した。何か言わなきゃいけない、いつものように彼女が吐き出すのを全部待ってるだけじゃあ駄目だと感じた。
もう苦しむなって言いたかった。投げ出せと言いたかった。だけどそれは彼女にはできないのだろうということも想像がついていた。
「こんなに、苦しんでいるお前が、同じことを子供にするわけないだろ」
「ダメな、母親になるかも」
「だとしても……」
続ける言葉が見つからず、平太はやめた。
「想像してみて。あなたの子供が、にって笑うところを。3歳、10歳、20歳……あなたはその成長を見守っている。どんな気分?」
夏子が目をぱちくりとさせた。泣き止んだ彼女に、なだめるように言った。
「その気持ちが、真実なのだと思う。いい親になるって信じてる」
しばらく、彼女を置いてコンビニにジュースを買いにいった。
一本彼女にあげて、二人で公園のベンチに並んで座って飲んだ。
「最近、お母さん苦しそうなんだよね」
「夏子さんも苦しそうだよ」
「うん。でもね、お母さんも苦しいと思うんだ。何もわからなくなっていくというのは苦しいと思う。お父さんはボケてるって思って、何もわからないと思ってひどいことも言うし、何もわかっちゃいなくたって感情はあるのにね」
「そうかもな。そういうところに気づいてあげられるといいんだけどな」
夏子は親を愛している。平太はどうだろうか、親のことを愛しているとは言えないが、いつか夏子のように愛してあげられる日がくるのだろうか。想像するとちょっと億劫だった。苦しむのは目に見えている。夏子のように苦悩したいと、今の自分には思えなかった。だけど夏子が馬鹿だとは、今は思っていなかった。
「夏子さんは偉いよ。親のこと一番に考えてるんだから」
本当は偉い夏子なんて見たくなかった。親のことなんて捨てて、自分自身のことを一番に考えてほしかった。
「愛しているからね」
夏子はぽつりとそう呟いた。
その響きがあまりにやさしすぎて、そして相手には届かないであろうことに、切なさと悲しさが波紋を広げた。
夏子に何がしてあげられるだろうと考えた。でもやっぱりできることは何もなかった。
自分が夏子の息子だったら何かしてあげられただろうかとも考えたが、やっぱり無力だった。
「可愛い子だったら、愛されたのかな」
次の呟きはもっと悲しいと感じた。
平太は夏子の息子に生まれるよりも、親に生まれたかったと今度は感じた。
だけどどうやって? 平太は親から愛されたという気持ちがないから、子供をどうやって愛せばいいのかよくわからない。夏子が子供だとしても上手に愛せないだろう。
そのときちょっとだけ、子供がいたら……と空想する夏子の気持ちがわかったような気がした。夏子が子供だったら、悲しまないようにしてあげたいと感じた。
親と同じことを自分もするのかと夏子が聞いてきたその気持ちも、よくわかった。
そうすると平太はちょっと不安になった。自分が親になったときに失敗しないなんて、そんな自信は一切なかった。
悲しいなあ。切ないなあと思いながら、平太は夏子にこう言った。
「夏子さんは正直可愛くないけれども、」
本当、可愛いからは遠い顔をしているけれども。性格も自分とは違いすぎて、好みじゃあないけれども。年も取り過ぎていて、自分はちょっと勘弁だと思うけれども……。
「素敵な人だと思うよ」
それは本心だった。夏子は素敵だと感じる。
夏子は笑って、「こーのう、口がうまいんだから」と軽く平太を小突いた。
何も変わらないけれど、平太も夏子も何もいいことがないけれども、だけど二人とも笑っていた。
(了)
使用お題
浴衣、かき氷、夕涼み、ビール、雷雨、入道雲