「昨日ママンが死んだ」
  とマザコン男から連絡が入った。
  イブの晩にさえ「ママが帰ってくるから」と私を放置した男の母が、よりによって翌年のイブに死んだらしい。
「そう、ママ死んだんだ」
  喜んではいけないと知りながら、声は少しだけ上ずっていたような気がする。私はこれで彼がもう、あの母親に振り回されずに済むことを知っていた。
  私の喜びをさとられまいとする気持ちと裏腹に、私の元恋人、晴也(はるや)は落ち込んだままこう言った。
「ママン、死んだよ。最後まで俺のこと嫌いだって言ったまま。朱里(あかり)は通夜には来ないと思うけれどもさ、今夜そっち行ってもいい? ひとりだと、駄目になりそうで……」
  私はため息をついて、いいよと小さな声で言った。イブは仕事で、今日は友達といっしょにケーキを食べる予定だったけれども、断ることにした。
  晴也は震える声で「ありがとう」と言って、電話を切った。外というわけではなさそうだったが、もしかしたら暖房の弱い部屋からかけていたのかもしれない。

 マザコン男と別れた理由は、あいつが私よりもママのほうが好きだったこと、そして私が彼のママが大嫌いだったことに由来する。
  晴也のママは酒乱で、酒が足りないと子供を雪の日に一人で使いに出すような人だった。
  母子家庭だったらしいが、父がどんな人だか知らないと彼は言う。
「ママは『ろくでもない男だった』っていつも言ってる。『お前の顔はどんどんそいつに近づいていくね』とも」
  晴也は自分の顔が好きじゃあないと言っていた。名前のわりに辛気臭い顔をしているからと。きっと、自分の父親も辛気臭い男だったのだろう。ママンに傷をちらつかせて近づき、依存するだけ依存しておいて最後、被害者のような顔をして捨てていったに違いない。
  晴也はいつも見たこともない父親の悪口を言っていた。母親の悪口を言うかわりに父親の悪口をいっぱい言った。
「ママンは俺を産まなければ、きっともっといい男の人に会えたんだ。全部、そいつがいけないんだ」
  時には自分のことさえ否定して、晴也は母親を庇った。私が母親のことを嫌いになった理由が分かるだろうか。
「ああ、そのとおり。あんたさえいなければね」
  そう言うような親だったからだ。
  私はこの母親が年老いたとき面倒を見るくらいならば、好きな人と結ばれなくてもいいと思った。

 晴也は高校生から二十歳になるまで、違う男の人の家で育てられた。
  晴也のお母さんがその男に彼を売ったのだと育て親の男は説明した。
「買ってどうする気だったの?」
  同性愛者にはあまり見えない男が、高校生の男の子を買う理由がよく分からない。学費だって出してやり、生活に必要なもののひととおりは揃えてくれたと晴也から聞いていた。
「楽にしてやりたかったんだ」
  育て親の男はそう答えた。どうして私にそんな話をしてくれるのかも教えてくれた。
  私ならば、きっと受け止められると思ったらしい。晴也の傷の大きさに怯えることもなく、彼を傷つけるような離れ方をしないと。
  その見込みは外れた。私は晴也に「あなたのママの面倒を見るくらいなら、私はあなたと別れる」と言った。
  晴也はママをとり、私は晴也を捨てた。
  晴也のことが嫌いだったわけじゃあなかったけれども、彼のことを可哀想な人、それを慰める私は素晴らしい女性という陶酔に浸っていなかったと言ったら嘘になる。
  この関係は私を駄目にすると思った。私にはもっとふさわしい相手がいるに違いないと。
  だけど晴也よりも私を愛してくれる人は見つからなかった。晴也は私のことをママの次に愛してくれていた。いつもママの次に好きだよと言ってくれていた。悔しかったけれども、それでも晴也が愛の深い男だったのは知っていた。
  あんなこっぴどい振り方をした私に、「君よりも素敵な女性に会うことはないだろう」と言ってくれた。なんだよ、あんたのママよりも私はずっといい女だったはずなのに。私のほうが素敵だったら、どうしてママをとったりしたの? 泣きたい気持ちになった。

 通夜が終わった足で、晴也は私の家に来た。
  今さら虫のいい話だなと思いつつ、私のほうも彼に冷たく当たる心算はなかったようで、部屋に通した。
  彼は死の間際に母が何て言ったか教えてくれた。
「あんたは私にこれっぽっちも似てなかったね」
  って言われたらしい。
「あんたはきっと橋の下で酔っ払って拾ってきたんだね」
  って。たしかに彼の母に晴也は全然似なかった。父親に似たのとも違う気がした。晴也はきっと、晴也として生まれてきたのだ。

「『これでもね、愛したかったんだよ。愛し方なんて全然わからないし、思うようにいかないことばかりでムカつくことしかなかったけれどもさ、あたし苦しかったんだよ。あんたがいい子だったらどんなによかったのか』って言われた」
「それで何て答えたの?」
「ごめんね、いい子じゃあなくてって言った」
「あっそう」
  あまりの人のよさに私のほうが呆れてしまいそうだった。
「お母さんそのまま死んだよ」
「そうか」
「天国にいけるかな」
「わからないな」
  本当にわからない。私が天国という場所を信じていないのもあるけれど、仮に天国があったとして晴也の母はそこに入る資格があるのだろうか。
  晴也は喉を震わせて絞りだすようにこう言った。
「ママンくらい可哀想な人が救われなかったら、神様は誰を救うためにいるの? ママンはママンの人生を生きたんだよ。精一杯がんばったんだ」
  晴也が何故そこまでママをかばうのかが私にはわからない。地獄に落ちればいいくらい言ってやればいいのにとさえ私は思うのに。

「俺ね、小さい頃、何度かママンを殺すこと考えた。大人になってからもたまに早く死んじゃいますようにってお祈りした。なんでそんなこと考えたんだろう。本気じゃなかったって言いたいけれども、あの瞬間は本気だったんだ。だからママン死んじゃったんだよ。風邪こじらせたくらいで死ぬなんて、風邪薬買えって渡した金でお酒なんて買ってくるから」
  死んだ理由までしょうがないなあと思ってしまったが、晴也は自分の昔の言葉を後悔しているようだった。
「お母さんってね、お母さんなんだよ。血のつながりなんてどうでもいいって思っていても、親切な人は他にいっぱいるって知っていても、それでもお母さんに否定されるってことは自分を否定されることなんだよ。お母さんに肯定されるだけで、俺は戦車とだって戦えるのに」
  言葉は続かなかったが、私は今朝、彼が自分のことを嫌いだと言ったまま母親が死んだと言ったことを思い出した。私に言っていない、何かがあると思った。
  そこまでしゃべって、彼はぼたぼたと涙を流してうずくまった。
  私は彼が声を出さずに泣くのを、声さえ出せずに泣くのをじっと見ていた。
「私がママになってやるよ」くらい言ってやるべきかなと思ったけれどもそれは違う気がしたし、「ママのことは忘れなさい」と言うのも違う気がした。
「サンタさんがママを天国に運んでくれるように頼もうか」
  かけられる言葉はそれだけだった。
  晴也は、ママからの愛情が欲しかったんだ。私からの愛情とは違う愛情が欲しかったんだ。彼のママはもういないんだ。彼のことを唯一「生まれてきてよかった」と肯定できる存在は死んでしまったのだ。

「いちごのショートケーキってさ、スポンジいちごスポンジ生クリームなんだよ」
「? なんのこと」
「ケーキ食べない?」
  私はクリスマス用に買っていたホールケーキを出した。フォークを渡すと、晴也は私が一人で食べるつもりだったショートケーキをまるごと一人で全部食べた。私は全部彼にあげた。
「どうだった?」
  と聞いたら「スポンジいちごスポンジ生クリーム」だったと返ってきた。
  子供みたいに頬にクリームをつけた晴也の口元を、母親のように私は拭った。晴也はちょっと恥ずかしそうな顔をして
「自分で拭けるよ」
  と言った。子供はいつかお母さんを卒業するものだよね。晴也もお母さんを、すぐにとは言わないけれどもいつか卒業できるといいね。
  口にはしなかったけれども、そのかわり二人でチキンを食べて、ワインを飲んだ。
「これ、ママンが好きだったワインだ」
  と晴也が言ったとき、卒業まではまだまだ遠いなと思ったけれども、今日はママも混ぜてあげようと思って、みっつ目のグラスにロゼワインを注いだ。

(了)

 

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