ウォーハンマーを握る手
ギリアン=スチールダガーは白い霧の中をずんずん歩いた。
濃密に濃密に、押し寄せるような窒息するような死の霧の中をずっと進んだ。
足元は白い骨が砂になっている。上を見上げればそこには青空。
綺麗だねなんて言葉は浮かばない。
ただひたすら怖くて。青空の美しさと、下に散らばる惨たらしさに眉をしかめた。
霧を振り払うようにコートを翻した。まとわりつく死にゆく香りは、穏やかに離れて、またふんわりと纏わりついてくる。
ようやく到着した、大きな扉の前でギリアンは深呼吸をした。
心の扉――そうギリアンは呼んでいる。
死にゆく者たちはここに閉じこもる。
感謝もせずに嘆きながら。感謝もせずに絶望しながら。
「生きたくない……」
扉の向こうから聞こえる声はいつでもギリアンを焦燥感に駆り立てる。
腰のベルトにかけてある、ウォーハンマーに手を伸ばした。銀色のウォーハンマーを思い切り振り上げて、大きく息を吸い込む。
一気に振り下ろす!
扉に小さくヒビが入った。そこにもう一発叩きこむ。さらにもう何発、割れたところに蹴りを入れて、乱暴に蹴り開けた。
「な、な……」
中にいたのは茶髪の髪の毛をした、十歳くらいの女の子だ。
「誰よ! あんた」
「誰でもいいだろう。ギリアンだ」
名乗ることに抵抗はなかったので素直に名乗ったつもりだ。
少女はいきなり割られた扉にも、その手に持ったウォーハンマーにも目を交互にやり、怯えたように言った。
「ねえ、あなた死神なの?」
「違う」
ギリアンは首を振った。
「魂と体を結ぶ者。結魂師だ」
「ゆいこん……し?」
少女は少し沈黙した。
「君の命はまだ生きることができる。助けにきたんだよ。君が望むのならばだけれど」
少女は少し唇を開き、そして何かを躊躇するかのようにもう一度つぐんだ。
「だめ、だめ! 私、このまま溺死するの。そうしないとお母さんが死んじゃうから」
「そう。つまりお母さんが死ぬくらいなら私が食い扶持を減らそうってことか」
ギリアンは胸の内側がチクチクするのを感じながら、しずかにそう言った。
「僕は君の痛みがわからないよ。わからないけれど、お母さんは死んだら悲しいんじゃないかな」
「死んだら……」
少女はふっと泣きそうな顔をした。
「死んだら、きっと喜ぶよ。私望まれた子じゃなかったから」
胸の中に突き刺さる痛みを感じながら、ギリアンは小さく「そうか」と言った。
「だから私のことは放っておいて。死神が迎えにくるまでずっとここに居させて」
「困ったな」
ギリアンはそう呟くと、ウォーハンマーを振り上げた。
少女が身をすくませる。殴られると思ったようだ。
床に向かって思い切りウォーハンマーを振り下ろす。亀裂が入って下から水が湧きだした。
「死に水をとってやろう。君が死にたいというのならば。僕が第一発見者だ」
「う……あ、あ……」
少女は下から染み出す水に、先ほどの苦しさを思い出したようで肺で大きく息をした。
「本当に死ぬのかい?」
少女はすうっと息をして、一気に止めた。先ほど氾濫する川に飛び込んだように、ギリアンの前でじっと、命を断つ意思表示を見せた。
こんな小さな子が命を拒絶するような、そんな境遇を想像すると親に腹が立つ。だけど同時に、その親もやりたくてやったわけじゃないだろうことも想像がついた。
貧しくなりたくてそうなったわけじゃないだろうことも、子供を産みたくて産んだわけじゃないだろうことも、子供が死に急ぐほど殴ったことも、すべてそんなつもりじゃなかったのだろう。どうしてこうなったのかわからないのだろう。
ギリアンは少女の胸が水に浸かるのをいっしょに見ていた。浸水してきた水はギリアンの膝の高さまであった。
「本当に死ぬのかい?」
もう一度同じ質問をした。
「生きたいって感じじゃないね」
生きたくないのだろう。本気で。
「僕には君の苦しみがわからないよ。同意したくもない。でも、君が生きていてくれれば嬉しい。死んだって知ったこっちゃないが、生きていてくれると嬉しいんだ」
少女の目がうろたえるようにこちらを一瞥した。
「生きてたっていいことがないんだろう? 死んだっていいことはないよ。君がやってることは、ただAからBに逃げてるだけだ。それは構わないが、Bに逃げ場がなくて、Aより酷い場所だとしても君は死ぬと言うのかい?」
動揺をかくせぬ表情で、少女は見上げる。
「脅すつもりはない。どのみちみんな死ぬのだから、いずれは行くだろう。
あと十年生きてみるつもりはないか。その時君の隣には素敵な人がいるかもしれない。いないかもしれないが、愛を知らずに死ぬなら愛のない世界へ行くだろう。体を大切にしないならば次は不健康に生まれるだろう。母を恨むならば次の人生は娘に恨まれるだろう」
「何が、言いたいのよ」
ようやく口を開いた少女の首のところまで水は来ていた。
ギリアンはしゃがみこみ、少女と同じ目線でこう言った。
「あと十年がいやなら、あと一年生きなさい。あと一年生きて、誰かに優しくしなさい」
「誰も、誰も私に優しくしてくれなかったわ。なんで私ばかり!」
ギリアンはやっと挑発に乗ってくれたことに少し安堵した。
「ならば生きて復讐するべきだ。君の命が消えることなんて、君のお母さんはマッチが燃え尽きたくらいにしか思わないんだろう?」
「……うん」
「いいか。このまま死ぬと、君は母を恨み、体を粗末にし、愛を知らずに、どの試練にも勝つことなく、もっと苦しい生へと生まれるだろう。わかるか?」
少女は泣きそうな顔をした。
「生きるんだ。生きてさえいればいい。誰も愛してくれなくても生きるんだ。誰も必要としてくれなくても生きるんだ。体を売ってでも、踏まれたパンを食べるでも、他人に笑われても、生きるんだ。死にたくないだろう、もっと苦しくなりたくないだろう。君がそれでも死ぬと言うならもう止めないが、本当に死にたいのか」
女の子はやっと首を左右に振った。
かなり強引な手を使ったのだとわかっているが、別に強制したわけでも脅したわけでもない。そうなると言っただけだ。苦しい生があることも説明した。
「なんで私ばかり……」
少女はぽつりとそうこぼした。
「みんな、私はもっと苦労してるって言うわ。あんたもそう言いたげね。でも私は、それでも愛されないことが痛いよ。痛くて死んだほうがマシって思うくらいには」
ギリアンは少女を抱き上げた。水は自分の腰近くまであった。
「毒のパンを食わされて死ぬネズミよりマシな死に方だと言われて納得する奴なんているわけがない。あいつよりは愛されてるからマシだなんて、馬鹿馬鹿しいよ。ねえ君、名前も知らないお嬢さん。君が辛かったことをまだ一つか二つしか知らない。もっともっと、教えてくれないか。その悲しみを分けてほしい。そして少しだけ希望を持って、生きてほしい。君が悲観している世界はそこまで冷たくないはずだよ」
水が腰まで満ちていた。彼女は悲しみで肺がいっぱいになっていた。
「望まれてないと知ったのは、3歳のときだった」
とつとつと話しだす少女の悲しみのストーリー。悲しみの水に浸りながら、彼女の報われなさに耳を傾けた。
***
自分の魂の尾が人より長いことを知ったのは物心ついたときだ。
生命線は手首を三周していた。
自分が望めば相手の命が長引くことを知ったのは飼っていた親の老犬が死にそうになったとき。
ギリアンは魂の尾を少しばかり使って、時にたくさん使い、小さく消えていきそうな命を救っていた。
見返りは期待しなかった。感謝さえも。
魂の尾はしばらくすれば元の長さに戻るし、痛みもない。
川べりで見つけた少女の命をつなぎ、病院へと運んだ。
ほぼ溺死しているだろうと思った少女の命を救ったことを見ていた人々は何を考えたのだろう。
「奇跡だ」と誰かが呟いた。
そんなわけあるか。これはただのお説教モードと脅しで繋いだ命であって、そんな美しい幻想ではない。
そんな美しい、理想的な人間ではない。
「人助け病め」
親友のブラッドリーは一言、ギリアンが病院から出てきたときにそう言った。
彼は眉をきりきりと上げて、腕を組んでいる。口はへの字に曲がっている。
ご立腹だ。一瞬でわかる。
「ブラッドリー」
「言い訳は聞かないぞ、ギリアン」
ブラッドリーはしわくちゃになった広告をギリアンに見せた。
「今日、お前は俺といっしょにこのバーゲンで小麦粉を買う約束だっただろ!」
「本当にすまない」
「許さねえ。知らない女の子の命と引き換えに俺を飢えさせるなんて」
むちゃくちゃな言い分だと思ったが、それでも女の子が助かったのだからいいじゃないかと言えば、ブラッドリーはそれがいけないとばかりに睨みつけてきた。
「あの子の命が尽きたとてお前は困らない」
「そうだな」
「それなのに魂を削るのはマゾのやることだ」
「そうだな」
「あの子はすぐに死ぬよ。お前の思いやりなんて無駄にしてさ」
「そうだな」
たぶんそうだろう。
「だからって放っておくのは違う。傍観者だけが生き残る未来は嫌だ」
ブラッドリーは缶コーヒーを買いながら、こっちを見て「そうかい」と言った。それ以上何も言わなかった。
それから遅まきに小麦粉を売ってるスーパーへと向かった。
かろうじて二袋売ってた小麦粉を買って、ブラッドリーと一袋ずつわけて家に持って帰った。
ギリアンはこれまでも、助けてくださいと言われたら助けた。
出来ることはしよう。そのくらいの気軽な気持ちで。
それで繋いだ命を無駄にするも有効に使うも相手の勝手だくらいの気持ちで魂の尾を分けた。
無駄になることはまったく腹が立たなかったし、100あるうちの1、無駄でないことがあればいい。それくらいのゆるっとした気持ちでいたのだ。
あの少女を助けたその日から、人助けの数が増えた。
病にかかってる、交通事故で、道端で心ない事件にあったなど……死にそうになるたびに呼ばれた。病院からも要請がくることがあるくらいだった。
ギリアンはそのたび報酬を貰うのを断った。報酬をもらったら仕事にしなくてはいけないから。あの人からもこの人からも貰う羽目になるから。失敗したとき返せと言われるし、欲にまみれるのは好きではなかった。
青空の中を突き進む。足元でしゃくしゃくと鳴る死骸を踏む音にも耳が慣れた。
濃密な死の霧の中を進む。このまま進めば自分も帰れなくなるかもしれないと思うギリギリのところまで。
標的の扉を発見した。
ギリアンは腰に据えた銀のウォーハンマーを構える。
扉に一発ぶち当てる。続けて二発。最近では三発で破壊するのに慣れていた。
ぱらぱらと石くずがこぼれる扉をくぐると、その向こうに居たのは女だった。
「あんたがシェーラーさんか?」
「そうだよ。あんたが噂の結魂師さん?」
女は死ぬ寸前とは思えないほど腰が据わっている気がした。
石の椅子の上に悠然と足を組み、腕を組んでこちらに微笑んでいる。
若い女ではなかった。四十近いかもしれない。自ら死んだという感じではない。
それもそのはずだ。彼女は自分と同じ治癒師の一人。人の傷を癒やし続けてきた女性だ。
ある日皮膚病に侵され、命が尽きそうなところを今まで恩のある人たちから助けてほしいとギリアンに要請があったのだ。
「自ら結魂師と名乗るなんて傲慢ね」
「気に入らないならギリアンと呼べばいい。自分の能力や立場を説明するのに便宜上名前が必要な場合だってあるのさ」
知っているだろう? そう首を傾げる。女は「そうね」と小さく呟く。
「私綺麗でしょう? 皮膚病になる前はこうだった」
「包帯でぐるぐるだったからよく知らないが、たしかに綺麗かもな」
「少しは褒めなさいよ。女性は褒めると美しくなるのよ」
ギリアンはこの女は褒めてほしいのだろうかと考えた。しかしそうも見えない。
「ギリアンと言ったかしら? あんたは私の魂を肉体につなぎに来た。そうよね?」
「大まかにはそんな流れだ」
「生憎だけど私は元の肉体に戻る気はないわ」
「それでも僕は全然構わないのだけれど。ただ君を救ってほしいと言っている人たちに頼まれてね」
「いくらで?」
「金はもらってない」
「命を削ってお金さえもらってないの? 馬鹿みたい」
女は鼻で笑った。何がおかしいのかギリアンにはわからなかった。
「良いこと、死ぬ前に教えておいてあげる。あんたの命を潰すことなんて、あいつらマッチが燃え尽きるのと同じくらい何も感じないわ」
「は?」
「あんたが命を削って助けたら感謝してくれるでしょうよ。だから何? あんたの命が尽きてもあいつら感謝しかしないわよ? 自分たちのせいだとも思わずに」
「僕がやったことで死んだなら僕のせいだろう?」
何がおかしいとばかりにギリアンがそう言うと、女は笑った。
「私が皮膚病になった理由。自分の再生力を人に使い過ぎたからよ。あんたもその力を過信しているといずれ死神がやってくるわ」
ギリアンは女が自分のために忠告しているのだと知った。
「そろそろ行くわね」
女の足元に階段が現れる。駆け寄って捕まえようとしたが、女は軽やかに常世の階段を駆け上がった。
ここから先は死の領域だ。
ギリアンは女が天上の世界の天使たちにあたたかく迎えられるのを見た。
光の中に溶けていく霊体――残った魂が舞い上がって天使たちに連れられていく。
目が覚めたとき、自分が彼女の傍らのベッドでなく、病室のベッドで寝ていることに気づいた。
「気付きましたか」
看護婦が水と体温計を持ってきた。
「平熱。脈拍も血圧も正常ね」
「シェーラーさんは亡くなりましたか?」
「ええ。残念ですけど」
あっさりそう言った看護婦が事務的に処理しているわけではないことはわかっているつもりだ。
それでもその声はなにか感情を隠している気がした。
「依頼人の方々はどうでしたか?」
「知りません。みんな亡くなったと知ったら帰ったみたいで」
看護婦の声には嫌悪が滲んでいた。
「何かありましたか?」
「知りたいならば主治医にご確認ください」
何のことだかわからず、看護婦に言われるままに立ち上がった。
立ち上がったところで、自分の額に包帯が巻いてあることに気づく。
「これは?」
「殴られた跡ですよ。依頼者の方々に」
「殴られた? 僕がですか」
「ええ、そうです。死ぬとわかってる人を助けると言って治療を邪魔した挙句、あなたが助けられなかったことを知って寝ているあなたを花瓶で殴ったんです。お分かりですか? この意味」
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
看護婦は呆れたようにかぶりを振った。
「人助け、私も好きですよ。でもギリアンさん、一つだけ覚えておいてください。あなたは死にかけたんです。頭蓋骨にヒビが入ってたら日常生活を送るのだって困難になってたかもしれない」
看護婦は一呼吸置いてから言った。
「私たちだって、医療を交代交代でやってるんです。それを一人でやったら壊れるのがわかってるから。それを重々考えてから今後の方針を決めてくださいね」
つまり辞めたほうがいいと言っているのだろう。
病院代を支払うにも手持ちの金がなかったものだから、ブラッドリーに金を借りることにした。
ブラッドリーは必要な手続きをして、一時的に金を貸してくれたが、今後こんな馬鹿な真似絶対にするなと言い、すこぶる腹を立てた。
「食欲がないな。レタスがしおれてやがる」
退院後にギリアンがあまり食べてないことにブラッドリーは目ざとく気づいた。
「食事も喉を通らないくらいなら人助けなんて辞めちまえよ」
「それとこれは関係ないだろ」
「関係あるだろ。あーんしろよ、ほらほら食え」
ブラッドリーのポケットに入ってたチョコレートバーを突きつけられ、心配されてるとわかっていても煩わしさを感じた。
「自分で食べれる。病人扱いするな」
「本当にわかってんの? おたく、このままじゃ骨と皮になっちゃうよ」
「まだ贅肉がある」
「お前のそれは贅肉のうちに入らない。贅肉があるって言うなら俺とバスケしようぜ、高校の時いっしょにやってただろ」
ドリブルする真似をするブラッドリーに誘われて、ボールを探したが、空気がすっかり抜けて弾みが悪かったのでバスケットボールをするのはやめにした。
その時、携帯が鳴った。
ブラッドリーはそのコールを聞くと同時に携帯に飛びつく。
それはお前の携帯でなく、自分の携帯なのだが。ギリアンはそう言いたかった。
「あんたにラブコールする奴ら多すぎ。だけどもうお前らとの縁は切れたもんね」
ブラッドリーはそう言うと携帯の電源をオフにしてゴミ箱へと携帯を捨てた。
何度もそれは自分の携帯なのだがとギリアンは言いたかった。
「なあ、今度釣りにいっしょに――」
リィイイイイイイイン
ブラッドリーの言葉をかき消すように今度は電話が鳴った。
「出るなよ?」
ブラッドリーに睨まれてその日は電話に出ることができなかった。
ブラッドリーに隠れて人助けをするなんて真似はしたくなかった。
そんなやましい人助けはしたくなかった。
それでもたまにわざわざ自宅を訪ねてくるような困窮している人がいた。
仕方なく話を聞き、場合によっては助けた。
たいていの場合は困ってる人なので、ほとんどの場合を助けた。
だんだん時間が足りなくなってきた。休む間を惜しんで助け続けた。
心の扉をハンマーで壊す。中から引きずりだして、「生きたい」と言わせる。
いつしか作業になりだしている気がした。いつしか喜びというより習性になった気がした。
ある時ハンマーがぼろぼろなのを見て、何を自分は躍起になっているのだ?
と聞いてみた。
馬鹿馬鹿しい。
ハンマーを振るう手が疲れてきていることに気づいてるのに、ハンマーを意志だけで握り続けてるのだから。
馬鹿馬鹿しい。
ハンマーで人の心をこじあける意味の無意味さに気づいてても、まだこんなことをしている。
だけど今更止まることなどできなかった。
ある日の朝、目が覚めたら自分の部屋に一人の老人がいた。
「誰だ?」
それが人間という感じがしなくて、ギリアンはそう聞いた。
「誰だと思う?」
黒服に白いひげを蓄えた老人は、死神のように見えた。
「帰れ」
「ならばもっと覇気のある声で追い払うことだな」
「帰れ!」
老人は白い霧になって散っていった。
死の臭いがして、ギリアンは窓を開けた。太陽の光を入れて、風呂に向かった。
のちに老害と呼ぶ架空の存在が現れたのはこの時だった。
老害は幾度となく顔を表した。
「帰れ」と叫べば帰ったし、また現れるを繰り返した。
そのたび死ぬ臭いがした。
あいつは死神なのだろう。ここまで自分の命をとりに来たのかもしれない。
もしくは死せる地へ来るなと警告に来たのかもしれない。
目的は定かでなかったが、ギリアンは徹底的に無視し続けた。
その間も人助けの電話は入った。
ギリアンは畑を耕す手を止めてそのたび出かけた。野菜を放置して人を助けにいった。
帰ってきたときに野菜が元気でないのを見ても、もう魂の尾を使えるほど尾は残ってなかった。
ふいに後ろをに気配を感じて振り返ると、そこに老害がいた。
「またか」
「君は死ぬとわかっていてその行為を続け続けるつもりかい?」
「お前は悪魔なのか。それとも死神なのか」
「私の存在が低次か高次かなど気にしてはいけないよ。私の正体より大切なのは、君の心だ。君はもう終わりにしたいと思いながらハンマーを振るっている。馬鹿馬鹿しいと思いながらハンマーで壊してる。そのまま死ぬまで人助けをして、最後はどうなるのだろう」
老害の静かに諭すような口調。こいつ自分の持っていくべき命をとられてこちらに警告に来たのか。
「死ぬかもしれない」
「死にたいのか」
死にたくないに決まってる。
生きる気満々だし、死ぬ気なんてない。
「生き残るよ。どんなことをしても」
「だが君の魂の尾はこんなに短くなりだしてるよ。回復が間に合ってない」
老害はその細い指で魂の尾に触れようとした。それを思わず、ウォーハンマーで振るって牽制する。
「君のハンマーが折れるか、君の魂が尽きるかどっちが先だろうね」
ウォーハンマーを伝って降りてくる気配は、確実に死ぬぞと脅すように、生命から遠い饐えた香りがした。
目が覚めた。
寝ている間もずっと鳴り止まないベルの音で、浅い眠りになっていた。
リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン
、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン、リィィイイイイイン
……
受話器を持ち上げて、切ってしてもまたすぐにかかってくる。
だんだん疲れてきて、そのまま受話器に出てしまった。
「助けてください」
切迫した声に、疲労を感じた。
「うるせーな!」
近所に住んでるブラッドリーが窓から怒鳴ってきた。悪いとは思うが、自分のせいではない。
「ギリアン、電話を売れ。どこか遠くへ捨てちまえよ。そして二度と誰とも繋ぐな、買うな。ひきこもれ」
「そうするかな……」
ちょっと最近疲れだしている。鳴り響く電話はひとつひとつは小さくても、量が量なだけに、魂の尾の前に自分の精神が疲労してしまいそうだった。
「お前に電話かけてくる奴一人一人におたくの大切な人が死にますようにって言ってやりたい」
ブラッドリーの呪いの言葉はいつだって鈍く攻撃的だった。
「ついでにお前にも死んでしまえと言いたい。そしたら静かになる」
ブラッドリーの煙草の煙が、窓の外で登っている。窓ごしにギリアンはブラッドリーの表情を見た。
「馬鹿、死ね」
そう言って顔をしかめたブラッドリーの眉間には苦悩のシワが刻まれていた。
「後味が悪いから生かしたいだけだろ」
違う。違う。違う。違う。
こんなはずじゃなかったし、後味の悪さからやってたらとっくの昔に終わりにしていた。今でもああしなければよかったなんて、思っちゃいない。
ただこの言葉は辛かった。
「お前の大切な大切な患者さんたちみんな死んじまえ」
ブラッドリーの呪いの言葉が痛かった。
「今度の仕事を最後にするよ」
そう約束した。
「信じてないよ。お前は引きずられる」
ブラッドリーは信じちゃくれなかった。ギリアンもそうだろうと思ったが、それでも最後だと言おうと思った。決めようとした。心が傷んでも無視しようと決めた。
これで最後の仕事です。絶対に引き受けません。
そう言ったはずなのに翌日には電話が鳴った。たくさん鳴った。
ギリアンは電話を壁にたたきつけて肩で息をした。
「神よ。私は何を間違ったのでしょう」
自分の魂の尾はあともう少しだというのに、電話を壊しても携帯が鳴った。携帯を壊したら安心できたわけじゃなかった。
いつか人が訪問してくるのでないかと怖かった。すごく怯えながら過ごした。
薄情だと言われてもいい、自分の身を守っていいのだと言い聞かせた。
「お前の愛は奪ってるのだよ。それは生かしてるのではない、死に損なったのだ」
耳障りな老害の声に相手の姿を探す。遂に殺しにきたのでないかと警戒した。
「意味がわからない。悪魔よ去れ。お前の言葉など私は聞きたくない」
「愚か者よ。お前は善良さの前にすべての人間はひれ伏すと思っている愚かな善人だ。愚善に酔いしれる愚か者だ」
「ならば愚善のまま死のう。未熟な魂だったとお前に笑われながら」
「そうか。死ぬというなら死ねばいい、私はお前を愚かだと笑うだろう」
「笑えばいい」
聞きたくない、聞きたくない。
自分が愚かだと言われても、今何も聞きたくない。何もしたくない。
畑を耕すこともしたくない。人の目に触れたくない。食べたくない、眠りたい。誰の声も聞こえないくらいぐっすりと。
こんこんと扉を叩く音がした。
外で救ってほしいという声がする。
助けて。助けて。
助けてほしいのはこっちのほうだ。
もうウォーハンマーを握るつもりはない。人の心を開くつもりもない。
助けて。助けて。
ギリアンはもう一度扉を開けて、無理なのだと説明した。
もう、もう、もう無理なのだと説明した。
「あの人は助けてもらえたのに」と罵られて、冷たい奴だと言われた。
あっさり引き返した人々たちの悲しみを考えると何も言えず、扉を閉めて涙がこぼれた。
自分が招いたことだとわかっていても悲しかった。
また、こんこんと扉をノックする音がして
「助けてください」と声がした。
扉を開けなかった。ずっと扉を叩く音がした。
どんどん、ドンドンと大きなノックになっていった。
「開けろよ! 人が死にそうなんだぞ。このひとでなし!」
男の声でそう怒鳴られた。
耳を塞いで無視した。
「お前が似非神様だってことは知ってるんだよ! 人の命を救ってヒーローごっこか。ご苦労なこった! それで都合が悪くなったら今度は被害者ヅラか。ふざけんなよ。俺の息子でなく、お前が死ねばいいのに」
耳を塞いだ。怒りに蓋をした。
ドンドン、ドンドン、ドンドン、ドンドン!
ハンマーで心の扉を壊し続けたことは、自分が扉を殴られ続ける形でかえってきた。
ようやく誰もこなくなった。
ブラッドリーも来なくなった。
一人になって、「感謝してほしかったわけじゃない」と独白した。
神様気取りの似非ヒーローと言われて、返す言葉がなかった。神様だなんて言ったことはない。被害者だと言ったつもりもない。
怒りが自分を震えさせるのでない。
悲しみが自分を涙させるのではない。
絶望が自分を閉塞させてるのではない。
人が今でも好きだった。
あの人たち一人一人の大切な人が助かりますようにと今でも祈っている。
それでも生きたかった。
最初から助けるなと言ったブラッドリーの忠告を無視した結果がこれだ。つまり自分はとても馬鹿だったのだ。
最初から、人は死ぬという当たり前なことを説明すればよかった。
それは自分も、大切な誰かも。
当たり前に生きているなんて、そんなことはないと説明すればよかった。
老害が目の前に立っていた。
そろそろ召される時が来たのかもしれない。そう思った。
「よく断ったな。生きててくれて嬉しいよ」
老害の口からそう言葉がこぼれたことに、目を見開いた。
老害はそのまま消えた。
それっきりその老人の霊は姿を現すことはなかった。
ふと時計を見た。
朝の五時。外で鳥の鳴く声がした。
あの老人が死神なのか、悪魔なのか、それとも天使なのか……
今となってはそんなことはわからないが、マッチが消えるほど小さくなった魂の尾を振り返り、最初に「お前の命が消えること、マッチの火が消える程度にしか思ってない」と少女に言ったことを思い出した。
誰もが殺すつもりなんてあるわけがない。
誰もが大切な誰かを守りたいだけだった。
このマッチ程度の魂をずっと小さく燃やし続けようと心に決めた。
生き残ったギリアンの顔に、朝の陽射しが差し込んだ。
心の中で、ずっと愛用していたウォーハンマーの柄を静かに折った。
(了)