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地面に続くタイヤの跡

 

01

 ナオミは暗い道を歩いていた。
  疲れはしていない。しかしタイヤの跡が消えてしまったことに途方に暮れていた。
  遠くで自分を呼ぶ男の声がする。
  ナオミは義父に名前を呼ばれて手を引かれるところで目が覚めた。

 ナオミの人生は運がなかった。
  第一に母親はナオミのことを愛してなかった。
  第二にナオミの父にあたる人は母親の父親、つまりナオミは私生児だった。
  第三にナオミの家は貧乏だった。
  第四。奨学金は母親に奪われた。
  第五。それらの理由である出生の秘密を教えてもらった日、ナオミはカヴァリーノファミリーの前に置き去りにされた。
  ここまでで、カヴァリーノファミリーに売り飛ばされるかバラバラにされるかしてナオミの人生は幕を閉じるはずだった。
  カヴァリーノのボスにあたるファウストは何故かナオミの義父になってくれた。
  さらさらと書類にサインをして、「今日から俺の娘だから」と言った。
  そしてナオミに「お父さんと呼べ」とは命令しなかった。
  体を求められるのかと警戒したが、それも特にする様子もなかった。
  今に至るまでファウストの真意はわからないままだ。
  1つわかっていること。それはナオミは若きボスであるファウストの書類上の娘として、比較的手厚い歓迎を受けたということだけ。

 ナオミはクローゼットを開けた。
  そこにはファウストがナオミのために揃えてくれた、可愛らしい服がぎっしりと詰まっている。
  今は一人暮らしをしている部屋は、カヴァリーノファミリーの社宅の1つだが、ナオミのために古きリチェルカヴェーラ様式のインテリアで飾られている。
  薄いストロベリーブロンドの髪を梳き、ナオミはファウストが自分のために用意してくれた服の中から、クラシックなワンピースを選ぶ。
  まるでビスクドールのような愛らしい衣装は正直そんなに好みではなかった。しかし贅沢を言える立場でもなかった。
  ふんわりと傘のように広がるお嬢様服を着ると、同じく人形用かと思うようなエナメルの靴を履く。
  勉強道具が一式入っている鞄だけはお嬢様のようなデザインではなかったが、むしろ安心するくらいだ。
  それを持って外に出ると、迎えにきていた黒髪の少年が退屈そうにクラクションを鳴らした。
「あと10秒で乗ること、置いていくよ」
  ナオミは鍵を閉めて、左側の助手席に座ると、シートベルトを装着した。
「篠田くん、ごめんなさい。遅くなりました」
「あーもう退屈だったなあ。退屈だったなあ」
  篠田はそう言いながら、車を出す。
  篠田葵はナオミと同じ今年16歳だ。
  今日は運転免許をとったばかりの篠田のドライブに付き合うはめになる。
「ナオミも早く車の免許とりなよ」
「わかりました。取ります」
「そうだよ取りなよ。そしたら運転交代できるし」
  そう言いながら楽しそうに運転している篠田を横目に、ナオミは車の外を眺める。
  いつもはファウストの側近であるヤルノが迎えにくるのだが、今日はファウストのお気に入りの部下にあたる篠田が迎えにきた。
  理由は説明するまでもなく、車を運転したいからだろう。
  篠田の父親はカヴァリーノファミリーの重役だと聞く。当然篠田もマフィアの家系に生まれたからには、自分で進路なんて選択できるわけもないのだろう。
  本人がそれをよしとしているかはさておき、大抵リチェルカヴェーラ国ではマフィアの子供はマフィアの運命から逃れることはできない。
  白い花が咲き乱れる高原が車の窓から見える。
「あれなんですか?」
「エーデルワイスじゃないの?」
「咲くんですか!?」
「知らないよ、花の名前なんて」
  いい加減なことを言った篠田がハンドルを乱暴に切る。
  カヴァリーノの格子扉が開き、中に車ごと入る。
  大きな洋館の前で車は止まった。
  ナオミと篠田は外に出る。
  本館と離れの真ん中にある、プールではファウストの愛人らしき女性たちが楽しそうに遊んでいる。
「ファウストってどうやったらあんなにたくさんの女の人に嫌われずに同時に愛されるんだろうね」
  篠田はぼそっと「僕は嫌われてばかりだ」とぼやいて、ナオミといっしょに離れに入る。
  そこには篠田のオフィスになるはずの部屋がある。
  篠田とナオミはそこで勉強道具を広げる。
  篠田は税金関係の法律と、マフィアの幹部が覚えるべき様々なしきたりを覚えなければいけない。
  ナオミはそれに比べれば簡単なほうだ。一般のマフィアの兵隊が覚えるべき内容と、秘書が覚えるべき内容をまとめたものをひたすら頭に入れるだけなのだから。
  この内容から察するに、篠田は幹部にやがてなるのだろう。
  そしてナオミは篠田の秘書にさせられるのかもしれない。
  自分の立ち位置とはなんだろう。ナオミよりも篠田のほうがよっぽどファウストに愛されているし、本物の子供のように扱ってもらっている。
「ナオミ、喉渇いたから水とって」
  篠田は顎でナオミを使う。ナオミは蛇口をひねってコップに水をそそぎ、篠田に渡す。
  篠田はそれを飲みながら、走り書きのようなものを何度もしながら冊子の内容を唇でつぶやき、指でなぞる。
「篠田くん、ひとりごと多いほうですか?」
「呟くほうが覚えるんだよ。視覚と聴覚で覚えるから」
  篠田はそうとだけ言って、また冊子の内容をなぞるように唇を動かす。
  ナオミと篠田の付き合いは浅い。ほんの数ヶ月といってもいい。
  篠田以外に10代の若者をこのファミリーではあまり見かけない。というのも、ほとんどはロッチアブーケのビルのほうが運営本部になっているようで、こちらには幹部少数と、ファウストの身の回りの世話をする者くらいしかいないようだ。
  ナオミは篠田の小奇麗な顔が好きだ。
  あと生意気な悪態はたまにうんざりもするが、彼らしいと感じる。
  ところが篠田は田舎が嫌いだ。おそらく、ナオミのことも好きではない。
  ファウストに彼がわがままを言ったらしい。
「コロラヴィはダサい女の子ばっかりだから行きたくない。嫌だ」と。
  そうしたらおめかしさせられた養女が迎えられた。そう篠田は思っているようで、ナオミのことをどう扱えばいいのかわからないようだ。
  正直ナオミのほうも篠田をどう扱えばいいのかわからない。
  今に至るまでぎくしゃくしている。もう三ヶ月経とうとしているのに。

 

 休み時間になった。
  篠田はボールペンを投げ出し、ソファに寝転がる。
  ナオミはこの自宅でくつろぐかのようなふるまいが羨ましいと感じる。
  書類上ここはナオミの実家にもなるわけだが、ファウストは不在の日も多いし、ファウストの愛人たちが遊んでいるだけの実家に、拾ってきた猫のようなナオミは不似合いな気がした。
「篠田くん、ファウストは今日どこへ?」
「知らないよ。どっかでしょ」
  ナオミにとっては知り合いはほとんどいない。
  彼いわく、どこかにいるらしい彼女の養父を探すのはやめにした。
「そんなことより、僕に面白い話をしてよ。休み時間なんだし」
  篠田のむちゃくちゃな言葉に、ナオミは面白い話を一生懸命考える。
「タイヤの跡を一生懸命追いかけるんです。夢の中で、何度も何度も」
「なにそれ」
  篠田は顔をこちらに向けた。
「私の夢です。お母さんの車がドヴァーラに帰ったあとの、車の跡を一生懸命追いかけるんです。途中で車の跡がどこかにたどりつく前に」
「なにそれ、怖い話?」
  篠田が怪訝に眉をひそめた。
「ファウストに後ろから手を引かれて、カヴァリーノファミリーに帰るだけの夢ですね」
「なにそれ。震撼とする怖さだな」
  言ってる意味がわからない。ファウストがマフィアのボスだから怖いという意味だろうか。
「ファウストが背後から抱きつくなんて」
「違います。後ろから手をひくんです」
「どっちも似たようなものだ。おーこわ、養女に何をしようとしているんだか」
「ただの夢ですよ。しかも私のです」
  何か言いがかりをつける前にナオミは誤解を解く必要を感じてそう言った。
  篠田は「その話、続きはあるの?」と聞いてきた。
「ありませんよ」
「つまんない」
  篠田は心底つまらなさそうに言うと、ごろんと天井を見上げるように仰向けになった。
「あの天井のシミと同じくらいつまらない話だった」
「意味がわかりません。どういう意味ですか?」
「聞き返さないでよ。それくらいつまらないって意味だ」
  篠田との会話はそこで終わった。
  ナオミはテキストに目を落とす。
「篠田くんはどんな夢を見るんですか?」
  さり気なく話題をつなぐために聞いた質問に、篠田はしばらく答えなかった。
「僕は夢を見ないようにしている」
  篠田はそう答えた。
  夢を見ないでいるなんてことが出来るなんて器用だな。
  自分は睡眠の質が悪いのか、けっこう夢の内容を正式に覚えてるほうだ。
  ナオミは篠田のことが少し羨ましい。