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見ざる聞かざる言わんの馬鹿

 

02

 ナオミは3月に捨てられた。
  養子縁組の話は4月に入る前にあっさりまとまった。
  4月には学校に行きたいかと聞かれた。ナオミはファウストに借りを作りたくなくて断った。
  かわりに仕事を教えてほしいと言ったら、篠田を紹介された。
  5月になる頃にはファウストがプレゼントしてくれた服や生活雑貨で与えられた部屋がぎっしりになった。
  もうすぐ6月になろうとしている。
  アジアのように雨季があるわけではないが、コロラヴィも海から吹く風があったかくなってきた。
  コロラヴィの段々畑にあるぶどうの蔦が長くなってきた。
  その日、ナオミは養父にこんな目に合わされるとは思っていなかった。

 玄関を開けたら、ダンボールを持った篠田とファウストが入ってきた。
  何事かと思って見ていると、ヤルノがさらに手提げ荷物を持って入ってくる。
「なんですか? これ」
  思わず聞いてしまった。
  ファウストはあらん限りの笑顔を作ってこう言った。
「夏服だよ。そろそろその服暑いだろ?」
  ナオミはその言葉に「うん」と言う前に、篠田の持ってきたダンボール、ファウストの持ってきたダンボール、そしてヤルノが持ってる両方の手提げ袋の数を数えた。全部で5つだ。
「数、足りないか?」
「逆です。こんなにあっても全部着るかどうか……いえ、着ます」
  養父のご厚意を断れるような立場ではなかったことを思い出して、ナオミはすぐに切り替えた。
  ファウストは残念そうに荷物を見下ろした。
「そうか。たしかにクローゼットとタンスには入りきれないかな……」
「だから言ったでしょ」
  ボスに対しても物怖じしない口調で篠田がそう突っ込む。
  ナオミがどうするべきか悩んでいると、しょんぼりした養父は携帯をいじりだした。
  何をするつもりだ? と見ていると、いきなり電話をかける。
「部屋、もうちょっと大きいの探してほしいんだ。ナオ」
  言いかけた瞬間、篠田が携帯を分捕って「間違い電話です」と言って一方的に切った。
「ヤルノ、何かアホなボスに言ってやってよ。いくら新しい娘だからって、次から次に買い与えればいいってもんじゃないって」
「ファウスト、女の子初めてだからなあ。恋人と同じようにやっちゃうんだろう」
  ヤルノは篠田の言うとおりボスを叱ったりはしない。
  ナオミはどうするべきか悩んだようにファウストを見上げた。
  ファウストは篠田を見つめている。篠田もファウストを困った兄を見るような目で見つめている。
「ともかく、ここはなんとか片付けておくから、ファウストは執務に戻ってくれないかな。こんなの雑用にやらせればいいのに」
  篠田の言い分がまったくすぎた。マフィアのボスがやることではない。
  ファウストはナオミをふわっと抱きしめた。
  ナオミは何事かと身をすくめる。
「娘に会いに来る口実が欲しかっただけだよ。今から仕事に戻るけど、ナオミも早くコロラヴィでの生活に慣れてくれよ?」
  ナオミが返事する前に、篠田がナオミの肩を乱暴に引っ張った。
「お父さんに別れを言って。この人、仕事ほっぽってきてるから」
「ありがとうございます。お洋服大切に使わせてもらいますね、お父さん」
  篠田の威圧に負けてファウストにお別れを言うと、ファウストはマフィアのボスらしからぬなさけない表情で寂しそうにハンカチで涙を拭く素振りをしながらヤルノといっしょに車で去っていった。
  残された篠田と、荷物の間に棒立ちする。
「片付けましょうか!」
  ナオミが仕切りなおすようにそう言うと、篠田は勝手に部屋を出て行く。
「ナオミの服や下着なんて触りたくないから、勝手に片付けて。僕はこっちで君の冷蔵庫物色してるから」
  なんてやつだ。そう思いながらダンボールを開ける。
  あちらでは冷蔵庫を開けた音がする。
  ナオミが夏服とおぼしききらびやかなワンピースを仕舞い、かわりにぎっしり詰まっていた春服を取り出していると、あっちで文句を言う声が聞こえる。
  何を言ってるのかよくわからないが、口調から篠田が何か文句言ったのだけはよくわかった。
  タンスとクローゼットの中身を入れ替えなおし、ダンボールに詰めなおした春服を物置のほうに押していって詰めなおした。
  これで冬服がこの調子で増えたら、服だけで物置が埋まってしまいそうだ。
  自分が着の身着のまま、荷物なんてない状態で放り出されてよかったと感じる。私物が入るスペースなどないのだから。
  ふとダイニングを振り返ると、篠田はナオミが大好きなビスコッティグランマ印の干しぶどう入りビスコッティを齧っている。
  視線があった。
「お茶入れましょうか? 水じゃ味気ないでしょう」
「水好きだから、一人分いれなよ。自分の好きなお茶でも」
  ナオミはお湯をやかんで沸かし、紅茶をいれた。
  ぶどうジュースで割って、氷を入れて二人分出した。
  篠田は出された紅茶は文句を言わずに飲んだ。お礼も言わなかったが。
「ナオミの家、冷蔵庫にビスコッティが入ってた。信じられない」
「湿気がこないんですよ」
「違うよ。ビスコッティしか入ってなかった。信じられない」
「でもビスコッティしかないんです。信じてください」
「そういう意味じゃない。信じられないってのは、何食べて生きてるんだよって話だよ。これだけ齧ってるの? 料理苦手なの?」
「あまり……お腹すかないから」
  突然、篠田ががたんと拳でテーブルを叩いた。ナオミはびくっとする。
「干しぶどうに含まれたミネラル分、ビタミン、卵、小麦粉、バター、砂糖、ココア……非常食ならばっちりだね。これだけ齧ってて第二次世界大戦のときコロラヴィは生き延びたなんて話も聞かなくはない。だけど、今は冷戦も終わってるんだよ? 今時ソ連崩壊みたいな冷蔵庫、ひどいや」
「篠田くんお腹すいてたんですよね。すみません、気付かなくて」
「違うよ! って言いたいけど、そうだよ! 僕はこの家に住めないな。ぶどうジュースとビスコッティしかないんだもの」
  篠田の空腹の訴えに首をこくりこくり頷きながら、ナオミはすぐに財布の入った鞄をとりにいった。
「何か買ってきます。作るまで待てますか?」
「待てないよ! 今すぐナオミを連れてどこか食べに行くからね」
  篠田は立ち上がると、ナオミの手を引っ張って部屋の外に連れだした。
  ところがどうしたことだろう。篠田は今日、ファウストの車にのって来たのだ。
  ナオミの家からコロラヴィの街までかなりの距離がある。
  さらに、ファウストの家や、スーパーにも距離がある。
「わ、私。ちょっとお隣まで小麦粉と卵借りてきます。もしもらえるようなら牛乳と砂糖も」
「ナオミ、この家引っ越そう」
「何言ってるんですか。ここはファウストの家まで歩いていけるんですよ。立地最高です」
「こんなど田舎で車もない状態でコロラヴィから離れたところで暮らすなんて絶対やばい。しかも冷蔵庫にはビスコッティとぶどうジュースだけだ。!? どこから手に入れた?」
「ファウストの冷蔵庫から失敬しました」
「ってことはあいつ、服はこんなに買い与えておいて食べ物はビスコッティとぶどうジュースさえ与えなかったってことか。ふざけんな!」
  篠田の怒りは頂点だ。
  ナオミを振り返って、篠田は言った。
「なんで服がいらないって言えないわけ? なんで食べ物ほしいって言えないの? あいつがこんなにブランドの服買うお金で、ナオミの車だって食料だって買えるんだよ。なんで!?」
「う……すみません。やっぱり失敬する前に言うべきでした」
「当たり前でしょ。倉庫からぶどうジュースとビスコッティだけ盗んでひもじいって言えないのはおかしいよ。おかしい! ちょっとナオミ、携帯くらいあるでしょ。あんたの父親失格に電話するんだ、すぐに迎えをよこすように言うんだ!」

 

 結局、ヤルノがすぐに車で迎えにきてくれた。
  篠田の怒りの剣幕の理由がもっともだと思ったらしく、ヤルノがすぐにふもとのスーパーまで連れて行ってくれた。
  好きなだけ食料を買えと言われて、遠慮がちに最低限のものをカートにいれようとしたら、篠田がどんどんカートに入れた。
  そのあとコロラヴィで美味しい串焼きを出してくれる店を見つけて、そこで羊肉のスブラキを食べた。
  買ったものを持って帰り、冷蔵庫に詰めた。
  篠田はナオミの電話を勝手にいじっていたが、見ないようにして冷蔵庫にいろいろ先に詰めなおした。
  篠田が携帯電話をナオミに渡した。
「僕の番号登録しといたから、ヤルノが捕まらなかったらアホの父親に電話しなくてもいい、僕にかけろ」
「車まわしてくれるんですか?」
「当たり前。こんなの虐待だ、ひどい父親に拾われたもんだね」
「そんなことないですよ。私の最初のお父さんなんて……」
「知りたくないな! 君が父親から暴力受けてようがレイプされてようが知ったこっちゃないね。僕はファウストのこの放置だって虐待だと思うよ。うっかりしてたにしろ虐待だ! ともかくすぐに呼ぶんだよ、遠慮せずにすぐ呼ぶんだ。呼ばなかったらどうするかわかってるか? 君を僕の家に住まわせて、家政婦のように美味しい料理作らせて太らせてやる。ガリガリぺったんこ女!」
  心配されてるのかけなされてるのかよくわからない叱りを受けて、ナオミは「わかりました」と言った。
  ヤルノは篠田に「送るよ」と言った。
  篠田は黙って車に乗った。ヤルノはナオミを振り返った。
「ファウストはうっかりしてたが、食べ物を欲しいと言えばすぐになんとかしたはずだ。ナオミ、あなたはファウストの娘なのだから、遠慮せずに困ったら言いなさい。私も察せることばかりではないからね」
  車がエンジンの音を立てて、去っていく。
  ナオミはものすごい剣幕で怒った篠田が何を怒っているのかよくわからなかった。
  聞きたかったけれど、物凄く怒られそうな気がしたから黙ってしまった。
  正直、少し怖いとさえ思った。
  彼のおかげで冷蔵庫にはぎっしり食べ物が詰まっている。
  お昼にはビスコッティ以外のものを久しぶりに食べた。
  お腹がきゅっとしたので、悪くなる前に魚をさばいて調理することにした。
  コロラヴィの漁港でとれた小魚にころもをつけてフライにした。
  上からマヨネーズをかけて、丸太パンのスライスではさんでもぐもぐと食べた。
  美味しかった。
  電話がしばらくして鳴った。AOIとあったので、篠田のことだとわかり、電話をとる。
「食べてる?」
  声から不機嫌がわかる。
「今食べました」
「何食べた?」
「小魚をフライにして、マヨネーズかけて丸太パンでサンドイッチにしました」
「そう。じゃあ飢えてないこと確認したから切るね」
「あの」
  電話は一方的に切られるかと思った。受話器の向こうで息遣いが聞こえる。
  怒りの鼻息とでも言うべきか。
「何?」
「なんで怒られたんでしょう」
「ナオミを怒ったと思ったの? 怒ったわけじゃないよ。ちょっと声が大きくなったのは、ファウストに怒ったんだ。女の子は人形じゃないから、ばくばく食べてぶくぶく太って、贅肉の心配しながら美味しいもの食べるのが世の常なのに、よりによってファウストの娘がこんな扱いってある?」
「……。でも、言いづらいです。言わなかったのは私が悪かったと思いますが」
「まったくだね。ビスコッティが切れる前にわかってよかったよ。明日はナオミの家まで食べに行くから、何か作ってよ。怒りすぎて僕はよくわからない謎の空腹だ。食べても食べても、お腹が空くよ。明日何か作ってよ」
「わかりました」
「ナオミの分も作るんだよ?」
「わかってます」
「僕が君を怒ったって思ったんだ。僕が怖いの?」
  ナオミはそうだとは言えずに押し黙った。
「嫌われるのは慣れてるよ。ところでナオミ、僕も質問あるよ。お腹がすいても言えなかったのは貰われっ子だったと仮定したとして、君の元親がめちゃくちゃな親だったとして、なんで僕が怒ったかわからなかったの?」
  ナオミは答えられずに黙った。
「なんで?」
  篠田の語調は不機嫌そのものだった。何か怒らせてるのはわかったが、どう言えばいいのかわからない。
「私はそもそも……」
  ナオミはそこでいったん言葉を飲み込んだ。
  どう言おうか考えてるうちに、しばらく経った。篠田は五分経っても黙ったまま、受話器を切らずに続きを待っている。
「親が私に何もくれないなんて、当たり前だったんです」
「そう」
  篠田は長い沈黙の答えに、すぐに相槌を打った。
  イライラしたような口調は少しなりをひそめていたが、違う苦々しさが混じった声だった。
「それ普通じゃないよ。親は子供に食べさせなきゃ」
「なんでです?」
「え。だって食べさせるべきでしょ」
「なんでです?」
「子供が働ける法律じゃないからだよ。あと自分で産んだからとか、子供はまだ何も知らないし技術も未熟だし、何より子供を愛してたら食べさせるべきでしょ」
  愛してたら食べさせるべきでしょ。という言葉に答えずにいた。
「愛してなくても食べさせるべきだ」
  篠田は言い直した。
「だから普通じゃない。異常。その親のことはどうでもいいけど、ナオミの扱いは許せないな。ファウストのうっかりもね」
  篠田の声は何かを押し殺すような感じだった。
「僕は君の今の『なぜ』を許さないよ。君はリチェルカヴェーラの法律が君に食べるなと言ったところで、ローマ法王が食べるなと言おうと、伝説の魔女が食べるなと言おうと、貪欲に生きることに執着するべき」
  篠田は少し沈黙して、さらに言い直した。
「べきって言うのはちょっと違うな。そこは四の五の考えずに、生きるもんでしょ。盗んだって、脅したって、殺したってさ」
  物騒な単語が出てきたなと思っていると、篠田はため息をついた。
「僕はナオミにがっかりしたわけじゃないよ。でもナオミの言葉にはがっかりだな、君に生きててもらいたかったからね」
  電話はそれで一方的に切れた。
  言ってる意味がよくわからなかった。というより、少し信じがたかった。
  自分に死ねと言う人はいても、生きててほしいと言う人がまずいなかった15年だった。
  たった三ヶ月知り合いだっただけの、裕福そうな将来も約束された少年が、何を自分の命ごときでボスに怒ってるのかもわからなかった。
  がっかりした理由もにわかに信じがたかった。
  自分に失望したのならわかるが、生きててほしいから今の言葉にはがっかりだと言われた意味が、わかるが、信じがたかった。
  信じがたかったが、嘘だと思っても、否定しがたい響きだった。
  どんなにそんな奴いるわけないじゃないかと思ったところで、強烈に胸の奥まで響いた。
  ナオミは思わず、受話器を充電装置に戻した。
「ダメだ。篠田くんに依存しちゃだめ」
  自分に言い聞かせるように呟いた。
  依存させてくれる相手も今までいなかったし、依存したこともなかったので、どこかで篠田に笑われてるような気さえした。
  少し優しい言葉をかけただけで、頼ろうとしている自分を笑われた気がして、自分でとても生きていることが恥ずかしくなった。
  恥ずかしくなったが、生きていてほしいという言葉を思い出して、どうすればいいのかわからなくなった。
  考える必要もないことだ。諦めて生きていればおこぼれを貰えると嬉しいのだから、期待してはいけないのだ。
  自分に言い聞かせる。期待してはいけないのだと。
  自分に言い聞かせる。そう意味のない、やさしさのふりをした言葉なのだと。
  言い聞かせても言い聞かせても、生まれて初めて聞いた強烈な彼の怒りとがっかりがはねかえってきた。
  そうして絶望にさした光の矢が、一条の不安の影を、濃く濃く刻んだ。
  ナオミにはその不安の意味がよくわからなかった。
  まず嫌われたくないと思ったことが、今までになかったのだ。