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大変ご立腹の篠田

 

03

 篠田は二ヶ月経った8月にコロラヴィに帰ってきた。
「スクーリングがあるから」と言って実家に戻った篠田は、どこか疲れきった表情のような気がした。
「学校、楽しかったですか?」
  ナオミは楽しくなかったのだろうことを想定して、そう聞いてみた。
  きっと、思ったよりもよくない環境でこんな風につかれているのだろう。
「別に」
  あまり楽しくなかったのだなと思ったら続きがある。
「学校は勝手に辞めさせられてた」
  篠田はそれだけ言って書類に目を落とす。
「二ヶ月、向こうで説得にあたってたんですか?」
「そんなことしてまで学校に通いたいわけじゃないからね。別にいいんだけど」
  うらやましい。ナオミなんて奨学金を奪われた上に卒業した状態で人里離れたマフィアの家の前に捨てられたのだから。
「二ヶ月……そう好きでもない人たちの間を泊まり歩いた。お姉さんも同い年もいたけど、あわよくば出来てしまえという気持ちで寝歩いて、全部捨てたり捨てられたりした。すっきりした」
「すっきり?」
  すっきりというよりがっかりという声だったので、ナオミは聞き返した。
「すっきりしたよ。僕は自分が最低でも、彼女たちが不幸になろうと関係ないけれど、あの両親が僕のせいで不幸になればいいと思うよ。
  不用意に作ってしまった子供がここまで愚かだとは思わなかったって一生尻拭いしていればいい。あの親にたくさん迷惑かけて死んでやる」
  褒められた内容ではなかったが、ナオミは迷惑をかけた瞬間、捨てられると思ってびくびくしながら暮らしていたためか、この「たくさん迷惑かけて死んでやる」という響きがそんな考え方もあるのだなという思考に動いた。

 ファウストが篠田の執務室にやってきた。
「父親から電話がきたよ」とだけ言って、内容は言わずにファウストはへらへら笑っている。
「今日は勉強するのにまったく集中できないな」
「そりゃ葵、二ヶ月食い散らかしたら、若くても疲れるだろ」
  そう言ってファウストは篠田のお向かいにある椅子に腰掛けた。
  ナオミは養父のために、少しだけ椅子をずらし、お向かいを外す。
「この前16歳になったんだよな。獅子座だろ?」
  何が言いたいんだ? そんな表情で篠田がファウストをにらみあげた。
「ナオミは乙女座なんだ」
  篠田にとってまったく興味がわきそうもない話題がさらに続く。
「何人か妊娠してたらどうする気だったの?」
「関係ない」
「関係ないことはにだろ。お前の父親だって、妊娠させたとき、そう好きでもなかったお母さんを責任とって引き取ったくらいだしさ」
  篠田の視線がだからなんだという勢いで憎悪に染まる。
  これはファウストと篠田がどんぱち始めるぞと思って、ナオミは沈黙していた。
「人のこと言えるの? ルクレツィアにナオミのことも報告してないし、ファウストJrにナオミも紹介してないし、プールで愛人囲ってる人が僕を責められるかな?」
  お願いだから喧嘩しないでほしいという思いと、こんなタイミングで聞かされるはめになったファウストの家族事情のことを脇に置いておく。
「俺がよくてお前が悪いってことはないけど、俺が悪いことしてるのとお前が悪いことしてるの関係ないだろ」
  ファウストはそう言って、口を一度開きかけて、閉じた。
「なあ。葵は本当にそういうことを望んでるの?」
「あの父親が苦しめばいい」
「お母さんも悲しむと思うけれど」
「だから?」
「お父さんが言ってたことだけど、学校やめさせられた腹いせ」
「そんなわけないだろっ!! いい加減にしてよ! ふざけるな! 腹いせでこんなことしてたまるか!!」
  執務室に響いた怒声は、怒りよりも報われなさよりも、気が狂いそうだという苦しみが滲んでいる気がした。
  ファウストは「なんで?」と聞き返した。
  篠田は怒りで震える指で自分の上司であるマフィアのボスを、あろうことか指差して、こう言った。
「死ぬことも、苦しむことも、痛いことも怖くない。人を不幸にすることも、自分が不幸になることも、みんな不利益しかなくても、別にいいんだ。
  根暗だねって言われようと間違ってようと別に構うもんか。
  大人たちの都合なんか知るもんか。そっちが勝手にやるっていうなら、一切従うものか。一切だ!」
  ファウストは篠田の両親とは違うのだが、その怒りを受け止めたように見えた。何も言わずにいる。
「『異常者』と言われようと『幼稚』と言われようと構うもんか。
  大人の言う『子供の頃にあるまわりの大人のようにはならないっていう妙な自信はなんだろう』とか、『世間を知らないんだ』って指摘が一切僕や子供の役に立った試しなんてない。
  僕の行動が腹いせだって言うならば、大人も僕たちに謝罪しろ。毎日社会でぶつけられない鬱屈した感情を、絶対に親を否定できない存在にぶつけてすみませんでしたって謝れ!
  一切合切謝れ! 僕が間違ってようが、僕が取り返しのことをしようが、それは僕のものだ。あんたらの間違いじゃない。あんたらに叱られるつもりはない。
  大人が言う『取り返しのつかないような失敗』と子供の言う『大人の無神経な一言』が同じ重さで扱われるようになるまで僕は絶対に謝らない」
  一呼吸おいて、篠田はさらに続ける。
「だいたいなんであんたらに謝らなきゃいけないんだよ。僕が謝るべきなのは避妊しなかった女の子たちにでしょ。あんたらに何を謝れって? 生まれてきてすみませんでしたって言えばいいの?」
  ファウストは、困ったように沈黙した。
「俺は葵の親じゃない。でも、葵の言うような大人の一人として、その言葉は大事にするよ」
  ナオミは黙ったまま、ファウストと篠田のやりとりを見ていた。
「傷つけて悪かった」
  この人は本当にマフィアのボスなのだろうかと思いながら、ナオミが養父を見つめる。
  ファウストはゆっくり言った。
「お前の言うとおりだ。俺や篠田さんは、葵を責めることはできない。葵の言うとおり、謝罪を要求するのもおかしいな。要求したつもりはないけれど。
  それで、俺は何が今からできる? 学校に行けるようにすればいいわけ?」
  篠田は答えなかった。
  ファウストは答えを待たずに続ける。
「学校じゃなくてもいい。葵の文句でなく、本当の望みが聞きたい。よく考えておいてくれ」
  ファウストはそこまで言うと、椅子をひいて出て行った。
  ナオミは扉が閉じるのを見つめて、篠田を振り返る。
「いつだって、叶えてすぐに奪うんだ。受験に合格させて辞めさせるとか、人を好きになったあとに全部切るとか、自由に欲しいものを買わせたあとに勝手に捨てるとか。
  いっそ最初からないほうがマシだよ、何もかも」
  そう言って篠田はふてくされたように頬杖をつく。
  ナオミは最初からほとんどのものがなかったが、何もかも与えられたあとに一瞬で奪われるという苦しみが想像がついたので、自分の苦しみにはふれなかった。
「僕はただ、嫌われたいんだ。それ以上のことなんてないよ」
  ナオミはまだ続く篠田のぼやきに、ぽつりと一言呟いた。
「大人の言う、本当の望みってなんでしょうね」
  篠田は一言分の沈黙をおいて、「なんだろうね」と続けた。
  おそらく篠田もナオミも同じことを考えている。
  叶える気もないくせに。