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夜の港町

 

04

 篠田は学校を辞めさせられてから圧倒的にナオミといっしょに過ごす時間が長くなった。
  こんなつまらない自分と一緒にいて、篠田はつまらなくないだろうか。
  そうは思うものの、何を表現すればいいのか、話せばいいのかさえよくわからない。
  昼間はいっしょに必要な勉強をして、夕方はいっしょに買い物に行き、夜はナオミの家まで車で送り届けてから夕飯を食べて篠田は帰る。
  その間、会話らしい会話がはさまることもあれば、まったく会話しないときもある。
  気まずいムードになっていると思ったことは得にはない。
  しかし篠田は気分にムラがあって、放っておいてほしいときとかまってほしいときがあるようなので、ナオミは自分からアクションを起こす必要はないと思っていた。
  その一方で、ナオミ自身の生活も淡泊なものだった。
  むしろ篠田といっしょにいる時間以外は、何をすればいいのかよくわからなかった。
  ファウストに買ってもらったものだらけの部屋の中に、自分の私物を増やしたらどうだろう。そう篠田に提案されたときでさえ、ナオミは自分のものを増やしたいとはあまり思わなかった。
  もう少し言うならば、何を買いたいのかよくわからなかった。
  生活空間を圧迫するほど物に囲まれていて、ナオミはそれ以上部屋を狭くしたくなかったし、物にもさほど興味はなかったのだ。

 その日、篠田はいっしょに食事をしたあと、もう一度夜のドライブに行かないかと言った。
  季節は9月を越えようとしていたあたりだ。
  ナオミの薄着を見て、篠田は「寒くないの?」と言った。
「せっかくファウストが買ってくれた夏服をしばらく着れないのがもったいなくて」
「来年はまたあいつ別の服買いそうだしね。ナオミはどんな服着たいと思ってるか知らないけれど、あいつは初めて出来た娘に可愛い服着せようと夢中だから」
「すぐに飽きますよ」
「すぐには飽きないと思うよ。あいつは家族志向だから」
  鍵をかけて山を車で降りていく。続いて海辺の道をトロイメラーナ港までだらだらと走った。
  たどりついた港は、観光地だということもあり、居酒屋が活気づいている。
  篠田もナオミも今年から酒を飲んでもいい年だった。
  しかしたった今夕飯をとってきたあとだったので、さほど食べ物には食指が動かなかった。
  篠田もそうだったようで、居酒屋の誘いは断って、そのまま港のほうにいっしょに歩いていった。
  篠田はあまりしゃべらなかった。ナオミも必要以上のことはあまりしゃべらなかった。
  篠田は港の波止場のへりに腰掛け、ナオミもその隣に安全なように足場のあるほうに足を向けて座った。
  海辺のほうに足を向けている篠田と、背中合わせみたいな角度でしばらくだんまりしていた。
「ナオミはよく僕の誘いに付き合ってくれるね。僕は今日ほとんどしゃべってないのに、退屈じゃない?」
  篠田の言葉に、少し黙って、ナオミは口を開いた。
「潮風と、星空と、エンジンの音と、いろいろ見えたり聞こえたりして、けっこう楽しかったですよ」
「あまり楽しくないんじゃないかって思ったよ。だって君は笑ってない」
  楽しいと笑うものだと言われても、ナオミはよくわからない。
  そのかわり、篠田がしゃべりだす。
「だいたい、星空や潮風なんていつもあるものだよ。ここ、田舎だもの」
「私は都会のごみごみしたところでこぢんまりと育ったんです。おしゃれもしたことなかったし、勉強もろくにできなかったし、遊び回るなんてこともなかったです。
コロラヴィは綺麗なところだし、おしゃれしてようとしてまいと、誰も指さして笑ったりしません。好きですよ」
「僕は君が都会っ子ってだけで腹がたつのに、君は僕の嫌いな田舎が好きだってそんな都会っ子みたいなこと言うよね」
  篠田の機嫌を損ねてしまっただろうか。
  だとしてもどう答えればいいのかわからずだんまりしていると、続きがあった。
「せっかくだから、ナオミの今までの生活の話してよ。そのくそ貧しい都会の話」
「面白いものでもないですよ。最低限のものを確保するのに困るだけの、生活です」
「僕は金持ちの家に生まれたけど、田舎者だからわかんないな。どう困るわけ?」
「えーと……お母さんとお父さんにあたる人が」
「お父さんにあたる人?」
  どう困るか説明しようとしたら、まったく違うところに篠田は興味をもちだしていた。
「私のお父さん、同時におじいさんにもあたるんです。お母さんのお父さんにあたる人で、私はお母さんがおじいさんに犯されて生まれた子だから」
  篠田はちょっと沈黙した。重たい話題だからかもしれない。
  話題の重さとは関係なく、トロイメラーナの夜風は軽やかな気持ちよさだった。
「僕のお父さんもさ……あ、いいや。僕の話題はつまらないから」
「聞かせてくださいよ。私だけしゃべるんですか?」
「そうだよ。君だけしゃべって、僕のプライベートにはふれないでほしいな」
  こう言うときの篠田はやりづらい。
  結局言われてないことは、望んでないこととして処理するしかない。篠田が本当はプライベートに踏み込んでほしいのかもしれないと思っても、踏み込まずにいよう。
  そのかわり自分の話をしようと思ったが、別段面白みもなんもない話題しかなかった。
「都会での生活は……、あ、私の、ですけど」
「わかってるよ」
「朝ゴミを出すんです。カラスがかなり煩いから、ゴミを出すときはカラスに散らかされないように、ちゃんと箱に仕舞います」
「僕、そういう最初から順序良く話さないと結論にいけない子の話聞くの大好きだよ。続けて」
  これは退屈だよって合図だろうなと思いながら、続けろと言われたのでナオミは続けることにした。
「学校に行きます」
「朝ごはんは?」
「ないです。昼に先生がパンをくれるんで、そのごはんが全部です」
「夕飯は?」
「ないです。鞄の中身は教科書とノート、鉛筆と消しゴムと、定規。コンパスと分度器は借りてしのぎます」
「忘れ物じゃなく、最初からないってのがミソだね」
「授業が終わったら、部活がありますが、私は部活に払うお金がないので家に帰ります。宿題を片付けます」
「うん。そこまではワンセットだ」
「お仕事を終えたお父さんとお母さんが戻ってくる前に家事を片付けたら、家を出ます」
「なんで?」
「お父さんが先に帰ったら、私も性的な対象ですから」
「予防か。予防は大事だね」
「そうです。予防は大事です。生理が始まったからといって、攻撃の手がとまるとは限らないんです」
「生々しいな」
  篠田が嫌悪まるだしの顔をして、自分を見つめてくる。
「君のおじいさんとお母さんは、ろくでもない性格なんだろうけど、君の顔はけっこう綺麗だ。きっとモテたでしょ。お父さんとお母さん。そして君も」
「お父さんとお母さんはモテました。私の顔なんて価値ないですよ」
「嘘だよ。みんな学生だから、君に同情していても何もできないだけだ。君はきっと男からは相当モテたと思う」
「絶対ないとだけ言っておきます。女性にももてませんでした」
「ふうん。じゃあどうだったの?」
「汚いって言われました」
「それ美人ってことだよ」
「みすぼらしいって」
「それ着飾らなくても綺麗で羨ましいってことだよ」
「あとガリ勉とか」
「頭もいいのか。あとは?」
「八方美人。誰とでもヤるんだろとか」
「性格美人で、エロけりゃさらに満点だね」
「友達いないのは何もかもお前が悪いとか」
「あっはっは!」
  篠田は膝を叩いて爆笑した。
「そいつらと知り合いになりたかったな。さぞかし着飾らないと美しくも見えない、頭も悪く愛想も悪く、プライドだけ高い奴らなんだろうね。学校じゃ威張れても、結局世間の風にあたった瞬間しおれるの見るまでずっと友達のフリしていたい」
  いい性格しているなと思って聞いていると、さらにふざけた続きがあった。
「なんで都会に生まれてなかったんだろう。君は悪くないよって言うだけでナオミが僕に依存してヤらせてくれそうなのに」
  一周回ってこの利用してやりたかったと宣言するのは親切な気さえした。
「まあいいや。君はなぜか高校に行くはずが、カヴァリーノファミリーに捨てられてた。僕は都会に住んでたら、またヤラせてくれる女の子探さなきゃいけなかったな」
「篠田くんそういうこと好きなんですか?」
「嫌いな男いると思う? 隠してても仕方ないよ。悪ぶっても仕方ないけど」
「私を好きにしてもいいですけど、すぐに飽きますよ。恋人にする価値もない人なんて、ヤることしかできないし」
「ふうん。生憎と僕はそういう関係に君となるつもりはない。だったら他のどうでもいい女の子で間に合うから」
  どうでもいい女の子って誰のことだよと思いながら、喜ぶことも呆れることもできずにナオミは沈黙した。
「しっかし、こういうとき僕はどう言えばいいんだろうね。ついこの前までロッチアブーケでお姉さんの間を夜遊びしていて病気もってるかもしれないけど、僕は君が好きって言えばいいの? 断られるの見えてるでしょ。ざっけんな、過去の僕を殺してきたいな」
「今の篠田くんが死んでますね」
「そういうツッコミいれるか。いいよ、僕このまま飛び降りたい気分だから飛び降りる」
  そう言って篠田の手が、ナオミの近くから離れた。
  ナオミが振り返ると、篠田が落ちていくのが見えた。
  かなり高さがある。骨折じゃすまないかもしれない。
  ナオミは走って波止場の足元まで移動した。
  篠田はけろっとした顔で、何事もなかったかのように立っていた。
「飛び降りただけだよ。びっくりした?」
「かなり高さあるじゃないですか。怪我してません?」
「怪我してないよ。僕は異能のせいで、猫が飛び降りて平気な高さだったら飛び降りれるから」
  篠田はそう言うとナオミの前を過ぎ去り、階段を登りだした。
  ナオミもあとを追うように登る。
  聞きたかった。飛び降りる寸前に言った、「君が好き」の本当の意味を。
  聞いたらすごくがっかりしてもいいから、聞きたいと思った。もしかしたら本当に好意を感じてくれていたらと思った。
  恋愛対象でなくてもいい。親しみや友愛の感情でもいい。
  なにか好きだと感じてくれる理由があったなら、聞きたい。もしかしたらそこを死守すれば、生まれて初めての好意を失わずにすむかもしれないと感じた。
「篠田くん、私のこと好きって言ってくれたのがもし本当なら」
  小声でそう言った。何を守れば、それを失わずにすむかと聞きたくて。
  そしたら篠田は振り返って、眉をよせた。
「聞こえなかった。何?」
「なんでも、ありません」
  思わずそう言って打ち切ってしまった。
  言えばよかったかもしれないと思いながら、二度言うのもちょっと怖くて。
「失礼しちゃうよ。もし本当ならしか聞こえなかったけど、なにか悪口でしょ」
「違います」
「僕の好意なんて信じられないって言いたわけでしょ。知ってる」
「違います。違うったら」
「そう。ならもう一度言うから信じてくれる?」
  ナオミは立ち止まった。
  篠田も立ち止まって、こちらを振り返る。
  向き合うような姿勢で、篠田はなにか言おうとして、黙った。
「僕の機嫌を伺う君なんて大嫌い」
  やっぱり機嫌をうかがっているように見えたのか。
  がっかりしたような気持ちで沈んでいることを覚られまいと、表情筋を動かさないように努力した。
「僕は愛想のよくない、つまらない会話しかしない君が好き。自分のことを話すことを躊躇い、僕がカマかけても乗ってこない臆病で、まったく自分が面白くないと思ってる君が、好き。
  それが恋なのか友情なのか同情なのかよくわからないけれど、ともかくすごく好き。物珍しいとか抜きに」
「なぜですか」
  珍しく語調強く、聞き返してしまった。
  だって、そんな人が近くにいても面白みもなんもないじゃないか。自分にいいところなんて何もないと思って生きてきたのに、自分のいいところを作ろうと思って生きてきたのに、そんなつまらない理由が通るものか。
  篠田は少し考えてるように見えた。
「目立つことしていれば、人気でたり嫌われたりあっさりするんだよ。ナオミは気取らずに付き合うことができるから好きって言えばわかる?」
  篠田はちょっとおいて「僕は君をがっかりさせてばかりだ」と呟いた。
  そしてナオミの手を無言でひいて、車の中まで連れて行った。
  そこでなにかされるわけでもなく、普通に家に帰るまでの道のりをだらだらと車で運転していく。
  篠田はナオミの家の前につくと、ナオミをおろして、そのまま帰ろうとした。
「遅いですし、泊まっていきますか?」
  ナオミとしては最大限、誘惑したつもりだった。
  篠田はまったく気付いていないようで「すぐだよ、帰れる」と言って車をバックさせた。
「そうそう」
  そこで篠田がウィンドウから顔を出してこう言った。
「調子にのらない君も好きって言ったら失礼かもだけど、当たり前のようにのさばってない謙虚な君は大好き」
  そう言って篠田は車を回転させて、坂を降りていった。
  まったく言ってる意味がわからなかった。
  篠田が好きだと言ったところは自分では嫌いなところばかりだった。何も褒めるところがなかったからそう言われたのではないだろうかと思うくらいだ。
  調子にのったら嫌われるんだろうなと思いながら、みすぼらしくしていれば好かれるというわけでもなさそうで、やりづらかった。
  今までの知り合いは、腰を低くしてみすぼらしくしていればなんとかおこぼれをくれたりしたものだ。
  鍵を開けて、中に入る。
  ナオミは先程食器を洗わずでかけたのを思い出し、食器を洗い出す。
  洗ってる最中にさまざまな、人生で嫌だった言葉を思い出す。
  こういうとき、真っ先に思い出すのは嬉しい言葉ではないのが謎だ。
「私のいいところってどこなんだろう」
  そのつぶやきはまったくいいところがないと感じる自分をもっと愚鈍にしたような響きで、押しつぶされそうに響いた。
  少しはいい人になりたいと思ったのだ。
  少しは感謝できる人になりたいと思ったのだ。
  少しは役にたてる人になりたいと思ったのだ。
  幸の薄い人生で、それでも人に感謝したり役にたつことができるいい人になりたいと思っていた。
  結果としてはかんばしくない。
  食器を洗うときでさえ、嫌な思い出の数を数えている。
  そんな自分がとても好きになれるわけがなかった。