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エミリアおばさん

06

 日没が早くなっていた。
  ナオミは勉強道具を鞄に詰めて、篠田の車に乗ろうとした。
「あ、いけない。忘れ物」
「早く取ってきなよ」
  篠田はキーを差し込もうとしたままこちらを振り返る。
「どこに置いたか覚えてるの?」
「えーと、たしかトイレに……」
「女子トイレに忘れてきたものじゃ僕は取りに行けないから早く取りに行きなよ」
  篠田に急かされて、ナオミは忘れたハンカチを取りに行く。
  カヴァリーノファミリーの二階はずれにある女性用トイレを使っているのは主にナオミと、ファウストの愛人くらいだ。
  ナオミが日没を過ぎると帰ることにしているのはファウストと愛人の愛の営みを邪魔するのは気まずいから、というのもある。
  ハンカチを見つけたらすぐに篠田の元に戻ろう。
  そう考えたのに、ハンカチは忘れたはずの場所にはない。
  もしかしてと思って、隣のゴミ袋を漁ると中からハンカチが出てくる。
  いじめだと思うより先に、そのハンカチについた赤いシミが気になった。
  口紅にしては油が多すぎるし、血にしては赤すぎる。肉の破片のようなものが散っている。
  気持ち悪いと思いながら、ファウストのくれたものなので洗ってどうにかできないか試してみようと鞄に詰めた。
  食堂室の前を通過する時、何か音がした。
  誰かがつまみ食いしてるにしては大きすぎる音だ。
  ドブネズミならば追い払わねばならない。
  ナオミは食堂に一歩踏み入った。
  白いワンピースでボロネーゼソースのリゾットを鍋から直接手で掬っては食べしている女性が、ギロリとこちらを睨みつけてきた。
「コリヨノネ! ハヤナニ!トヤハニマ!!」
  何を言ってるのかよくわからない。威嚇されてるのだと言うことはわかってすぐに食堂を飛び出した。
  飛び出した瞬間、愛人の誰かにぶつかった。
「どうしたの?」
  その人はナオミが怯えてるのを察してそう聞いてきた。
「リゾットを手で、食べてる人が……」
  愛人は察したのか、一瞬軽蔑を含んだ笑いをした。
「ああ、ファウストの妹さんを初めて見たのね」
  誰だその人。聞こうとしたその瞬間、腕が脱臼するような勢いでナオミを引っ張る手があった。
「ナオミー!夜のデートしようか! 砂浜しかないけど、砂浜でいいよね!」
  篠田に引っ張られてバランスを崩しながらナオミはなんとか立て直してついていった。
  篠田はナオミを車に乱暴に押し込んで、無言で車のキーを回す。
  砂浜まで無言だったし、篠田の表情は少し険しかった。
  何か見てはいけないものを見てしまったのか、聞いてしまったのか。
  聞けずにいると、浜辺で篠田は車の扉を開けてくれた。
  ナオミを抱えあげてやおらいきなり砂浜に放り投げる。
「ここまで来れび追手はいないかな」
「何の追手ですか?」
「追手? なんのこと? そういう遊びだよ」
  篠田はしらばくれる。
  篠田はしばらくピリピリしたままナオミの近くで伸びをしたりストレッチをしたりしていた。
  ようやく警戒を篠田が解いて、隣に腰掛けたので、浜辺に並んで膝を抱えたまま座り、ナオミは言った。
「ファウストの妹さんって居たんですね」
「その話題に一切触れちゃダメだよ。どんなことがあっても知らんぷりするんだ、エミリアおばさんについて、特にファウストの前で触れたらダメだよ」
「わかりました」
  ともかく触れたらいけない気がしたのはあの瞬間だけで十分だ。
「篠田くんはいつからその秘密を知ってるんですか?」
「僕は小学生の時には既にファウストのお気に入りだよ。お父さんから口を酸っぱくして伝えられたことのひとつは、ファウストの肉親を侮辱するなってことだ。当たり前のことだと思うけどね、僕にとってはそんなの当たり前のことだと思うよ」
「お世話になってる人の肉親を侮辱はできないですね」
「僕は誰であれ侮辱するときは絶縁寸前だと思うよ」
  篠田は気難しい。
  というよりも何が本音なのかわかりづらい。
  何が当たり前で、どこからが立派なのかナオミには判断がつかない。
「何でも当たり前のように行動出来たらなあ……私はどうしても上手く考えたように行動出来ないんです。賢く考える割に、愚かに行動してしまう」
「そんなもんだよ。誰もが訓練なしに行動力ある人のように思考して思慮深い人のように行動できたら、問題なんて殆んど起きやしないよ。僕だってそうだ」
  篠田は一呼吸置いて、こう言った。
「ナオミは何が出来てないと思うわけ? 世の中出来てない奴のほうが多いくせに、周りの出来てないとこ数えて自分の出来てないとこなんて棚上げだよ。何ができてないって?」
「ともかく色々出来ないんです。人を咎める気持ちはしょっちゅう生まれるし、面白い話題も持ってないし、取り立てて役に立つスキルなんて持ってないし、胸はぺたんこだし」
「はいはい、卑屈卑屈。僕だって人をしょっちゅう咎めるし、面白い話題なんて持ち合わせてないし、スキルなんてたかがしれてるし、胸は当然だけどぺたんこだよ。だから?」
  篠田はつまらないという顔をして砂浜にゴロンと転がった。
「ネガな話も嫌いじゃないよ。ずっとそればかりじゃ飽きるだけでさ。何か僕ら、お互いの薄暗い感情以外で共通点探すべきだ」
「わかってます。でも私の話題なんてどれも面白くないし」
「いいよ、僕が盛り上げたりもり下げたりしてあげるから好きに話なよ」
  言われてすぐに話題が思いついたら苦労はしない。
「いい天気ですね。星が綺麗」
「日没早くなったね」
「私、星座の伝説殆んど知らないんです。蟹座が横にしか走れないのにヘラクレスと戦ってこいと無茶言われて死んだことくらいしか」
「僕の大嫌いな英雄の話だね。蟹は死ぬと分かっててヘラクレスに戦いを挑んだ。その勇気を讃えて星座にされた。僕派蟹は勇敢だと思うけど、命令した女神は大嫌いだな」
「篠田くんは優しいですね。蟹に対してそこまで入れ込むとか」
「僕は蟹に命令した女神が嫌いって言っただけで蟹は食用だよ」
  蟹に同情的なのかと思いきやそうでもないらしい。
「そういえばさっきハンカチが赤く汚れて捨ててあったんです」
「ねえ、蟹と女神はもう終わりなの? マフィアの家で赤いハンカチがあったから何? ああ、やっぱりって感じじゃない」
「ミートソースかなって。エミリア叔母様が口を拭いたのかも」
「見事な推理力だね。うちのファミリーならありえる」
「海と言えばアルテミスもオリオンを海辺で射殺しましたよね」
  話題が行ったり来たりしているせいか篠田の機嫌は少し良くない。表情からそう伺えた。
「なのにオリオンはアルテミスからじゃなく蠍から逃げてるね。夏と冬の星座」
「牡牛座はたしか女の人を誘拐しました」
「あれもたしか神様が化けてるんだよ。誘拐殺人殺人教唆、次は?」
「次は……カーチェイスです。アポロンの息子が太陽の馬車を暴走させてゼウスに殺されたから」
「じゃあ次あたりハデスの誘拐とカシオペアへの生贄要求出そうよ。それで次は……」
「篠田くんはギリシャ神話詳しいですね!」
「詳しくないよ。小学生の時読んだきりだ。ナオミ、面白くないよ、どんどん殺しなよ、ギリシャ神話の神々の如く作り話で」
「わかりました。えーと、交通事故でAさんBさんCさんが……骨折しました」
「殺せって言ったのに意気地なし。なんだよ、ネガティブな話題にまたなってる。くそっ、逃れられない宿命なのか」
  篠田は砂を蹴飛ばして起き上がり、悔しそうに喚いた。
「諦めないでトゥビーコンティニューです。交通事故で危機一髪助かったことにしましょう」
「そこから続けるの? わかったよ。交通事故で助かったが彼らは記憶を喪失してしまったとしよう。お互い病院のベッドで寝ている。身の上話をしたいのにお互い記憶がないのでよくわからない」
「わからないって話題で盛り上がります」
「ものの三十秒くらい話題は続いた」
「そこに恋人が飛び込んできます」
「誰の?」
「三人のです」
「幸いにも浮気はバレない。三人とも記憶を失ってるから。彼女は誰かの恋人となり他の二人のことを無視すれば終わることだ」
「一人選びましょう。Cさんに駆け寄ると」
「あざとい女に天罰を下すかのようにABに記憶が戻る」
「篠田くんこの週刊誌みたいな馬鹿な話題いつまで続けるんですか?」
「ナオミのキャラが修羅場になるまでだよ」
「三人の浮気した恋人が記憶を失いました」
「記憶にございませんがあざといな! まあいいや、お話だし。終わり終わり」
  篠田と作った陳腐なショートストーリーはそこで終了した。
  ナオミは嬉しそうに笑った。
「こうやって会話すればいいんですね!」
「まったくダメなお手本だけどそうだね。君とずっと会話出来る僕は天才かもしれない」
「篠田くんはお話上手です。ちょっとだけコツがわかりました」
  篠田は複雑そうな、もの言いたげな顔をしたが、言うのはやめたようで、かわりにナオミの肩を叩いた。
「うん、僕も君が楽しそうだからそれでいいや。コツがわかったならそれでいいよ、僕にはさっぱりだけど」
「私、篠田くんと話すの楽しいです。つまり話題ってのは、相手の話から興味を引っ張ることなんですね。私がああいったら篠田くんがこういうみたいなレシーブレシーブ」
  ナオミがバレーの素振りを空中でやると、篠田は頬杖をついたまま、聞いてきた。
「ナオミって本当に今まで禄な奴と会話したことないんだね。僕といて楽しいなんてさ」
「篠田くん、暗いこと言わないで下さい。私は今とても生きた心地がしてるんです」
「ずっと根暗な話題に付き合って最後これだよ。楽しいなら何よりだけど」
  ケラケラ一人笑ってるナオミの横で何が面白いのやらという表情をしている篠田にナオミは抱きついた。
  嫌われるかもしれないと思ったが、思わず。
「今とても仲良くなれた気がして嬉しいんです」
「へーえ。よかったね。僕も悪い気はしないけど」
  そっと照れくさそうに顔をそむけた篠田におぶさるように抱きついたら、篠田はおんぶするみたいな格好で立ち上がった。
「楽しそうなナオミを送ったら家に帰って寝よう」
「篠田くん、一緒にご飯食べていきましょうよ。私色々作れますよ」
「いきなり人懐こくなって。ビクビクしてた昨日までのナオミはどこだ。ほら、天然酔っぱらい、帰るよ。エミリアおばさんのことは触れちゃダメだからね」
「わかりました。秘密にします」
  篠田にしがみついたまま、楽しそうに笑う。
  篠田の表情は見えない。もしかしたら舌打ちされてないかと思ってふとシラフに戻った。
  調子に乗りすぎたかとしゅんとする。
「控えめなのは体脂肪だけでいいよ。君は少しくらい笑ってるのがいいんじゃないかな」
  篠田はナオミを背中からおろして車の助手席に押し込んだ。
  ナオミは篠田を見上げた。車の扉に手をかけたまま、篠田は少し見下ろしてきた。
  今ならキスしても平気だろうか。
  そう考えるより先に、篠田の唇がナオミのカサカサの唇と重なった。
  篠田は唇を離して「隙あり」と言った。
  車の運転席に座った篠田の膝に手を乗せてみる。
  篠田が困ったようにこっちを見た。
「隙、だらけにしますから。好きにしてください」
「それ何のシャレ?」
  篠田は困ったように眉を寄せると、ナオミのことをヤブ睨みしてきた。篠田が作る表情が嫌悪でないなら何でもよかった。
  好きだと伝えたかった。
  篠田はしばらく睨んだ挙句、「僕ほら、病気持ってるかもだし」と濁した。
  それからしばらく見つめ続けると、諦めたような吹っ切れたような面持ちで、鍵を回した。
「僕の家でもいい? 汚いの嫌いなら他のとこ探すけど」
「篠田くんの家に行きたいです!」
「ねえ、やっぱり少し警戒した方がいいんじゃない? きっと僕、スケベ心出してるだけだよ」
「篠田くんの家に行きたいです。一緒に料理食べて仲良く雑魚寝しましょうよ」
「健全なように表現したね。そうはなるか、ならないよ」
  篠田は車をバックさせながら、少し躊躇したようにこちらを見てきた。
「送り届けてもいいんだよ。このまま紳士的に」
「篠田くんの家に泊めてください」
「くそっ。こんな典型的な誘惑に負けるとか男はおかしい」
  自分でおかしいおかしい繰り返しながら篠田は車を運転する。
  ナオミが楽しくなってきて歌を歌い始めると、篠田は口を歪めて笑った。
「煩悩を砕くようにシューベルトのアヴェ・マリアか。いいね、上手いから歌っててよ、好きな歌だ」
  ナオミは嬉しくなってもう一度一番から歌い出した。
  篠田の家までずっと歌い続けた。
「ついたよ、歌姫」
  篠田の言葉は少し格好つけてて気障だった。
  心地よい風の吹く、10月の夜の話だった。