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ファウストの奥さんとの出会い

 

08

「ねえファウスト。どういうこと?」
  背後の子連れの女性の声にファウストがびくっと反応するのが見て取れた。
  もしやと思っていると、女性はハイヒールをその場で両足とも脱いだ。
  ハイヒールを横に蹴飛ばし、少し距離をとっている。
  何が始まるのかと思ったらその女性は助走をつけてファウストに向かってクロスタックルをかました。
  養父にあたるマフィアのボスが格闘ゲームで敗北したキャラクターのように床で派手にバウンドして倒れる。
  女性はそのままファウストに馬乗りをして彼のシャツを掴んで揺さぶった。
「あんた! いくらなんでもこの年齢の子に手を出すのはなしでしょ!」
「違う。ルク、違う、ルク! ナオミは俺の娘……」
  そこまでファウストが言ったところで、鬼の形相でルクと呼ばれた女性がこちらを見てきた。
「一体幾つのときの子?」
  ナオミのほうを睨んだままそう彼女は言った。
「私は養女です。ファウストに死ぬ前に拾ってもらえただけの、端女(はしため)のような存在ですから」
  なんだか怒らせちゃいけないと思ってナオミはそう言った。
「ナオミは俺の家の前に捨てられた、今養女です。俺の娘!」
「ふうん……」
  絶対零度の冷たさでルクと呼ばれた女性はそうつぶやく。
「私、恋人が何人いてもいいと言ったけれど、さすがに妻にあたる私に無断で娘を増やすってどういう了見?」
  ファウストに馬乗りになったまま、ファウストの妻であるルクさんは夫の胸ぐらを揺さぶった。
「こたえろよ、こたえろ。あたしに黙ってた理由は?」
「う、怒られるから」
「そのとおりだ! このやろう! ばかやろう!」
  ルクはファウストの上で大きくジャンプしながらファウストの胸ぐらをつかんだまま揺さぶってる。
  珍光景に目を丸くしたままにしていると、ナオミの服のすそを誰かがひっぱった。
  振り返ると、ファウストと、今は鬼の形相のルクさんによく似た面影の可愛い男の子がナオミを見上げている。
「俺のお姉ちゃんなの?」
  人懐こそうな榛色の瞳をくりくりさせて、男の子は聞いてきた。
「みたいです」
  名前を思い出そうとする。
  たしか篠田が一度だけ、ファウストJrと言ってた気がする。
「あなたはファウストくん? ファウストJr」
「そう! お姉ちゃんの名前は?」
「ナオミです」
「よろし……」
「いだぁあああああああああああ!」
  養父の悲鳴でナオミとJrはいっしょに父親を振り返った。
  ルクさんが爪をたてて、ばりばりとファウストを引っ掻いている。
「篠田、そろそろ止めてやれ」
  ペトラルカに言われて篠田はバットをルクさんに渡した。
「どうぞ」
「ありがとう」
  ルクさんはにっこり笑うと、バットを振り上げた。
「ギブアップ! ギブアップ!」
  マフィアのボスがギブアップと叫んだ。

 

「醜態晒して悪かったわね。私はルクレツィア。ファウストの妻で、こっちは息子のファウストJr」
  まったく極道の妻らしさのない、子育て中のママみたいな、ポロシャツにジーンズ姿のルクレツィアは応接室でナオミと向き合ってそう言った。
  さすがに親子水入らずに篠田が入ってくるわけもなく、ペトラルカもいない。
  ナオミは初対面の妻であるルクレツィアと実子の存在にいづらさを感じた。
「ナオミ……カヴァリーノといいます。よろしくおねがいします」
  望んでない存在だろうけれど。いらない存在だろうけれど、せめて礼儀正しくしよう。
「よろしく、ナオミちゃん。私はあなたのママではないけれど、親戚のおばさんくらいに思ってくれていいから」
  ルクレツィアはにっこり笑ってそう言った。
「元々私もうちの夫も、一人に恋するタイプじゃないの。だから違う人に違う子供がいても別に困らないわ。さっきあんなトラブル起こしたから、きっとびっくりさせちゃっただろうけど」
  これは言葉どおりに受け取っていいのか。それとも違うのか。
「あとうちのダンナに直接言えないことは私に言ってくれてもいいからね」
「これ以上よくしてもらうことはないくらいよくしてもらってます」
「そう。良かった。これからよろしく。普段はトロイメラーナで子育てしてるから会うことあまりないと思うけれど、番号交換しましょう」
  ナオミはそのとき携帯を見下ろして、先ほどタバコ屋でもらった番号の存在を思い出した。
  しかし今はそんなことをしている場合ではない。
  ルクレツィアの番号を聞き、自分の番号を教えた。
「可愛い子ね」
  ナオミを見てルクレツィアがそう言った。
「手を出すなよ、ルク」
「何変な冗談言ってんの? 親戚に手を出すわけないでしょ」
  夫婦のやりとりを聞きながらナオミは半端な苦笑いをする。
  ソファが軋んだ。振り返ると、ファウストJrが隣に座っていた。
「ファウはナオミちゃんがお気に入りなのね」
「俺、ナオミ姉ちゃんと付き合う!」
「せめて10年前に生まれてから生意気は言え。ファウ、小等部のガールフレンドを忘れるな」
  ルクレツィアに叱られてファウストJrは思い出したような気まずそうな顔をした。
「ごめんなさいねえ。私とファウストの子供だから、どうしても女好きで」
「特にルクの子だからな」
「やかましい私にも似てるし、あんたにも似てるよ」
  仲が良さそうなルクレツィアとファウストのやりとりを見ていると、隣でファウストJrがナオミの手を握ってきた。
  こちらもたしかに色男に育ちそうだ。
  そのとき、扉をノックして篠田が入ってきた。
「お話が終わったなら、ナオミを借りていきたいのだけど」
  彼女は勉強の途中だ。と篠田は言った。
  それが助け舟なことくらいわかっている。ナオミは退席を許されて外にでた。
「いい人ですね。ルクレツィアさん」
  ちょっと怖かったけど、いい人そうだ。
「Jrもルクレツィアもいい人だよ。ファウストもいちおういい人だけど」
  篠田はそう言って、ナオミを連れていつもの部屋に戻った。
  ペトラルカが煙草をふかしながら、ナオミにおかえりと言った。
  どこか安心したような気持ちになった。
  安堵のため息をつくと、ペトラルカと篠田が視線をあわせた。
「まあまあついてきてるんじゃない? このカヴァリーノファミリーに。普通のファミリーじゃボスが妻にひっかき攻撃に遭ったり、バットを振って部下に出て行けって言われたりしないからびっくりしてるんだろ」
  ペトラルカの言葉に違うと言いたいような気もした。
  たしかにそれもびっくりするが、そんなことにびっくりしているわけではない。
  次から次へとどういうことだ? と確認したくなる事実がわいてくるからびっくりしているのだ。
  だけどそれをどう表現すればいいのかわからず、ナオミの口から飛び出した言葉はこれだった。
「ちょっぴりびっくりしました」