09
アリスロッサはシャルルの記憶をひと通り見たあと、これ以上フランカとシャルルの記憶からは自分の死にまつわる情報は読み取れないと思い、一度抜けようと思った。
フランカの言っていたリノとは、きっと最初にサシャの記憶に出てきたあの少年のことだろう。
そこで、この前まで見ていたサシャの記憶にもう一度アクセスしてみることにした。
サシャは日差しの明るく、広いダイニングルームで、晩餐用の大きなテーブルの端に座っていた。
サシャは珈琲を飲んでいた。ふと、カップの乗っていたソーサーを裏返す。
「口当たりのいいカップだけどどこのブランド? え、うそ。無名なの?」
アリスロッサが最初に見たのはそんな朝の光景だった。
パジャマ姿のリノが歩いてきて、サシャの前を横切ると、自分で大きな冷蔵庫を開ける。
目一杯背伸びしてガラスコップをとると、リノはそれにオレンジジュースを注いで、冷蔵庫を閉じる。
リチェルカヴェーラ国のオレンジはやや赤みがかかっている。赤いオレンジジュースをコップに波々と注いで、リノはそれをそっと持ってテーブルまで移動してきた。
「リノくん、座る前にちょっとだけジュースの上を飲むといいよ。でないと、床にこぼれちゃう」
なるべく簡単な言葉を選びながらそう指示すると、リノはちょっとだけジュースを啜り、こぼれない状態にしてからテーブルの上に置いた。サシャとお向かいの椅子によじ登って、高さのあってない椅子でジュースを飲みだす。
「子供用の椅子、出してこようか?」
「あれ狭いもの。僕、ここで飲める」
リノはそう答えると、オレンジジュースの入ったコップを落とさないように慎重に両手で持って、飲みだした。
サシャは感心したような視線を向けると、自分の珈琲を飲みだした。
「それ何?」
「珈琲だよ」
リノの質問にサシャはそう答える。
「お母さんが死んだ飲み物だ」
リノの次の言葉でサシャは珈琲を吹き出した。
「死んじゃやだ」
「リノくん、この珈琲は安全だよ」
「悪魔が珈琲作ると死ぬんだよ」
アリスロッサはリノの言葉が少し気になった。
リノは悪魔と言うときdiavoloではなくdiavolaと言うのだ。
悪魔が男性だと思ってない。女性だと認識している。
リチェルカヴェーラ語はイタリア語と似た文法だ。つまりoで終われば男性名詞、aで終われば大抵は女性名詞。
悪魔は通常diavoloつまり男性名詞だ。例外として、女性の悪魔の場合はdiavolaと言うわけだが。
「その悪魔、知ってたりするの?」
当然サシャもその違和感に気づいたようだった。
「知らない」
リノは即答した。詰問するように本当に? と聞くのは逆効果。そう考えたようで、サシャはその場では何も言わなかった。
リノは体が弱く、すぐに寝こむ。
身体検査と栄養管理はサシャの仕事。それはわかっているつもりだが、子守は全然楽ではなかった。
リノは子供らしくないとサシャは感じていた。
たいていの子供は大人が考えたような絵に描いたような幼さはない。
それでもリノはわざと子供を演じているとサシャは感じた。
この思い出を覗き見しているアリスロッサですらそれは感じた。
絵画療法で描かせた絵には、黒い女の悪魔と、床に転がってる真っ赤な何か。
それが何なのかわかっていても、サシャはリノに聞いた。
「この化け物は何?」
「悪魔だよ」
「ボインな悪魔だね。下に転がってるのは何かな?」
「お母さんだよ」
「そう、残念だね」
黒いのは犯人、床にある真っ赤なのは血を吐いた母親。
「これは見たのかい?」
「見てないよ」
「じゃあなんで知ってるの?」
「知らないよ」
「知ってるんでしょ?」
「知らないよ」
サシャは困ったようににっこり笑った。
知っているんだろう、何故言わないんだ、帰りたいんだよと威圧がこもってなかったとは言わない。
アリスロッサも同じことを考えていた。
(クソガキ。あんたの記憶は見えてるのよ。フランカって姉が殺したんじゃない。)
「本当に知らないの?」
リノに辛抱強く、サシャは聞いた。
「僕は、悪魔のお菓子をもらったから、悪魔の手先なんだよ?」
「悪魔の手先? そしたら何か得なことあるの?」
「殺されない」
リノは一言そうとだけ言って、絵画をくしゃくしゃに丸めてしまった。
「違うことやろうよ。サシャ、これはつまらない」
サシャはついにバティステッラに弱音を吐いた。
アリスロッサもリノの幼さを武器にした賢さは不気味な感じがした。
隠し事ができない大人よりもずっと頭がよい。
自分が心を閉ざした子供のフリをしていれば、安全なのだとリノは知っているからだ。
「よかったわね。そんな一大ヒントをくれるなんて、きっとその子、サシャがお気に入りなのよ」
バティステッラの読みは正しかった。
しかしサシャは早く家に帰りたかったのだ。
そんなことも医学生時代からいっしょのバティステッラにはお見通しだった。
バティステッラはサシャが仕事を投げ出すのを許さなかった。
散歩の時間、ジェラートを買ってもらっている子供がいた。
子供はこのジェラートは嫌いだと床に投げ捨てた。母親はそれを叱ったが、子供が改めるまで殴ったりせずに、それがどうして悪いことなかと説明していた。
後ろに並んでいたサシャにジェラテリアのおじさんが「何味にします?」と言った。
「ストロベリー味と、チョコレート味」
サシャはお金を払って、ジェラートを受け取る。
まだ駄々をこねている子供の横をすり抜けて、数歩離れたところにいるリノのところまで戻ってきた。
「苺とチョコ、どっちがいい?」
「サシャが食べたいほうと逆でいいよ」
「困ったな。おじさんはリノが食べたいほうの逆にしようと思ってたんだけど」
「じゃあ、苺」
サシャはちょうどチョコレート味が食べたかった。
そんなのを見ぬかれてしまったような気がして、リノに苺のジェラートを渡しながら、チョコレート味を食べるのに躊躇した。
苺のジェラートを食べながら、リノは公園のジェラート屋さんから離れた。
後ろでまだワガママな子供の声が聞こえる。
リノの歩くスピードが少し早くなる。
「あいつ馬鹿だ。あんなことしてたら、あのお母さん、きっとあの子を見捨てるよ」
リノがそう呟く。サシャはそうねとも、違うとも言えなかった。
「リノはどうしてそう思ったの?」
そのかわりサシャはそう聞いた。
「あいつがいけないんだ」
ジェラートのコーンをかじりながら、リノは文句を垂れた。
「リノもワガママ言ってもいいと思うよ」
サシャはそうつぶやき、溶けかけた部分のチョコレートジェラートを舐めた。
「じゃあ、ジェラートちょうだい」
「うん」
サシャはジェラートをリノに渡した。
リノはそれを受け取り損ねたフリをして、床に落とした。
こういう試すみたいなことをする子は嫌いだと思いながら、サシャはリノを抱き上げた。
「悪いところばかり真似っこしちゃダメだ」
リノは思わずわっと泣き出した。
困ったのでサシャはリノを抱き上げたまま、ベリーニ家に戻った。
やっと泣き止んだリノを下ろす頃には、太陽は傾いていた。
「チョコレートジェラートが欲しかったの?」
夕日の道を手をつないで帰りながら、サシャはリノに聞いた。
リノは答えない。
「ママが欲しかったの?」
リノは答えない。
「悪いことをしても許してくれる人が欲しかった?」
リノの手に少しだけ力がこもった。
「おじさん怒ったわけじゃなかったんだよ。ジェラートを捨てたことを怒ったんじゃない。リノが食べ物を粗末にしたことを怒ったんじゃないよ」
「じゃあなんで怒ったの?」
「リノが、おじさんは敵か味方か試そうとしたこと」
リノは答えなかった。
「悪魔のこと教えてくれる?」
「教えたら……悪魔がやってくるよ」
「大丈夫だよ。おじさんが守ってあげる」
「本当?」
リノが期待に満ちた視線でサシャを見つめた。
「本当。おじさんは白衣の天使なんだよ? 大丈夫、リノのことを守るから」
アリスロッサはサシャがリノを守る気なんてちっともなかったことや、リノがバラしさえすればそれで解放される、そんないい加減な動機だったことを知っていた。
リノはサシャににっこり微笑み
「疲れた。おんぶして」
と言った。サシャはまたはぐらかされたことを知りながら、小さな主人をおんぶした。
背中で狸寝入りを決め込んだリノにそれ以上サシャが質問することはできなかった。
リノは本当に頭のいい子だった。