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エンツォの企み

 

 

 サシャがリノに手を出す機会……もとい
  リノを静かなところに連れて行ってほしいとのアウグストの要望により、ロッチアブーケより東にあるトロイメラーナという港町の別荘に静養に行くことになった。

 トロイメラーナはリチェルカヴェーラ国の中でも特に綺麗な街だと言われている。
  近くに人魚の住んでいると言われるサンゴ礁があり、白い壁に青い屋根の町並みは見るからに涼しげだ。
  小さな宿が集まってる宿場街と、おみやげ屋以外は別段盛り上がる場所もない、のどかな避暑地だ。
  トロイメラーナには執事のエンツォと、主治医のサシャ、そしてリノだけで来ることになった。
  エンツォが別荘の掃除をしている間に、サシャはリノとトロイメラーナのおみやげ屋を覗いたり、港の船着場を歩いたりした。
  海の見える広場で、干しぶどうたっぷりのビスコッティを買って二人で食べながらのどかな空を見上げた。
「ここじゃ勉強しちゃだめなの?」
  どこか不安げなリノの口についたビスコッティのクズをとりながら、サシャはにっこり笑う。
「ちゃんと運動して、好き嫌いせずに食べるなら、お兄さんとの勉強は続行だ」
「他は?」
「ちゃんと早く寝なきゃだめだよ。あと、朝はお兄さんを起こしてね」
「サシャも早起きしなきゃダメだよ」
  サシャには既に下心があった。リノに対してではない。
  ドヴァーラからロッチアブーケくんだりまで来たせいで、おまけにベビーシッターを請け負ってるせいで、アウグストの視線を気にしてご無沙汰だった女遊びが恋しくなりだしていた。
「あの鳥はどうしてお歌を歌ってるかわかるかい? メスの鳥を惹きつけるためだ。おじさんもたまには歌わなきゃいけない。ということで今日は早く寝るんだよ? おじさんは今夜いないからね」
「サシャは夜、街で歌ってくるんだね。いってらっしゃい」
  何度も母の浮気現場を目撃しているリノはこういうとき大人が何を考えているのかなんとなくわかっていたに違いない。
  サシャが何をしに行くか知りながら、華麗に子供のをフリをして黙認した。
  リノはそれが嫌われない方法なのだと知っていたからだ。

 サシャは夜、街に繰り出した。
  休日を楽しみにきている女性の中には、一夜限りの火遊びを楽しむタイプの女性もいる。もちろん娼婦も。
  ちょうどその夜、小麦色の肌に歯の白い、笑顔が素敵な娼婦と出会えた。
  いい雰囲気になったところで電話がかかってきたとき、サシャは心の中で舌打ちした。
  電話の相手がバティステッラならよかったのに、リノからの電話だった。
「どうしたの? リノくん」
――お歌歌ってるの?
「うん、歌ってる歌ってる。どうしたの? 怖い夢でも見たの?」
「なんかさっきからお腹が痛い」
  主治医としての仕事を放置するわけにもいかず、サシャは娼婦に謝り、一杯のカクテル代を置いて帰ることになった。

 ところが自宅に帰ったら、特に苦しそうな表情でもない天使のお出迎えである。
  この時ばかりはサシャも、仮病をつかって邪魔されたことに少しむかっ腹がたった。
「どうして嘘ついたの? お腹はどうもないし、嘘ついた?」
「エンツォといっしょにいたくない」
  リノは小声でそう言った。
「エンツォは頼りになるよ?」
「エンツォ怖いもん」
「叱られたの?」
「エンツォは怖い顔で見てくるもん」
  エンツォの顔はたしかに少し人相が悪い。
  サシャよりもあっちのほうが犯罪者のように、子供からは見えるかもしれない。
「仕方ないなあ。おじさんは怖くないの?」
「サシャは怖くない」
「おじさんも怒ると怖いんだよ?」
「嘘だ」
  廊下をひたひたとエンツォが通り過ぎて行く。
  リノとのやりとりを聞かれたようで、思わずサシャは気まずそうに見上げた。
  エンツォと一瞬だけ目が合う。
  物言いたげな視線……とは若干違った気がした。
  というよりも、サシャもエンツォの視線を怖いと感じた。
  リノに微塵の愛情も感じていない、冷たい視線おこちらに投げたような気がして。

 翌日、サシャはその視線が気がかりで、リノを連れてすぐに散歩に出た。
  リノははしゃいで白い砂浜をサンダルで走り、サシャはリノが波にさらわれる前に捕まえた。
「お魚、こんなところまで来てる」
「リノくん、お魚スーパー以外で見るの初めて?」
「水族館で見たことある」
「じゃあ、自然のお魚さんは初めてかな」
  サシャはリノを抱っこして、高い高いをして、すぐにおろした。
  誰も近くにいないのを確認すると、サシャはリノと視線を同じ高さにした。
  リノはサシャが用事があって連れだしたことにすぐに気づいたようだ。
「昨日何かあったの?」
「何もないよ」
「エンツォに何かされたの?」
  サシャはエンツォがリノにいたずらをしたのではと疑っていた。
  ところが聞けた内容は予想していたものと少し違った。
「エンツォお父さんのこと嫌いだもん」
「そうなの? 詳しく教えて」
「頭ぺこぺこ下げてるけど、見てないところでひどいこと言ってる」
「へえ、どんな?」
「えーとぉ……要求、お金、口座」
  ああ、お給料の話だろうか。サシャがそう思った瞬間、物騒な言葉が飛び込んできた。
「用が終わったら殺す」
「ん?」
  聞き間違いかと思ってサシャは確認する。
「言ってた言葉だよ」
「エンツォが言ってたの? 嘘ついちゃだめだよ?」
「エンツォが嘘つきだよ。僕、エンツォが笑うたびに怖い」
  サシャは即座にアウグストの元に電話をした。
「息子さんの調子もよくなってきたので、ロッチアブーケに戻ろうと思うのですが」
  アウグストは最初、出かけてまもなく帰ると言い出したことを真剣にとりあおうとしなかった。
「息子さんが、エンツォの不審な動きを見ているんです。詳しくは戻り次第お知らせします」
  アウグストが電話で詳細を聞こうとしたが、ここでエンツォに確認をとられたら危険だと思い、一方的に「明日帰ります」とだけ言って電話を切った。
  不安げに見上げてくるリノを抱き上げて、サシャは元気づけるように言った。
「おじさんが守ってあげるよ。安心していいぞ」
「わかった」
  今度のサシャは本気だった。
  エンツォからリノお守ろうと、本気で考えていた。
  アリスロッサでさえ、このときサシャを少し見なおした。
  この短期間でリノを大切に思うようになっていたことはアリスロッサの誤算であり、何より殺し屋サシャの大誤算だった。