優しくされた経験など……
サシャの妻である、バティステッラは小さな医院を営んでいる。
バティステッラは皮膚科、形成外科、外科。
サシャは心療内科と内科の資格をとって二人でこの医院を開いた。
バティステッラが最初に外科を中心に人の皮膚を縫合することを専門にした理由は単純なものだった。
若気の至りで殺し屋なんて仕事を始めた友人のサシャをいつでも治療できるように。そしてサシャのように道を外した人でも医者に嫌われないように、客を選ばない医者になろうと決めたことからだ。
人を助け続けたバティステッラにも等しく災難は降り注いだ。
医院から帰宅したバティステッラは部屋の電灯をつけた瞬間、ナイフを首にあてられた。
「声をあげるなよ。苦しみたくなかったら」
背後から若い男の声。喉をそらしたまま、バティステッラは声をひそめた。
「あなた……もしかしてサシャの知り合い?」
「あいつのせいで、俺の友達は……」
「そう。サシャが殺しちゃったのね。ごめんなさい。あの人本当足を洗う気がなくて」
バティステッラは勘違いしたまま、非常に申し訳ないことをしたと心から謝罪した。
「償いができるとは思わないけれど、私に何かできないかしら? 殺されたいわけじゃないし、できることがあるならなんでもするわ」
「あんたを殺してやる。サシャを不幸にしなきゃ……」
バティステッラは「そうなの」と困ったように呟いた。
アリスロッサはこの女医は本当にサシャが燕の友人を殺したことで、燕が復讐心に燃えてるのだと信じきったまま殺されてしまったほうがバティステッラは不幸せではないのではないだろうか、と場違いに思ってしまった。
これが燕の勝手な逆恨みの大暴走だと知ってしまったら、魔女コンスタンツァのようなやさしい女医とはいえ、怒り狂ってしかるべきだろう。
「仕方ないわね。私は殺されるしかないなら、仕方ないわね」
バティステッラは心底諦めたようにそう言った。
「私を殺したあとに、冷蔵庫のケーキ持って行ってくれないかしら。サシャは食べないと思うの。今の私にできる罪滅ぼしは、あのケーキをあげることくらいしか出来ないわ。あなた、あのケーキを、私を殺したあと持って帰って」
何を言ってるのだ? この女医は。
アリスロッサは思わず、何か裏があってこんなことを言っているのかと疑ってしまった。
しかし心をスキャンしてみても、そんな気持ちはどこにもない。
本当に、今できることを燕のためにしてあげようと思っているようだ。
「あんたを殺そうとしているんだよ。わかってるのか?」
ぐっと燕はステラの首を腕で締めあげて、憎々しげな口調で言った。
「お前は、女医だ。苦労なんてしたことなんてないだろう! 旦那がいて、金持ちで、きっと愛されて育ったんだ。馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがって!」
ギリギリと首をしめあげれば、バティステッラは苦しそうに咳き込んだ。
ふいに燕はバティステッラを離した。
床にぐったりとしているバティステッラを見下ろす。
「あんたを殺したらサシャは不幸せになるんだろうな。あんたはいい人だ、きっと優しい奥さんだ」
アリスロッサは燕が動揺している理由がわからなかった。
燕には伝わったのかもしれない。言葉を越えて、バティステッラが優しさから燕をいたわろうとしている気持ちが。
「あんたはいい人そうだ。久しぶりに優しくしてくれた人に出会った。だからあんたは、ケーキで許してやる」
燕はナイフを引っ込めると、冷蔵庫を開け、ケーキを手で鷲掴みにして口に頬張った。
「俺が殺しにきたことは、サシャには黙っておけよ?」
口を生クリームだらけにしてそう言った燕にバティステッラは床から微笑んだ。
「あなたはケーキを食べにきただけよね?」
「……ケーキありがとう」
「こちらこそごめんなさい。サシャの分も謝りたいくらいよ」
燕は生クリームだらけの手を服で拭うと、そのままベランダから外へとびだした。
バティステッラを殺さなかった理由はアリスロッサにもわからなかったが、燕にもわかってないようだった。
ただ、この人を殺してはいけないと燕は感じたようだ。
「最後はフランカだ……」
燕は先ほど食べたケーキの甘さがとれないうちから、次に殺す相手の名前を口にしていた。
フランカが最後まで殺されなかったのは、燕にとって一大イベントだったからだろう。