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Anche non la amo. Gia non ti amo.

 

 この世に大切なものなんて、一つか二つあれば十分だと思っていた。
  本当に大事なものは失ってからわかる。
  そんな言葉の意味の価値など知りたいとも思っていなかったし、アジーロを拠点にのさばるマフィアの一つ、蛇蝎社の窓口的な表顧問のボスになるべくして育てられた黒狸には、そんなものが幾つもあったら手に持て余すこともわかっていた。
  そのため、齢35歳まで子供も作らなければ、結婚さえしていなかった。
  自分の役職に相応しい女性を捕まえなければ結婚は檻に繋がれているも同然だ。一人で生きていける女性を見つけなければ常に人質を取られている状態に等しい。
  黒狸は特定の女性と長期的に関係を持つことを大人になってからは避けてきていた。
  だから彼にとって、特別な女性がいるとしたら幼なじみの蝶恋(ディエレン)くらいなものなのだ。
  今の年齢まで喧嘩ばっかりする蝶恋のことをそんなに特別な存在だと思ったことはそれまでなかった。
  恋でない好きを理解するのにはすごく時間がかかるものなのかもしれない。恋でない愛を理解するのには時間がかかるのかもしれない。
  黒狸は『招待状』を受け取ったときにそう感じた。

――玖蝶恋(ジウ・ディエレン)を現在監視している。いかなる状況においても殺す準備ができている。
  招待状は正確には脅迫状だった。
――我々の用意するゲームで三千万ペルノイ稼いでもらいたい。無事稼ぎさえすれば蝶恋の命は保証する。
  ゲーム。どうやらマフィアや金持ちの主催する娯楽、人間競馬に巻き込まれたようだ。
――某日ベルタ・マラスケータにあるトリノホテルに正装して来られたし。参加用のバッヂを失くしたら蝶恋は自動的に殺されるものと思え。
  黒狸は眉をきつく寄せた。
  この手の賭け事が金持ちの間で行われることはうっすらと知っていた。しかし、こんな形で自分が巻き込まれるなんて思ってもいなかった。
  外でインターホンが鳴る音がする。
  カメラには女が二人立っている。
「どなたでしょう?」
  マイクごしに話しかけると、二十代くらいの女が
「あなたの子供を連れてきたのよ。黒狸」
  と言った。何のことかわからず、しかし押し返すわけにもいかなそうな雰囲気でとりあえず扉を開けることにした。
  女の顔に見覚えがあったのもよくなかった。別にそんな遊び歩いていたわけではないが、女の顔は自分好みの幼い垢抜けない雰囲気だったからだ。
「お久しぶりね」
  女はそう言って笑ったが、名前が思い出せない。隣の子供に悪影響にならないように、お久しぶりとはにかむような笑顔を作った。
「こんなこと、本当はしたくなかったのだけれど。今結婚している旦那が明香(ミンシャン)のことをよく思ってないみたいなの」
「おい。そんな理由で連れてくるなよ。迷惑なんじゃない、子供が傷つくだろ」
  子供が傷つかない言葉をなるべく選ぼうとするも、女は早口に「違うの」と言って小声で囁いた。
「うちの旦那、この子に手を出そうとしているの。顔を見ていればわかるわ。だから預かってて欲しいの」
  思わず絶句する。隣にいる少女に視線を移す。せいぜいが子供同士が合意で関係を持つことが許される14歳前後。自分も幼い顔の女が好きだが、さすがに本当の子供を欲望でどうこうしようとは思わない。
  黒狸に囁いた女は、深刻な表情をしたまま
「お願いね」
  ともう一度言って、明香に
「この本当のお父さんが守ってくれるから」
  と言った。おいおい、そんな約束自分はしていないぞと思ったが、自分の娘を無碍にすることもできない。
「いきなり連れてきてしまってごめんなさい。短い関係だったし、一人で育てようと覚悟していたんだけど」
  女は涙ぐむような仕草をして、黒狸の手をぎゅっと握った。
「今でも愛してるわ」
  ごめん。もう愛していないとは言えない雰囲気だった。
「いいお母さんになったね」
  そう言って肩を叩くだけ叩き、母子の別れを見守った。
  玄関に取り残された女の娘、正確には自分の子らしい明香は、こちらを見上げてくる。
  別段怯える様子もなければ、髪の毛が見じければ少年とも言えそうなさばさばした雰囲気だ。
「明香、お腹空いてないか?」
「食べてきたよ。お別れの食事」
  間を置いて、「生みのお父さん」と他人を呼ぶような口調で明香は言った。
  育てのお父さんがどんな男か知らないが、お前に手をだそうとするような男なのだから自分と同じロリコンなのだろう。あの幼い顔の女と結婚しているのがその証拠だ。
「中に入ってもいい?」
「いや、ちょっと中は散らかっててさ……大事な書類とかもあるし、それにおじさんの家、ベッド一つしかないし、女の子を泊めるわけにはいかないな」
「親子じゃん。いっしょに寝ても問題ないでしょ」
  馬鹿を言うな。自分は自覚ある幼い女が大好きな男だ。頭で自分の娘とわかっていても今紹介されたばかりの少女と密着していて興奮しないわけがないし、そんなことに及ぶつもりはないが、さっきの女は悲しむに違いない。
「やっぱりダメだ」
「わかった。中にエロ本あるんでしょ」
「ないです。書類しかありません。大事な書類だらけなんだよ、明香のことを世話してくれそうな人のところに連れていくから、せめてベッド用意するまではそこで泊まっててほしい」
  黒狸は早口でまくしたてると、明香の背中を押してエレベーターに乗った。
  すれ違うご近所のおばさんが、自分がついに性犯罪者になったかのような視線で見てくる。誤解だと思っていると明香が手を握ってきた。振り払うこともできずに握り返す。不振な目はさらに強まった。
  親愛の感情を示してくれるのは幸いだったが、持て余しているのも事実だった。
  弟の雪狐の家は広いが、あいつが潔癖症だとしても不健康な食事と人間にあまり興味のない弟よりはまだ蝶恋に預けたほうがよさそうだ。
  その時頭の中で、先ほど置いてきた招待状のことを思い出す。あんなバッヂが盗まれるわけもないが、明香を早く送り届けたら色々準備しなければいけない。

 

 時刻は八時になっていた。
  蝶恋は家に帰ってきていなかった。豪邸の前で棒立ちして待っていると、明香は退屈そうにこちらを見てくる。
「やっぱりどこか食事でも……」
「お腹いっぱい。だったら漫画喫茶いきたい」
  言われたとおりに漫画喫茶を見つけて初めて入る。会員カードを書いている間に、明香は漫画を読み始める。
「おじさん電話してくるからさ」
「お父さんも好きにしていていいよ。ここでお留守番しとく」
「置いていけるか。電話してくるだけだ」
  黒狸は玄関の外に出て携帯のボタンを押す。そろそろリハーサルが終わる時間のはずだ。
  蝶恋はコール何度目かで電話に出た。
「蝶恋、女の子を預かってほしい」
「無理。私ずっと外で働いてるのよ。あんたの女にノシつけて返しなさい」
  第一声無茶なお願いと告白をしたのに、もう察しがついたとばかりに蝶恋は即答した。
「そうもいかない事情があってだな。とりあえず俺が娘を住ませる環境を整えるまでの間でいい、14歳の女の子だ、家政婦代は出すから預かっててくれるだけでいい。男の一つしかないベッドに寝せるわけにはいかないだろ」
「あんたが床で寝ろ、ロリコン」
「そうですね! そのとおりだよ! お願いです蝶恋サマサマ。こんな図々しいお願いできる女お前くらいしかいないよ頼むよ、俺自分の娘に欲望なんて抱きたくないんだ」
「認めたわねロリコン」
  思わず大声になって周りの視線がざわついたのが見える。明香に聞こえないように声を少しひそめる。
「だって今日紹介されたんです。可愛かったんです。頭じゃ娘だってわかってたって俺の好みの女の娘イコールそんな子なんです。だから俺が環境整えて預かれる心の準備ができるまで預かってください土下座ならいくらでもしますから」
「穴掘って土下座しなさい。今から帰るから一時間後にうちに来て」
  電話は一方的に切れる。
  オペラ座トップの女優にそんな願いをしても迷惑なのはわかっていた。黒狸はため息をつく。
  明香のところまで戻ると、彼女はブースで足を揺らしながらココアを飲んでいた。漫画に静かに目を通している。
  黒狸はインターネットコーナーに行き、リチェルカヴェーラ国で人間競馬が行われているか検索をかけてみた。どんな単語で入れてもひっかからない。まあインターネットに足を残すわけもないのだが、何も手がかりはつかめなかった。

 約束の時間になり、蝶恋の邸宅の中に入ると、相変わらず彼女の家は広かった。土地代の高いリチェルカヴェーラ国でこの広さは恐れ入る。
「うわー。白いし大きい」
  大きなシャンデリアを見上げて明香がうきうきした声を上げる。
  蝶恋はシャツにジーンズというスタイルだった。黒狸と視線を合わせて、「名前は?」と聞いてくる。
「こっちは蝶恋、こっちは明香」
「よろしく蝶恋おばさん!」
「よろしくね明香」
  トップに君臨する女優におばさんと言ったのに彼女は怒っている様子はなかった。
「あなたの部屋を用意したわ。ゲストルームだけど、困ったことがあったら言ってね」
  明香を連れて行きながら、振り返った視線が心底困った男を見るような目だった。
「お父さんはそこで床でも舐めてなさい」
「? なんでお父さん床を舐めるの?」
「お父さんはさっき土下座してお願いするって約束したからよ」
「ありがとうお父さん!」
「いいんだよ」
  笑顔を作って、やっと娘を安全なところにやることができたと安心した。
  明香を部屋に案内したあとに戻ってきた蝶恋は、すぐに手を振って「帰れロリコン」と言った。なんて扱いだ。
「娘をお願いします」
「娘をお願いされたわよ。ずっと預かってられないから、準備したらちゃんと育てるのよ?」
「当たり前だろ」
「手を出したら地の果てまでいってでもあんたのイチモツを潰してやる」
「信用されてないけどそんなことしません」
「どうだか」
  信用は地の底だということは知っていた。

 やっとの思いで家についたのは12時近い時間になっていた。
  バッヂがあると思っていた定位置になく、クッションを持ち上げたりタンスを開けたりして探しまわった。
  もしかしたら服に入れたか車に置いてきたかと思いもう一度戻った。
  やっぱりない――。
  じんわりと汗がにじむ。これはマズイ。あんな星形のバッヂ誰も盗まないと思っていたのは大間違いだった。

 

 いったん家に戻ろう。
  そう決めて、家に戻ると今度は鍵が開いている。開けていった覚えはもちろんない。
  警戒して中に入ると、金髪の少年が部屋の中にいた。おとなりに住むヒューゴだ。
「ヒューゴ! お前また勝手に侵入して」
  思わず胸ぐらを掴む。
「ひい。カウボーイ風のバッヂが格好いいと思っただけだよ兄貴!」
  ヒューゴはそう言って謝るように手を合わせた。返す意図があったにしろ心臓に悪い。
「お前は正直に何をしたか俺に言う」
  視線を合わせ、生まれつき引いている魔女の異能を使った。
  ビリーヴ――たいていのことは相手に信じこませることができる異能だ。ヒューゴ相手には何度も使っている。
「友達に見せてやろうと思っただけですよ! そしたら隣の兄貴の持ち物を勝手に借りるのは泥棒だって言われたから返しに来たんです。それだけですよ、そんな大事なものだって知らなくて」
  何か悪気があったわけではなさそうだ。ほっとしたような、悪気なくされることに困った気持ちになる。
「ヒューゴ、お前子供みたいな真似するなよ。もう14歳だろ」
  こいつも明香と同い年か。そんなことを考えながら、星形のバッヂを胸ポケットに仕舞う。
「兄貴、そのバッヂ大事なんです?」
「ちょっと大人のゲームに必要で」
「ゲーム!? 参加したい」
「馬鹿言えよ。そんな楽しいゲームじゃないんだ。仕事だ仕事」
  口からてきとうなことを言うと、ヒューゴは大人は仕事でゲームをやるなんて楽しそうだなあ……のような視線を向けてきた。
「さあ、帰った帰った」
  ヒューゴを追い出し、やっと自分が食事を食べられる時間になってカップヌードルをすする。
  長い夜だったと思いながら、服が散らかった部屋のどこに明香のベッドを置こうか考えるが、どこにも1DKにベッドを二つ置く広さなんてない。
  引っ越すしかなさそうだ。
  そしてゲームにも参加する必要がある。
  仕事ももちろん普段どおりある。
  とても忙しくなりそうだ。