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Lui lungi da studiare.

 

  篠田葵(しのだあおい)は大きくあくびをした。
  最近出来た恋人との情事にふけりすぎて、本来やるべき学務も睡眠もおろそかになっている。
  これはいけないと思いながら、溺れている自分がいた。
  リチェルカヴェーラ国、コンスタンツァ州にあるトロイメラーナは避暑地として有名な港町だ。
  こんな田舎町、夏休みにしか来る機会はない。夏休みももうすぐ終わろうとしている今、篠田はいい加減宿題を片付ける必要があるとレポート用紙を取り出した。
  成績が下がったところで世話をしてくれているファウストは怒らないだろう。それより遊んでもいいと言ってくれるはずだ。
  だけど自分の几帳面さがそれを許さなかった。
「篠田くん、ご飯できましたよ」
  扉を開けて顔をのぞかせたのは、ストロベリーブロンドの少女だった。
  ナオミは篠田と同じハイスクールに通う、篠田の彼女だ。
「ナオミ、もう少しで宿題が終わるから」
「だから最初のうちに終わらせたほうがよかったんですよ。もう」
「まるで僕のお母さんになったみたいなおせっかいだね」
  ナオミは心配しているのだといわんばかりに不満に顔を曇らせ、そして手に握っていた手紙を差し出した。
「何か届きましたよ。宛先ないけれど、篠田くん宛です」
  篠田はペーパーナイフがないところでこの封書を破らなければいけないことがすごく嫌だった。ぎざぎざした破り方は汚いと感じるからだ。
  そのままゴミ箱に捨ててしまおうと思い、ゴミ箱に捨てるのをナオミがすかさず拾いあげる。
「女の子からのラブレターかもしれないのに捨てたらだめです」
「避暑地にわざわざ? 気持ち悪いね。きっとダイレクトメールでしょ」
「避暑地にわざわざですか? ありえませんよ。私が見ます」
  勝手に開けばいいと思って課題のテーマを考えていると、小さな悲鳴とともに何かが転がる音がした。
「嫌がらせの手紙だった? だから捨てればよかったんだ」
  きっと中から気持ち悪いものでも出てきたのだろう。篠田は靴にぶつかったそれを手でつまみあげた。
  金色に輝く、よくわからない素材の星形をしたバッヂだった。
  その裏側をひっくり返す。
  Aoiと自分の名前が彫ってあった。

 

「『伊勢ナオミをいかなる状況においても殺す準備ができている。
  殺されたくないならば、我々の行うゲーム内にて三千万ペルノイを稼ぎ、支払うように。
  バッヂは参加資格であるため、失くすとすぐにナオミを殺すことになる。
  我々は篠田葵のゲームでの健闘に期待している。
  某日ベルタマラスケータにあるトリノホテルにて第一回戦が行われる。正装して来られたし』
  なんだよ、これ」
  いっしょにバカンスを楽しむためにやってきたマフィアのボス、ファウスト=カヴァリーノはその脅迫そのものの招待状をひととおり読み上げ、現実味のなさそうな声で呟いた。
「どう思う? ナオミが本当に殺されると思う?」
「わからないけれどさ、いかなる状況においても殺すことができる――これはリチェ国民ならありえるリスクだ」
  リチェルカヴェーラ国は治安維持の多くをマフィアたちのオメルタに頼っている。
  国民は自分たちの報復をマフィアに依頼するし、マフィアの報復を恐れて犯罪を起こすリスクを考える。
  篠田はたまたまファウストの眼鏡にかなったらしくマフィア入りしたが、そうでなかったら今頃どこかのエリートになるために夏も猛勉強していただろう。
  つまり、多くをマフィアに頼っているこの国の治安事情は、国民の誰もが安全とは言いがたく、誰もがおいそれと銃を誰かに向けることができない報復があるのだ。
  逆を言うなら、マフィアが銃を向けた者は死ぬことになる。それがたとえ、カヴァリーノファミリーのボスの姪にあたる少女であったとしてもだ。
「ありえるリスクだが、それを犯す目的がわからないな」
  いかなる状況においても殺すことはできるだろう。だが、そこまでしてナオミを殺す意味などわからない。そして、彼女を殺してまで参加させたいゲームの趣旨も明確ではない。
「いたずらかな?」
「いや。たぶん本気だと思う」
  珍しく真面目な表情でファウストはそう答え、バッヂを太陽にかざした。
「これ、何の素材だ?」
「柔らかかったよ」
「まさか金ってことはないだろうけど。葵、これ無くしたらダメだぞ。捨てたりするなよ?」
「わかってるよ。当たり前じゃないか」
  篠田は大事に封筒に仕舞い直した。
「ベルタマラスケータというとカヴァリーノファミリーの傘下が管理しているところだよね?」
「ヴェロニカ=サバティーニがやったとでも? まさか。利益がない」
  ファウストはすぐに自分の部下を思い出して首を左右に振った。
「ヴェロニカが違うとしても、ヴェロニカなら何か知っているかもしれない。少なくともトリノホテルがどこにあるかくらい知ってるでしょ。当日までに調べさせてよ」
「わかった。葵は宿題それまでに終わらせておけよ」
  こういうとき、篠田はファウストに「それどころじゃない」と言ってほしいと感じる。
  しかし自分が動けるわけでもないことで、余計な心配で頭をいっぱいにしても仕方がない。仕方なく部屋へと戻った。

 ナオミは落ち込んだ様子を見せずに「大丈夫ですよ、きっと」と篠田を励ましてくれた。こういうとき、人質本人に励まされる自分とはそんなに頼りのない男なのだろうかと振り返ってしまう。
「ねえ、ナオミ。この問題が解決したあとに七滝を見に行こうよ」
  自分を励ますつもりもあってそう言うと、ナオミは笑って
「篠田くんが失敗すると思ってませんから。わかりました、いっしょに七滝を見に行きましょう」
  と応じてくれた。どこからこの信頼が来るのかもわからないが、篠田はファウストに任せられることは任せ、自分に出来ることをしようと考えた。
  考えて、今はあれこれ不安をふくらませるのをやめることにした。