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兪華と紡紡

 

 染紡紡と書いてらんふぁんふぁん。
  幼い頃教えてもらった許嫁の名前はすごくゴロがよかったため一度で覚えられた。
  紡紡と会える日を楽しみにしていた幼い日の自分。あまりに幼すぎたと感じる。許嫁に幻想を抱きすぎていた。僕のお嫁さんくらいに思っていた。そんなことはなかった。まったくそんなことはなかった。紡紡は「私、兪華のお嫁さんになる」なんて言ってくれなかった。
  それどころか幼稚園児の頃は彼女はモテ期だった。当然高飛車だった。むかつく女だったのは幼少期からずっとそうだった。
  紡紡、紡紡、紡紡紡紡。
  呼ぶたびに返ってくるのは鋭い眼光と罵倒の言葉。ぞくぞくする。この女をいつかは自分のものにできるのだと思うとそれだけで心が踊った。

「この女、いつかは嫌々俺の味噌汁作ってくれるんだぜって兪華は考えてたな」
「そうですか」
  冷めきった湖緑の返事に銀蘭は何故か笑いがこみ上げてきた。湖緑は心底下らない質問をしてしまったことを後悔したような顔をしている。
  兪華の体を乗っ取った銀蘭はその調子でずっと幼い頃から兪華がどれだけ許嫁の紡紡に虐げられてきたのか、そのたびにいつかこの女が自分に跪くんだと思いぞくぞくしたことか、そして今に至るまで彼女はそのドSっぷりを進化させていき、兪華の幻想に落ち着くどころか兪華がだんだんM奴隷化してきていることまですべて湖緑に話した。
  白酒を飲んでいる湖緑はまったくつまらぬ話を聞いているかのように不味そうに酒を飲んでいる。それが楽しくてよりいっそうつまらない話に銀蘭は花を咲かせた。
「で、銀蘭。あなたは兪華さんの体でその紡紡に会ったことあるんです?」
「会ったことあるよ。当然でしょう?」
「彼女どう反応しました?」
「今の君みたいな顔して酒飲んでたよ。ハイヒール舐めたそうにしている兪華の話をしたときの表情が最高だったな」
「そりゃどんな女性だってそういう顔をするでしょうよ。そりゃ当然です」
  湖緑は髪の毛は長いし、筋肉こそついてはいるが、そこまでマッチョというわけでもない。
  一見女のように見える中性的な容姿を自慢に思っている彼に銀蘭は苛々する。苛々するというのは彼が美しいと思っていることに苛々するわけではない。美しいから銀蘭の言い分などに腹を立てる必要はないのだという、その自信が気にいらなかった。
  気にいらないが、彼を精神的に屈服させることはそろそろ諦めていた。むしろ退屈させるほうがずっと彼は不幸そうな顔をする。素晴らしいことだ。
「紡紡さんの写真あるんです?」
「あるよ。湖緑みたいに許嫁に花を送ったりしないけど、お互いナルシストだから写真のやりとりはするみたいでさ」
  携帯の写真を探しながら湖緑を見れば、彼はらくだが唾を吐く時みたいな顔をしていた。あまりの変顔に思わず笑ってしまう。
「これ、兪華さんの許嫁ですか?」
  思わず湖緑が絶句したように見えた。
「君そっくりでしょ」
「本当に同じような女ばかり好きになるんですね」
「黒髪ロングつり目キツめハイヒールの似合う美脚。たいていどれかだよね」
  携帯を受け取りながらまた笑う。何がおかしいのかとばかりに湖緑はつまらなさそうに白酒をすすった。その様子があまりに苦水を飲んでる老人のようで、また銀蘭は笑った。

 

 そんな脳内に住む架空の兄銀蘭と湖緑の会話をずっと聞いていたのがかれこれ一週間前の話になる。
  そういえば最近、許嫁の紡紡に会ってなかったことを思い出し車を飛ばした。
  今すぐ君に会いに行くよ!
  君の嫌がる顔を今すぐ見に行くよ!
  そんな気持ちになりながら。
  兪華は彼女に靴を買っていくのを忘れたことを思い出した。
  しかし財布の中には安物の靴を買うお金しか入っていなかった。カードは入っていたので、高い靴をカードで買うべきか、それとも安い靴を買っていってあえて罵られるのとどっちが面白いか考えた。
  許嫁の男が安い靴を買ってくるだけで自分を不幸だと思ってしまう彼女のその見識の低さが最高に不幸せすぎて兪華は彼女のことが大好きだ。
  たいていのことは悪意あるポジティブで考えれば批判の心はナリをひそめて笑顔がこぼれるということは人生の割りと早いうちに学習した。

 ところが安物の靴を買っていったにもかかわらず、履いてくれる許嫁も蹴ってくれる許嫁もいなかった。
  彼女は現在友達といっしょに出かけたとのこと! 今日は遊びに行くよと言っといたはずなのに兪華のことなど知らないと自分の都合でアポをいれたようだ。
  義母になるはずの向こうの母親は、こちらに気をつかってお茶とケーキを出してくれる。
  まったく美味しいケーキだ。こんな美味いケーキばかり食べて太らないなんて、脂肪の無駄遣いだ。いや、脂肪は足につかれては困る。とても困る。細くて肉付きの程よい足が兪華は大好きだった。

 午後になると紡紡は自宅に帰ってきた。自分の部屋に兪華がいると聞いて露骨に嫌な声をあげる紡紡が予想がついたので、思わず彼女のベッドに飛び込んで自分の匂いを彼女のベッドにマーキングした。
  紡紡は帰ってきて第一声「私のベッドで寝ないで。お前のベッドは床よ」と言った。  まったくしつけのなってない女だ。床を自分のベッドだということを忘れてしまって自分をベッドで眠れるような知能ある生物だという勘違いを起こしてしまったらしい。
  兪華は素直に体を起こし、彼女にベッドを譲った。彼女はシーツを剥ぐと、マーキングしたばかりのシーツを洗濯カゴに乱暴に突っ込んだ。
  兪華はこちらがどんな嫌がらせを考えていたのか先回りして傷つくような行動をとろうとする紡紡が大好きだ。
「紡紡、寂しかった」
  手を大きく広げてホールドしようとした。紡紡は避けた。続いてもう一度ホールドしようとしたら彼女は避けた。まるで人間を襲う熊とカンフーの達人みたいな動きを数度繰り返した。彼女は髪の毛一本触らせてくれなかった。
「兪華。私の私物に触らないでちょうだい。髪の毛一本たりともよ。お前はその髪の毛で何をするかわからないわ」
「まるで人をヘンタイのように……あ、靴買ってきたよ」
「またぁ?」
  彼女は嫌そうな反応をわざとした。しかし靴を買ってこなかったらそれはそれで腹を立てるのだ。靴の形が合わなかったらそれはそれで腹を立てる。靴の形があっていたらそれは当然。男は自分に尽くすものだとこの女はずっと考えているのだ。
「紡紡、さあ。この、安物の、靴で、僕のブーツを踏んでくれ」
「うわあ気持ち悪い」
  心底軽蔑の顔をして、思い切り紡紡は兪華のブーツに足を振り下ろした。
「痛っ」
  声をあげたのは紡紡だった。治安維持隊のブーツなんて金属が仕込んであるのが基本だ。思い切りピンヒールを振り下ろすなんて期待通りすぎて面白かった。
「紡紡は相変わらずだな」
「あんたもね。兪華」
「愛してるよ紡紡」
「何が目的なの? ゴキブリのような男ね」
「何が目的でもそう言っただろ紡紡」
「髪の毛一本もあげないわよ。あんたは夜露のかかる外の犬小屋で寝るのよ。崖に突き落としてあげる」
「生憎紡紡みたいなヒールはぬかるみにハマるんだよ。僕は君がぬかるみにハマっている間に君のベッドに寝ることができる」
「家具屋呼ばなきゃ」
  本日も低レベルな戦いがずっと難航している。
「紡紡君は僕のことを愛してる?」
「あんたは私の許嫁ってだけで私とあなたは肉体関係も持たなければあんたは私にお給料だけ持ってくるって誓ったわよね?」
「いつ?」
「幼稚園のとき。血判書もあるわ」
「どこにある?」
「見せた瞬間燃やすでしょ」
  低レベルな戦い続行中。
「紡紡。わかったよ君には指一本触れないしお給料を持ってこよう。そして君の履きつぶした靴は僕のものだ」
「一回履くごとに捨てるわ。必ず業者を呼んで」
  低レベルな戦い続行中。
「キスしていい? 紡紡」
「キスしてあげるから死んでくれる?」
「寂しい。紡紡」
「キスしてあげるから消えてくれる?」
「紡紡、ずっとその思い出だけで幻想の紡紡の靴を抱いて眠るよ」
「ねえ本当に消えてくれないかな」
「そろそろ帰るよ紡紡」
「何のためにあんたうちに来たの?」
  兪華はこの瞬間を待っていたとばかりにこう言った。
「嫌がる顔が好きでさ」
  びんたがヒットした。

 兪華は紡紡が大好きだ。

(了)