小説 About Me Links Index

02

 失恋くらいで本来の目的を見失うほどニタは愚かな娘ではなかった。
  革鞄の中にリア金貨と薬、本や服、研究用の資料などをどんどん詰め込む。最後にルーン文字を革鞄に書いてコンパクトなサイズにしたら、それを持って部屋を出た。
「蛮族の仲間入りおめでとう」
  兄のイーブイが拍手をしながらそう言った。ニタはこの31歳年上の兄が苦手である。
「兄上様、蛮族の仲間入りとはどのような意味でしょうか?」
「そのままだよ、ニタ。君は空気とかいうものに触れてどんどん汚れるのだろう? そして人間と外交をするだなんて、信じられないね。まるでカーラシェリー派のようだね、腐ってる」
  カーラシェリー派とは、人間界で生活している銀月魔族のことだ。魔族には二種類大きく分けるといる。魔界で生活するシルヴンディア派率いる紅月魔族、比較的人間に対して寛容なカーラシェリー派率いる銀月魔族だ。
  両魔王、オルキス=カーラシェリーとオーキッド=カーラシェリーは仲がよいが、両魔族の間の溝は決して浅いものではない。
「お言葉ですが兄上、私の仕事を侮辱なさるおつもりならば、オルキス猊下(げいか)にご進言なさってはいかがですか? 可愛い妹が蛮族のもとへと下らねばならぬならば、兄上としても不本意なものでしょう。セレス家の名が涜れます」
「吾輩は妹君の出世を喜んでいるよ? しっかりと見聞を広げてきたまえ。よき学者になるためには本以外の知識が必要だ。お前は選ばれたのだよ、非常に僥倖なことではないか。さあ兄にお別れの口付けをおくれ。誉れ高き妹君」
  口の端に笑みを作って、本当にこいつは自分のことを誉れ高いなどと思っているのか? と頭をひねりたくなるような喋りでイーブイは言った。
  ニタはイーブイの指先にキスをして、彼はニタの頬にキスをした。
「行きたまえ。愛しき妹よ」
「どうかお元気で、兄上様」
  ふたりは同時に恭しくお辞儀をすると、そのあとは何事もなかったかのように自分たちの生活に戻っていった。
  このくだりからも理解できるように、魔族というのは簡単な挨拶ですら難解な言葉を使うことがよいことのように思われている。特に貴族階級の魔族たちはそのきらいがさらに強い。
  ニタは歩きながら空間転移のルーン文字を切り、そして魔界と人間界の狭間にあるゲートまで飛んだ。パスポートと任務の紙を関所で提出すると、ゆらりゆらりと揺らめくゲートをくぐった。

――まぶしい、と感じた。
  初めて見る太陽は、とても眩しかった。空は見たこともないくらい青く、そして木々が青々と茂っている。空気、というものがよくわからなかったが、胸がすっきりするような清涼感があった。
「ここが人間界…」
  なんと生命力に濫れた世界だろう。魔界の冷たさも、雷も、薄い日差しもない、あたたかな空と大地。