「葡萄酒はわたしの慈悲だ」
そう呟いたわたしの言葉に、まだ若し頃の君はいとけない笑みを浮かべて
「ありがとう。感謝するわ」
と応えた。
「私からあなたにはパンを。愛をこめて」
シャルアンティレーゼの微笑はどんな豊穣よりも恵みだと感じた。
当時のわたしたちにとって、葡萄酒とパンのある食事はご馳走だったと言える。何より同じ時間をいっしょに過ごすことはどんな料理にも勝る甘美なものだった。
シャルアンティレーゼと出会ったのは夏至祭の季節だ。
この時期、わたしたちの住んでいる地域では火の輪を燃やして女たちが舞い踊る。
踊り疲れて苹果の木の下で寝転がっていたシャルアンティレーゼを見つけたのはそんな時だ。
彼女の足は何もつけておらず、服は田舎娘だった。
髪の毛は今ほど手入れもされていなかった。顔はもっと煤けていた。
それでも一目で素敵な女性とわかったのは、彼女が彼女足り得たからだろう。
わたしはあの瞬間から彼女の虜になっていた。
苹果の木漏れ日の中でわたしに気づかず寝ている少女に恋をした。
わたしは彼女のために詩を書いた。
しかし彼女は詩など興味などなかった。
わたしは彼女のために服を仕立てた。
彼女は「こんな高価なものは」とやんわりと断った。
高価なものも素朴なものも受け取らない彼女に、ならば何が欲しいのかと質問してみた。
シャルアンティレーゼは城の中に咲いている、リコリスを指さした。
「甘いと聞きます。私はリコリスのお茶が飲みたい」
リコリスは当時、魔女の媚薬として飲むことを禁じられていた。
臆することなくリコリスを欲しいと言った彼女は魔法使いの末裔だった。
彼女の欲しがったものはリコリスの粉末、甘い苹果の育て方を書いた本。
そしてわたしに手紙を書くためにとペンと紙を欲しがった。
彼女からはじめて受け取った手紙はインクが滲んだりかすれたりして、まったく読めたものじゃあなかった。
「ごめんなさい」
と言う彼女に、字を教えるという口実ができた。
そして食事をともにする理由も。
彼女はわたしの用意した仮初の根城で好きな本を読み漁り、陽が落ちると蝋燭の火を鏡で反射させて読んでいた。
真夜中になるとわたしの寝台の隣で毛布にくるまって寝ていた。
女と寝るのは当たり前になりかけていたわたしが、彼女を閨に誘うのをためらったのはあまりに信頼されていたからかもしれない。
月明かりでうっすらとしか確認できない彼女の寝顔は、もうこの頃は大人びていた。
ワインは慈悲、パンは豊穣。
これはわたしとシャルアンティレーゼの合言葉だった。
わたしはシャルアンティレーゼに望むものを与える、シャルアンティレーゼはわたしに愛を与える。
シャルアンティレーゼの顔を幼いと感じた日から、彼女が大人びてきたと感じるまで、そう日数は必要なかった。
いや、本当に必要なかったのだ。シャルアンティレーゼは急激に年をとっていった。
わたしが彼女が誰かに呪いをかけられていると気づいたのはその頃だ。
「いいかい、可愛いシャル。君がいつどこで、魔女に呪いをかけられるようなことをしたかはわからない。だけどわたしは君のためになりたいんだ。だからその呪いを手放すと、わたしに委ねると言ってくれ」
シャルアンティレーゼの呪いを解くことなど、呪いの根源である悪魔の親戚のようなわたしには造作も無いことだった。ただし委ねると言ってもらわないことには手も足も出せなかった。
シャルアンティレーゼは聡明な顔で
「ジミー、あなたは人のフリをしているのよ。わたしの呪いを解いては、あなたは村人に殺されてしまいます」
と言った。馬鹿なことを。シャルアンティレーゼの美しさが奪われることが、この夢魔の肉体の死より重要だと言うつもりだろうか。
シャルアンティレーゼは何度頼んだところで首を縦には振らなかった。
美しいシャルアンティレーゼは若さを失うかわりにどんどん賢くなっていった。
シャルアンティレーゼはもはや昔の、無知で無垢な少女ではなかった。
はらりと、ミルクを注ぐ彼女の髪が一房垂れたとき、白髪を見つけたのが始まりだった。
わたしはシャルアンティレーゼを床に押さえつけて
「悪魔と契約しろ」と迫った。
シャルアンティレーゼはうんとは言わなかった。
夜になってもシャルアンティレーゼはわたしを許してくれなかった。
翌朝、シャルアンティレーゼは川へと水浴びへ出かけた。
お分かりいただけるだろうか。わたしはその晩、彼女を抱こうとしたのだ。
臥所に押さえつけたとき、初めて彼女の目が、言葉が、表情がわたしを全力で拒んだ。
わたしはシャルアンティレーゼの乳房を乱暴につかみ、喉から絞り出すように怒鳴った。
「お前を愛しているんだ!」
シャルアンティレーゼは首を縦には振らなかった。
彼女はこう言った。
「退きなさい悪魔よ。汝を私は欲しない」
わたしは彼女の領域を侵犯することをついに許されぬまま朝を迎えた。
シャルアンティレーゼの年の頃はその時三十路を過ぎていた。シャルアンティレーゼは処女だった。そして彼女の実年齢は二十を過ぎたばかりだった。
わたしを拒まれた事実よりももっと大きくのしかかったものは、彼女の目から零れた涙だった。
あの時感動で泣く以外で彼女が涙を流すのを初めて見た。
涙ごときで動揺した自分に驚愕した。
拒まれたくらいで絶望している自分に愕然とした。
そして彼女は川へ行くといったまま消えてしまった。
追いかけようと思ったが、捕まえてどうするのだろうと思った。
閉じ込めるのか? 彼女が「うん」と言うまで。そうして留めた彼女の美しさが昔ほどの輝きを留めているだろうか。
シャルアンティレーゼは急激に老いていく。わたしよりずっと先に死ぬ。
その事実が若い夢魔だった頃のわたしには重くのしかかった。
何故、何故永劫を拒むのかと。
何故、何故わたしを拒むのかと。
その日わたしは彼女と出会った苹果の木の麓へと行った。
苹果は生っていなかった。そこには白い花が夜の風に揺れていた。
誰のことも責めていないとばかりに、可憐に。
苹果の花の甘い香りに慰められたあの日から、どれくらいの時が経ったのかわからない。
少なくともシャルアンティレーゼがわたしのもとを去ってから、わたしはずっと時を数えるのを忘れていたくらいだ。
老婆がある日、わたしの根城を訪ねた。
差し出された苹果に、思わず白雪姫の女王を彷彿とした。
「葡萄酒をくださいませんか。あなたの慈悲を」
老婆が待ち望んでいたシャルアンティレーゼだと気づくのにはそれで十分だった。
彼女はしわくちゃの骨のような手でワインをすすり、わたしは彼女のくれた苹果をナイフで剥いていた。
苹果はひとつしかなかったので、二つに割った。
子宮の象徴といわれる苹果は、女の骨盤のような形をしていた。
「ねえ、ジミー。私、あれから随分と生きたわ。老婆になってからもずっと、この姿で。案外死なないものね。若さなどなくても、誰も振り向かなくなっただけで生きていくのには十分だった」
わたしはこの森から外に出ていなかった。シャルアンティレーゼがどれほどの時を老婆として過ごしたのかわからない。
「でも、私はもう人として生きられないみたい。あなたの家で学んだ黒魔術も白魔術も、すべてこの時代の人々の理解をはるかに超えているの」
「そりゃあそうだ」
「それに、私――お祖父様の遺品で集めなきゃいけないものを見つけたわ。でも悪魔と契約をするというのもつまらないと思うの。くだらない目先の利益のために、魂を売るようなことはしたくない」
「望まぬところだよ。わたしはシャルアンティレーゼの魂を食べたいわけじゃあない」
暴食の下位の夜喰い夢魔だったが、シャルアンティレーゼの魂まで食べたいと思うほど飢えてはいない。
「ジミー、私の肉体の老いを食べてくれないかしら。命を食べてくれないかしら。そのかわり今度はあなたが命を宿すの。そうして苹果の種が木になり苹果の実をつけるように、あなたは命の輪になる。私はあなたを育てる大地になる。あなたの実を腐らせて、また苹果にするための」
「つまりこう言いたいのか。わたしが悪魔を数百年降板して、シャルアンティレーゼがその間魔女になると。それで、最後は?」
「私はあなたがどんな形になったとて待っています。あなたが私を忘れていないならば」
「忘れたりするものか。いいよ、そうしよう。お前が数百年魔女をやっている間、わたしがお前のことを愛する気持ちを忘れていなかったら、そのときお前はわたしのものになるんだ。それでいいかい?」
シャルアンティレーゼはやっと首を縦に振った。
そうしてわたしは彼女の老化という悪夢を食べた。
わたしはそこから老いる身となり、ただの人となり、輪廻を重ねた。
シャルアンティレーゼと定めた契約の時まで、ずっと重ねた転生の中で、何度も恋をして、子を育み、真実の愛だと信じることを繰り返した。
苹果の木の麓で目を覚ましたわたしの傍らには、若い日と同じ姿のシャルアンティレーゼがいた。
「おはよう、ジミー」
しかし透明感のある彼女の声には幼さは宿っていなかった。
それに寂しさを感じながら、わたしも昔のように若さがなかった。
わたしは恋を飽きるほどした。シャルアンティレーゼは恋する気持ちを忘れていた。
「賭けはお前の勝ちだよ。シャルアンティレーゼ」
わたしはシャルアンティレーゼの愛にもう飢えてなかった。
浴びるほどの愛を今は感じていた。
シャルアンティレーゼは苹果にとっての大地であり太陽であり水だった。
「お腹がいっぱいだ」
「暴食の家臣がお腹いっぱいだなんて、あらあら。どのみちすぐにお腹が空くわよ」
「そうしたら君の愛を食べるよ。今度は君が慈悲をくれるだろう?」
「パンを焼くわ。ワインも美味しいものを用意する」
微笑む彼女を抱き寄せて、唇を重ねた。
昔、蠱惑的だと感じた口づけは、今は愛の証明にすぎなかった。
(了)
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