ジミー=サロメ・レッドファントムは魔界の悪魔、夢魔の男爵家に長男として生まれた。
赤い髪は父に似て、緑の目は母に似た。
姉のアメリー=レッドファントムはこの時すでに百歳を超えていたが、歳の離れた弟をこの悪魔の家族は心から祝福した。
彼に悪意の祝福あれ。すべての悪魔に愛されて、すべての人間に等しく好かれる悪意となれ。
よくある名前をつけた悪意は愛されるというジンクスから、平々凡々にジミーという名前を授かったという話はのちのち母から聞いたものだ。
父の立派なヒゲの生えた口でキスをされるととても顔がちくちくしているのを覚えている。
姉のアメリーは自分が物心がつく頃には男色家の話を読むのを趣味としていた。それ以外はとてもやさしい姉だった。
ともかくジミーは、悪魔の家庭でとても愛されて育った。
悪魔に愛情などないと言われているのが一般的だが、レッドファントム家の主である父はきちんとした悪意はきちんとした栄養をとらねばならないとせっせと愛した。
「ジミー、お前はよい悪魔になるのだよ。よい悪魔とは、最大級の苦痛を人間が耐えうる耐久性ギリギリでかけ続ける悪魔だ」
父は優しくジミーにそう教えた。
ジミーは人間から正しく憎しみを摂取する方法を学び、せっせと品位の高い悪魔へと成長をしようとした。
父はジミ―を深く愛した。しかしジミーは途中から自分が悪魔であることに疑問を感じだした。
父が課題にした悪意の歴史も、悪夢法典を覚える授業もサボりがちになった。
執事のラーイが「そんなことではご主人様のような立派な悪魔になれませんよ」と説明したところで、ジミーは首を横にふるようになった。
ジミーは自分で考えだしたのだ。
よい悪魔ってのは、もっとこう、よいことをするのだろうと、漠然と。
よいことが何かもわかっていないのに、漠然と悪いことを頭ごなしに否定しだしたのだ。それは当然、父から見たら困った子供にしか見えなかった。
「お前は悪魔なのだから、人間になることも天使になることもできない」
と説明したところで、ジミーは自分のことを悪魔だと認めたがらないのだ。
父は息子が悪魔の自分を愛せなくなるのではないかと心配で仕方なかった。ジミーが悪魔の自分を否定したところで、ジミーは悪魔なのだ。息子が自身を否定する姿は、父から見たら身を切るほどの辛さがあった。
「育て方が悪かったのかしら」
どこの親でもそう悩むことがある。
「お前が悪魔であることを否定したところで仕方がないのだよ。ジミー、悪魔の自分を愛しなさい」
そう教えたところで、幼心にジミーは否定し続けた。それは彼がティーンの年齢になっても続いた。二十歳を超えても続き、百歳を超えるあたりまで反抗期は続いた。
父はもう諦めた。
「悪魔の家庭にこんな息子が生まれたのは、何かの縁だろう。お前は悪魔として失敗しているが、何かで成功するかもしれない」
父はジミ―が悪魔として欠陥があることも祝福した。
母は立派な悪魔に成長しなかった息子に心底悲しんだが、それも百年経つ間に、もうこの子に何を言っても仕方がないだろうと思うことにしたようだ。
アメリーは古今東西の同人誌を書斎に集めることのほうが、弟の心配よりもずっと大切だった。
父の悪魔である自分を愛して欲しいという願いは届くことはなかった。
母の並の悪魔程度の悪意は持ってほしいという願いも届くことはなかった。
ジミーはある程度の年齢まで清らかな心で成長してしまった。他の同年代の悪魔たちに変人だと馬鹿にされて、悪魔たちとは馴れ合えないと思って人間界に遊びに行くようになった。
悪魔の品位ある貶し合いよりもずっとルールのない人間たちの貶し合いをすぐそばで見ながら、いつか自分の理想に叶う相手が現れるのだろうと夢見ていた。
そうしてその相手は案外すぐに現れた。
◆◇◆◇
イスカリオテのユダも、弟殺しのカインも赤毛だというのは本当だろうか。
だとしたら自分は何を裏切り、何を屠ってこのような髪の色に生まれたのだろう。
鏡を見るたびに自分を育ててくれた父を思い出す。父の髪は炎のように赤い。そしてレッドファントム男爵と呼ばれている。
悪魔たちは夜に働き昼間遊ぶ。
ジミーも例にもれず、夜に魔界で百時間働き、昼に人間界で十二時間遊ぶ。
指が痛くなるようなペンを動かす作業にはやがて慣れたが、それでも書類の内容には眉をひそめることが多かった。
レッドファントム男爵は悪食のベルゼバブの配下にいる悪魔だ。
つまり悪夢とは、夢魔たちにとってこの上もなく美味な食事だ。
ジミーも生まれて間もない頃から、悪夢がどれだけ美味かを教えられた。
悪夢とはどれだけ人を痛めつけても現実に影響がさほど出ない。そして人間の苦痛をたくさん食べることができるという、最高のフィールドなのだと教えられた。
アメリーは男に淫夢を見せるのが大好きだ。男の罪悪感はひとしお美味しいのだといつも言っている。
さて、話を戻すとしよう。ジミーは毎夜百時間働き、十二時間昼間に遊ぶ。
ジミーは昼間に人間界で美しい景色を見るのが好きだった。
南の海はエメラルド色でとても美しいと思ったし、南米の滝は荘厳だと感じた。砂漠の静謐とした空気も好きだった。雪国の凍てつく空気ももちろん好きだ。
何より好きだったのがイギリスの田舎の景色だった。イギリスの庭は芸術的だと感じる。
こんな場所にずっと住んでいられたらどんなによかろう。
そう思って田舎に小さな家を建てた。
その地方では夏至の時期に苹果でシードルを作る習慣があった。夏至祭と呼ばれる日に、収穫を祝い乙女たちが歌ったり踊ったりする地域だった。
ジミーがシャルアンティレーゼという女性を見つけたのはその時だ。
十六歳になったばかりのその少女は、踊り疲れて苹果の木陰で眠っていた。
田舎娘の格好だった。顔は煤けていたし、足は裸足だった。
それでもジミーがその少女に一目惚れするのには十分すぎた。
なんと美しい魂だろう。
今まで美しい女性、永久に美しい魔女や悪魔はたくさん見てきたが、こんなに美しい魂をもつ人間をジミーは見たことがなかった。
その魂はクリスタルでできた雪の結晶のような核を中心に、まばゆいばかりのやわらかな光を放ち輝いていた。
見惚れてずっとその場に立ち尽くしていたジミーの目の前で、彼女は目をこすって起き上がった。
そして寝惚けたまなこでジミーを見上げて、目をぱちくりとさせた。
「あ、いや……」
こんなときどう言うべきなのだろう。綺麗な魂だね。と言ったら変な人だと思われるし、顔を褒めるのも違う気がした。
「何か、ご用事でしょうか?」
透明感のある、氷をグラスにぶつけたような音色の声で首をかしげられた。
ジミーの心臓は高鳴り、どうすればいいのかわからず言葉に詰まった。
「そのお召し物から高貴な方と見えます。もしかして村のはずれに住んでいる貴族様でいらっしゃいますか?」
彼女の言葉に思わずこくりと頷く。
ここまで言葉が出て来なかったことが初めてで、ジミーは内心変な人に見られないか焦った。
「村のはずれに住む貴族様、私はシャルアンティレーゼと申します。もしご用事がないのであれば、私はお暇したいのですが、何かありましょうか」
「君と話がしたい」
足早に去ろうとしたシャルアンティレーゼに早口でそう言った。シャルアンティレーゼは驚いたような顔をして、そのあとはにかんだ。
「ではお話をしましょう。名前を教えてください、貴族様」
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