ペンのインクが詰まった。
  オレンジ色の灯りで照らされている、ジミーの執務室は召使いたちによって今も綺麗に保たれていた。
  三百年も仕事をサボっていて、当然仕事はたまりにたまっているだろうと思っていたが、案外アメリーが処理してくれていたようで、いつもの仕事量とほとんど変わらなかった。姉に感謝感謝の日々だ。
  羽ペンをランプで炙り、インクが出るようになったのを確認するために、宙にシャルアンティレーゼの名前を書いてみる。
  ローベアバオムシャルアンティレーゼ・アンブロジウス
  シャルアンティレーゼのフルネームを魔法のように唱える。
  こんなに好きなのに自分から攻めるのに臆病になることなんて滅多にない。
  美しい魔女、清らかな愛しい人。

 扉が開く音がして、振り返ると書類を持った執事のラーイが入ってきた。
  ラーイは宙に書いてある文字を見ると、ひとしきり大きなため息をつく。
「ベルフェゴールの事務所並の欠勤率かと思ったら、戻ってきてまじめに仕事をすることもなくラブレターですか」
  そう、呆れたように呟いた。
「魔界はもうちょっと休んだほうがいいよ」
「万年人手不足なのに人間は増える一方です。おまけに人は少しずつしか成長しない。天使は暇で、悪魔は多忙です」
  そんなことはわかっている。
  ふてくされた表情をするジミーの横に、ドスンと資料の山が置かれる。
「書類、ここに置いておきますよ」
「さっきからこの黒い棒はなんだろうと思ってるんだけど」
「万年筆です。羽ペンよりインクが切れない工夫がされているんですよ。時代錯誤なあなたにはわからないでしょうけれど」
  三百年の間にそんな便利なものが開発されたのか。そのうちボタンを押すだけで書類を書いてくれるような何かが開発されそうな気がした。
「はいはい。俺は化石のような悪魔ですよ」
「悪魔としての自覚は生まれたんですか? 坊ちゃん」
「全然。いまだになんで悪魔なんでしょう、って感じだわ」
  椅子の背もたれに体重を預けて、ため息をつく。
  ラーイは憐れむような視線を向けてきた。
  別に憐れんでくれと言ったつもりもないのだが、古くからこの男爵家に努めている悪魔だ。ラーイが自分のことを心配してくれているのはよくわかる。
「悪魔なんてやめておしまいなさいと言ってさしあげたいところですが、そうもいきません。男は男の役目があり、女にはなれないように。人間が受肉した意味があるように、悪魔には悪魔としての意味がございます」
「わかってるよ。つまりこれは俺の魂の課題なんだ」
「そうですとも。きちんと悪魔としての学びをしてくださいませ」
  ラーイが書類を指さしたので、その書類に目を落とした。
  羅列してある悪夢単語。
  人にぞっとする夢を見させるのがジミーの仕事だ。
  こんなことするより今すぐシャルアンティレーゼのところに行きたいのになあと思いながら書類に万年筆を使ってみた。
  案外インクがよく出ることに驚いた。

 

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